「
儒の教え 需要は失せて 徳もなし 威勢よろしき 為政の風呂敷」、「口元を への字の達磨 黙るほど しゃべりたきこと シャベルいっぱい」、「ぺらぺらと しゃべる男は ペテン師と ぺえぺえ使う うすぺら言葉」、「しゃべらぬを 暴力と言い 寡婦さびし 死別夫の 冷たさ恨み」
先月22日に国立民族学博物館で見た展覧会について書く。
春はモンゴルのここ100年の変化を主に写真で紹介する展覧会であったが、その時の実行委員会ではモンゴルのヒップホップ音楽を研究している島村一平が中心になった気がする。本展では言語学の教授である菊澤律子がその役目を担ったように想像する。民族学博物館にはさまざまな専門家がいて、彼らは順に研究成果の発表の場を兼ねて春と秋の企画展示に携わるのではないだろうか。それは美術館でも同様だろうが、大多数の観客を集める企画展を行なえば美術館もその企画の発案者も潤い、時代が求めているものを察知する能力が学芸員らに求められる。それが後追いでは企画展示は二番煎じ的なものになるから、世間より少し先を進んでいるのがよい。その点、島村が専門とするモンゴルのヒップホップは日本ではどの程度歓迎されているかだが、民族音楽的流行音楽として捉えれば、発展途上国から今後続々とそのような音楽が出て来るはずで、そうした流れのひとつの指標にはなるが、欧米の流行音楽と同列に見るまでにはならない気がする。それは日本のニュー・ミュージックが海外で現在評価されながらそれ以上の大きな動きにはたぶんならないのと同じで、世界的に見ればローカル性が一時的に注目されるだけのことだ。ただし、わずかな学者が仔細に分析する面白さは保有し、そこに一般市民の知的な層はそれなりに反応する。さて、本展はチラシに「HOMO LOQUENS」の言葉がある。これは「しゃべるヒト」の意味だ。「しゃべる」は「話す」と同じ意味だが、違う言葉があるのは意味に少しでも差があると認めるからだろう。「しゃべる」は「る」が入っていて、相手がいなくてもひとり勝手に言葉を発するイメージがある。「話す」は相手がいてのことだが、その相手が自己の場合もあって、その点では「しゃべる」と「話す」は同一に捉え得る。本展が「話す」ではなく「しゃべる」とした理由は知らないが、「話すヒト」では堅苦しく、「しゃべる」のほうが人の意識を集めやすい。とはいえ、「しゃべる」をテーマに何をどう見せるかとなれば、人間の基本的な能力であるので多岐にわたり、実際本展はあらゆる角度から「しゃべる」に関することを紹介し、まとまりに乏しい印象を与えた。それは仕方のないことだ。企画者もそれを充分知りつつ、現在の研究で「しゃべる」行為を研究者がどのように関心を持っているかのおおまかな地図を見せることに意義があると思ったのだろう。鑑賞者も何かひとつでも思いに留められることがあればよい。
会場内の各コーナーはすべて手話で説明するモニターがあった。またゲーム感覚で自分の能力を試すことの出来るコーナーもあって、会場はいつも以上に子どもの姿も目立ち、賑わっていた。筆者と家内がまず試したのは大きな画面に表示される10ほどの言葉から知っているものをタッチして行くゲーム的なコーナーで、これで挑戦者の語彙の数がおおよそわかるとされていた。筆者は18万語ほどという結果が出たが、70代では17万語が平均とあった。年齢が高いほどに語彙は増えるが、高齢になれば認知症が増え、語彙は減って行く場合がある。そのため、70代の語彙力がヒトとして最も大きいとは言えない気もする。画面に表示される言葉はすべて日本語で、外国語を含めると日本人の平均的語彙はもっと増えるが、筆者は約18万語も知っているのかと首をかしげた。このブログにしてもおそらく使っている言葉の数はせいぜい1,2万と思うからだ。そうだとすれば18万のうちのほとんどは、知ってはいてもめったに使わず、語彙力とは呼べない気がする。まあちょっとしたゲームであるので、保持する語彙の正確な数字はわかりようがないはずだ。それに知っている言葉をタッチするのではなく、見栄から知らない言葉もタッチする人はいるだろう。それに外国語を含まないとはいえ、「トラック」や「ミュージック」、「ラヴ」など、誰でも日常よく使う片仮名の外来語は大量にあって、語彙力の判断に外国語を含まないことは無理がある。