「
頽落の 社殿再建 神の意思 人のみ知るや 神の存在」、「Y字路に 船に見えたる 小神社 日の丸色の 鳥居も添えて」、「街道に 標の社 またありて 古人の 願い伝わり」、「神仏を 拝む童の 姿見て 神も仏も 笑むと信じる」

昨日の2枚目の写真を撮った場所の奧に続く西国街道を50メートルほど行ったところにまたY字路があり、西国街道の左手に今日の写真の神社があった。日の丸と四角いロゴマーク、そして「北前船寄港地「兵庫津」日本遺産認定」の文字のある一対の真新しい幟旗が街道沿いの石鳥居前に立てられていた。これは兵庫津およびその付近の西国街道を観光名所として大いに宣伝に努めている神戸市ないし兵庫県の思惑によるものであろう。同じ幟は柳原蛭子神社にもあったかもしれない。筆者は西国街道歩きを4,5年前に京都から始めて断続的に行なっているが、特に京都は歴史遺産が多く、観光客目当てにわざわざ西国街道の宣伝をする必要がないか、あってもその予算は後回しされるだろう。西国街道沿いに古墳が点在する高槻では古墳公園を整備し、観光名所にはひとまずなっているし、同様のことは茨木市でも実施されつつある。近隣のそういう動きを見てのことではないが、神戸市が観光に役立つ地域として兵庫区を見定め始めたのは2012年のNHKの大河ドラマ『平清盛』が大きな契機になったと想像する。当時の神戸市は大方は阪神淡路大震災の被害から立ち直っていたと思うが、その景気づけの意味合いから大河ドラマで平清盛が取り上げられたのだろう。何年前か忘れたが、神戸市では平清盛に因む展覧会があって筆者は見に出かけたことがある。それも含めておそらくここ20年ほどの間に兵庫津の存在を全国的に知らせることが画策されて来たのではないか。三宮や元町の山と浜のみが神戸ではないとの思いがあるのだろう。実際そのとおりで、須磨と三宮の間の兵庫区や長田区は震災後の復興に伴って存在感が高められて来たように思う。兵庫区では幟に記されるように「兵庫津」が特に有名で、その次に西国街道となるが、惣門のあった柳原蛭子神社くらいしか見どころはなく、また同神社の本殿は何度か建て替えられ、いずれ重文や国宝に指定される建物はない。それに西国街道はJRや阪神高速道路によって途切れが目立ち、高槻や茨木の市内のようないかにも古い街道を偲ばせる建物もない。その点はまがほとんど歩いていないが、神戸市内全域がそうではないかと思う。その理由は全くの勝手な想像だが、伊丹辺りから東は西国街道で京都につながって人の往来が多かったことに比べ、現在の兵庫県内の尼崎や西宮、神戸は一体化として機能していたからではないだろうか。江戸時代を思えば尼崎は大阪府に含まれてよかったのにそうならなかったことからもそのように思う。伊丹辺りの西国街道の東西で雰囲気が大きく違うかどうかは今後の踏破で確認したい。

神明神社は取り立てて見どころがあるものではない。柳原蛭子神社と同じくY字路に位置し、西国街道沿いであることの歴史の古さを伝える。玉垣の親柱には「神明自治会」と彫られるが現在の地図に神名町の名はなく、昔の自治会の有志が玉垣の建造費を用意したのだろう。お祭りが行なわれるほどの大きな神社ではないようで、少子高齢化であれば今後の維持管理が懸念されるのではないか。自治会の存在は京都でも安泰ではなくなって来て、わが自治連合会では14の自治会すべてが加入世帯の減少を続けている。赤十字や共同募金などの各種の寄付を断る家庭も増え、氏神である松尾神社の恒例の「ひとがた」の奉納も世話しない自治会がある。そういう現実の一方、江戸時代は現在よりはるかに人口が少なかったのに社寺の運営は行なわれていたから今後も心配はないと考えもするが、そこには信心、信仰の変化の要因の無視がある。とすればこの神明神社の存在に感心する。以前何度か書いたが、わが自治会内の法輪寺境内の稲荷神社に昔は近くの嵯峨嵐山の商人はよくお詣りしたそうだ。世代が変わって世話する人がほとんどいなくなり、祠は傾いて荒れるに任された後、数年前に立派に再建され、しかも周囲に金網が張り巡らされて参拝が出来ないようになった。世話する地元住民がいないからだろう。筆者が自治会長をしていた頃、同神社を再建し、自治会住民が交代で清掃などの世話をしてほしいと古老から頼まれたが、自治会に宗教を持ち込むなの意見があり、また誰が世話するかの現実的な問題から実現の見込みはなかった。法輪寺は自前で再建したが、初辰参りをする気のある地元商人はもう誰もいない。神明神社のホームページはないが、ネットに詳しい説明がある。伊勢神宮と同じ天照大神と豊受大神を祀り、また東に外宮、西に内宮の二社が祀られていたことが元禄時代の記録にある。平清盛の時代に兵庫津が整備され、海運業者が集まったので海上安全の神の猿田彦大神が合祀されたともあるが、猿田彦大神が海上安全に関係するとは知らなかった。瀬戸内海の航行の神様は金毘羅が代表と思うからだが、神様にも縄張りがある。一方海辺に祀られる神はえびすが普通かと言えば、それは海の恵み専門で、航行では話は別か。青木繁が描いた「海の幸」と「わだつみのいろこの宮」からはさらに別の海に因む神が思い浮かぶが、ある神社が複数の御利益を謳うのは普通のことで、猿田彦大神は水陸ともに道案内に長けていたと思えばよい。現在の「神明神社」は内宮のみ残ったようで、その際にせせこましいながら真新しい「神明稲荷大明神」を祀る。地元の商店主などが訪れるのだろう。「柳原蛭子神社」にも稲荷社はあるが、そこにはもっぱら阪神高速以西の住民しか訪れないのではないか。住民にも縄張り意識がある。それが阪神高速が出来てより鮮明になったのだろう。

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