「
溢れ過ぎ アプレゲールの 無責任 スーダラ節の 昭和の平和」、「お見事と 囃子立てらる 割腹は 恰幅よきに 辞世語呂よし」、「流されし 蛭児育ちて 蛭子神 庶民納得 神の子は神」、「棄てられし 不具の子どもの 憐れさに 財の神とし こぞりて崇め」
一昨日掲げた地図のC地点に位置する柳原蛭子神社については
5年前に3回に分けて投稿した。去年12月2日の再訪ではわずかに立ち寄って写真を撮った。今日はそれらを紹介する。同神社のていねいなホームページがあり、先ほど全ページに目を通した。てっきり「やなぎはらえびすじんじゃ」と思っていたが、「やなぎわらひるこじんじゃ」と読むことを知った。「えびす」はさまざまな漢字をあてるが、「蛭子」は「ひるこ」とも読む。これは「蛭のように手足のない子」の意味で、「蛭児」とも書き、ホームページによれば古事記や日本書紀に登場する。日本の国を創生したイザナギとイザナミとの間に生まれた双子がいずれも3歳になっても手足が不自由で、それで葦舟に乗せて海に流したとされる。その後に生まれた健康な子どもが日本の各島を創ったとされるが、この話を本居宣長がどのように読み解いているのか気になる。話は変わる。一家に不具者が生まれ、家族全員がその子を大事に育てると家が反映するとよく言われる。筆者は身近にそういう例をふたつ知っている。ひとつを紹介する。田舎出のきわめて貧しい女性が京都に出て来て母と一緒に暮らしながら慎ましく働いていたところ、地元の有力者の息子に見初められ、結婚した。ふたりの男児を生んだが、長男は3,4歳の頃に頭に深刻な病を発症し、何度も手術を受けながら2,3年後に死んだ。その後家族は以前に増して金持ちになり、経済的に何の不自由もない暮らしを今も続けている。筆者は一度だけその病気の長男に出会ったことがある。道の向こうから母の手を握ってこっちに歩いて来たのだ。噂に聞いていたとおり、頭は倍ほどに大きく、しかも手術で縫った跡が目立って痛々しかった。ところがその色の白い優しい印象の子は、はにかみながらも母と歩くのがとても嬉しそうで、筆者は擦れ違い様に2秒ほど見ただけだが、今もよくその男児の顔を思い出す。その点、イザナギとイザナミはえらくドライで、まともに育つ見込みがないと考えて3歳で手放した。だが「蛭子」と形容されることは手足がなかったかもしれない。それでは自力で生きられず、苦労するよりかは死んだほうがましと思ったことも理解出来る。現在ならば出産した途端に医者たちは母に見せずに処分する。そういう話を何かで読んだ。となればイザナギとイザナミはまだわが子の成長に希望を持った。流された子どもは現実的に考えると1時間もしない間に海に沈んだはずだが、たとえ漁舟に拾われてもまた棄てられたであろう。つまり死ぬ定めにあった。ところがやがてその「蛭子」が「恵比須」の神に生まれ変わったと信じられるようになる。
それは両親の願い虚しく、短い命に終わった子どもに対する懺悔の気持ちが反映しているだろう。菅原道真を天神様として祀ることも同じで、非業の死に追いやった側としては神として崇めることで罪滅ぼしを考える。海に流された「蛭子」が笑顔を絶やさぬ海の神の「えべっさん」となって現在も多くの人の参拝を受けるのは当然のなりゆきだ。そこには日本に限らず、世界共通の人間の贖罪の気持ちがある。また記紀にその「蛭子」の話が登場することは作り話としてはとてもよく出来ている。イザナギとイザナミとの間に最初から健康優良児が生まれ、そこから日本が形作られていったという内容であれば、何となく白ける。現在でも「蛭子」の生まれる確率は非常に小さいはずだが、そういうことを国家の創生物語の最初に置いたことはとても奧が深い。話は少し逸れる。筆者は長男で妹がふたりいるが、筆者の1歳下として男児が生まれた。母によると生まれた時に泣かず、鼻から細い血の筋を一本流して、死産であった。鼻柱が筆者と同様にしっかりとして高く、色白で筆者よりもきれいな雰囲気であったそうだ。その弟が生きて成長していれば筆者はどのような人生を歩んであろう。筆者は女に囲まれて育ったので、他人から逞しいと言われたことがないからだ。だが運命は受け入れるしかない。不遇に育った者が世間的に成功者となることは多いと筆者は思う。親の七光りとやらで子どもの頃にちやほやされた者は、筆者の知る限り、全員ろくでなしになった。そう思うので筆者は家業が政治と言われる政治家や芸能人の二世や三世は大嫌いで、同じく全員平均以下の人間と思っている。だが才能、能力に乏しい人を差別する気は全然ない。彼らは彼らなりに懸命に生きての現状であって、頑張れと鼓舞したところでそれ以上に頑張れない。さて柳原蛭子神社だ。思ったとおりに阪神淡路大震災で被害を受けた。今日の最初の写真の本殿は明らかに鉄筋コンクリートだが、内装は木材をふんだんに使っている。華麗かつ頑丈で、戦前の木製とりははるかに貫禄があってよい。本殿前の舞殿の写真は5年前に巫女が剣を持って舞った際に撮ったので省いた。本殿右手に朱色が真新しいのは5年前にも撮った西本稲荷神社で、境内敷地はY字路の先端にある三角形であるので、西の大鳥居もこの稲荷の七連の鳥居も片隅に追いやられたせせこましさがある。3枚目の写真は西国街道沿いの石の鳥居をくぐってすぐの手水舎の隣にある「水神社」で、雨乞いのためだろうか。水害に遭わないことを祈るとすれば近くに大きな川があるはずだが、この付近は海辺に近く、津波の心配があるか。だが阪神大震災で神戸に大きな津波はなかった。境内図によれば東端にえびすの石像やかなり古い石燈籠があるが気づかなかった。本元の西宮神社の規模にははるかにかなわないが、独特の存在感があって好ましい。
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