それはいいとして、日本語と英語を同じほどに話す帰国子女のような人たちがいて、彼らは語彙力に優れるかとなれば、日本語も英語も使える言葉の数は平均以下であるのが普通ではないか。それで外国語を学ぶ前にしっかりと日本語を学ぶべきという意見があるが、帰国子女がその後どういう分野でどういう仕事をするかでその意見が正しいとも言えないだろう。そう思うのは、語彙が少ない人でもそれなりに満足して生きて行くからだ。結局語彙は本人が増やしたいと思わねば増えず、また増えたところでそれが社会的に評価されるかと言えばそうとは限らない。せいぜい「あの人はたくさん言葉を知っている」と噂される程度で、また交際する人種が少々広がるだけのことだ。小説家になるには語彙の豊富さが求められるかと言えば、小説家もさまざまで、語彙に乏しくても人気のある作家は多いはずだ。むしろ大多数の人に馴染みのない語彙が頻出する本は忌避され、ほとんど売れないだろう。帰国子女の話に戻ると、日本語も英語も中途半端であっても、日米の日常生活に全く困らないのであれば、その人は羨ましがられ、敬いもされるだろう。つまり人は日常生活に欠かせない程度の語彙で充分であって、それ以外は特殊能力と言ってよく、本展の対象にはなっていなかったはずだ。本展は語彙の多さよりも、生活に支障を来さないための日常の言葉の使われ方に焦点が合わせられた。
英語が国際語としてもてはやされるようになって日本でも幼少時に英語を学ばせる親が増えている。昔のTVのコマーシャルに「英語を覚えると〇億人と話せます」というのもあったが、一生に言葉を交わす人数は多くて数万人で、英語を話す必要に迫られない人がほとんどで、嫌がる子どもに無理に英語を学ばせるのは日本語を覚えることにも支障を来す気がする。ところで、TV番組にヒロシが外国の鉄道に乗ってぶらりと降りた駅前食堂で食事するものがあった。その番組のひとつの面白さはほとんど外国語を話せない彼がどうにか食べ物にありつけることで、英語以上にボディ・ランゲージが威力を発揮することに気づく。手話は各国で差があり、聾唖者が外国に行くと筆談かヒロシのような原始的ボディ・ランゲージに頼るしかない。ヒロシが流暢に外国語を話せば、その番組は人気が出なかったであろう。そのことは外国語が苦手な日本人の平均像をよく表わし、人気のTV番組はそういう平均的な人がたくさん見ることが必須の条件で成立している。つまり英語にしてもボディ・ランゲージに匹敵する程度のわずかな語彙で事足りることで、日本では「英語がしゃべれる」とみなされる。そのことで確かに地球上の英語を話す〇億人とわたり合えるが、英語を母国語とする人からすれば幼児程度の英語力であれば、それなりの交際しか望めない。端的に言えば知的な会話は無理で、まともに相手にされることはない。だが英語を話さなくても知性のある人は無数にいて、彼らは外国人から見ても目つきや態度が平凡な人とは違う。そこで通訳の専門家を介せば、外国語を知らない人でも外国の知識人と親しくなれる。それはボディ・ランゲージの威力ではない。ボディに具わっている精神のほとばしりだ。そしてそれは母国語の語彙が豊富なことでもたらされる。そうであれば、日本語と英語を同じほど幼ない頃に学んだ人はどちらの言葉も中途半端で、そうした人格者にはなれないのかと言えば、そうではないだろう。どういう能力を持ち得るかは遺伝子の力でもあるからだ。それに欧州に育った人は5,6か国語を操る場合は珍しくなく、そういう人は大人になって日本語を学んでも驚異的な語彙を身につけるだろう。そのように考えると、しゃべること、言葉とは何かについての研究は無限に広がっている気がする。そして問題は平均的な語彙の人とそうでない人との差、すなわち平凡と非凡の違い、言い換ると知能の差という問題に行き着く気がするが、本展はそのことも対象にしていない。ヒトと動物の差は「しゃべる」かどうかで、その能力がない、あるいは乏しい場合は手話に頼るが、エスペラント語のように世界共通の手話はボディ・ランゲージの援用から割合簡単に出来そうな気がするのに、前述のように実際は世界の手話は多様であって、意味が伝わらない場合があることが本展で紹介された。
