「
刎ね首に 化粧施す 娘知る 戦の日々の 無常と愛を」、「たまたまに 生まれて死ぬを 知るほどに 今日の日和の よきを喜び」、「気になるを ネットで調べ 実となり その種撒いて 気の花咲かせ」、「面白き ことなき日々も 襟ただす 消え行く人の 忘れらるを見」
家内と出かけた去年12月2日の神戸行き、今日は
先月30日の投稿の続き。まず最初に地図を掲げる。左上隅のCは柳原蛭子神社で、アルファベット順に歩いた。赤い線の西国街道のみを歩くならばCDHと東進すべきだが、当日の最大の目的はFの博物館で、DEFと歩き、帰りにGに寄り、そして往路とは違った道筋でHに着いた。そこから北進したことは後日書くとして、DとHの間の黄色で記した西国街道は歩かなかった。これは復路でDに戻るつもりであったのに道を間違えたためだ。それはともかく、今日の写真はDからEに向かう途中、たまたま西側の歩道を歩いて見かけた能福寺の大仏だ。DEの道は現在古湊線と呼ばれ、昔からあることが想像される。道幅はやや広く、道沿いに高層のマンションなどはなくて見通しがよい。しかもゆったりとした敷地の寺や工場が目立ち、昭和30年代と言えばいいか、独特の雰囲気がある。ネットで明治半ばの地図を見ると家が密集していたが、戦災で焼け野原になり、その後は倍ほどに広げられた幹線道路が十字形に通った。江戸時代以前から基本的にこの地区の道は変化がないはずで、しかもDE間は西国街道ではないがそれに直結し、歴史的に重要な人物が歩いたことが確実だ。そのことを神戸市はもっと観光誘致の材料にしてよい。写真に戻ると、大仏は石像で、淡路島にあって先年取り壊された観音像のように立ち姿かと思ったが、ネットで調べると高さ11メートルの金属製の座像だ。戦前にあったものは金属供出でなくなり、戦後その材料の確保された一部を混入して新たに鋳造された。能福寺は天台宗で、最澄が中国から帰って来た時に庶民に歓迎されてこの地に立ち寄ったとされる。ただし同寺のホームページによれば最澄の時代から400年ほど下がって平清盛がこの寺に帰依し、福原京を代表して福原寺と呼ばれたという。平家滅亡後は破壊され、明智光秀の臣が1599年に再興し、現在の場所に移った。それ以前は一本西側の、現在は倍ほどに道幅が拡張されている住吉橋線沿いにあったことが古地図からわかる。したがって最澄や清盛はDE間を歩かなかったと考えるのは早計で、この海の近くの縦横の道をよく歩いたと考えるのが妥当だろう。現在は阪神高速が走るためにこの地域の道路は区画整理でかなり変化した箇所はあるものの、ほぼ古地図どおりに残っている。最澄や清盛が西国街道を歩いて京都まで上がったのか、それとも大輪田の港から船で大坂まで行ったのか、いずれにせよ能福寺の前の道を歩いたことは確実だ。ついでに書いておくと先月30日に紹介した神明神社は一時期この寺が世話したとされる。
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