人がしゃべる際のCTスキャン映像がモニターで紹介されていた。「しゃべる」は口先だけの運動のように思いがちだが、横隔膜や肺、喉など、手足を除いた全身運動を強いると言ってよい。もちろん命令をするのは脳で、それが異常を来すと語彙が減り、記憶も減退するなど、まともな会話が出来なくなる。そのことはさておいて、先のスキャン映像は発声がアコーディオンと同じような仕組みによることを伝え、しゃべることの延長に歌があり、息を吹き込む楽器の演奏があることを思う。となれば音楽は歌が最も原始的かつ最高の表現としていいだろう。その考えは一方でインコなどの人の声を模倣する鳥類の能力に対する関心を喚起させる。本展では鳥の鳴き声の紹介もあった。インコは言葉の意味がわからずに音のみを真似るが、彼らが真似たいのはなぜか。そのことを研究しても解明出来ないだろう。真似たいのはそうしたい欲求があってのことだ。インコがそうしたいのは何かの見返りを求めてではなく、純粋な好奇心、気まぐれと言ってもよい。インコ以外の鳥の行動にも同じことがあるだろう。それを「遊び」と言ってもよいが、「遊び」はあらゆる生物に具わっているはずで、本展の「ホモ・ロークエンス」は「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」を意識してのことではないかと筆者は会場で思った。そこまで話を広げるとややこしくなるので話題転換。チラシ裏面に「ことばについて考えてみる」と題して、「人間の言語と動物のコミュニケーションの違いは?」「ことばを話すときヒトの脳はどうなっているの?」「機械は人間のことばをどう操るの?」「世界のことばにみられるいろいろな現象とは?」「そもそのヒトはどうやってことばを身につけているの?」「手話言語と音声言語はなにが同じでなにが違うの?」の6つの命題が書かれる。筆者は本展でこれらをまともに知ろうとしなかった。それはいつもと同じようにチラシを読まなかったからだ。肝腎の見どころを無視した形でこのように長文を書くことはほとんど無意味だが、「遊び」のつもりで思いつくまま書いている。そこで話を続けるとして、次に筆者の日常会話の癖ないし「遊び」を紹介する。筆者は家内だけにわかる造語を頻繁に作って使う。時々家内は意味を解せず、首をかしげるが、そういう時は別の言葉に作り変える。なぜ家内だけにわかる言葉を使うかと言えば、ふたりでスーパーに行った時、そばにいる他の客に意味を悟られないためだ。たとえば「酢豚」は「サクトン」と言う。3割引きのシールを見ると「ワンサリ」と言い、「タイムサービス」は「ムイタビーサス」で、「風風の湯」では人の名前の代わりに「ドングリ」や「ハピオ」、「えちぽん」や「フーポン」、「おまっとう」など、本人が耳にしてもわからない渾名で呼ぶ。これらの造語は時に似た音の別の言葉にすることもあるが、あまりに変えると家内がわからなくなる。
筆者はあえて読み方を間違えて使うこともよくある。「言語道断」を「げんごどうだんつつじ」と言うのが一例で、最近では「とんでもない」を「なんでもTOY」と言って言葉をおもちゃにする。こういうでたらめを毎日やっていると、他者との会話でも思わず口に出そうになるかと言えば、今のところそれはないが、読み方の間違いは知識の程度を推し量られるので注意せねばならない。京都で有名な占い師であった女性はTVでかつて「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と口にし、今でも筆者と家内はそのことを話題にするが、先日息子が「先斗町」を「せんとちょう」と言っていたことには愕然とした。京都生まれであるのに「ぽんとちょう」を知らないとは。それだけ他人との会話が少なく、また見聞を広める気力に乏しい。世間はそう見る。とはいえ「云々」を「でんでん」と読んだ首相もいたので、漢字の読みを多く知っていることは今は自慢にもならないか。それで筆者も「云々」を家内には「ぬんぬん」や「うんうん」と読んでやろうかと思うが、そういうあえての読み間違いや造語などは詩文の韻を踏む能力を鍛えることに役立つ気がしている。そのことの成果がこのブログの冒頭の4首の歌と言いたいのだが、これすべて遊びであって、筆者にとってしゃべることは遊びが大半を占めている。筆者は家内が呆れるほどに見知らぬ人とでも長話が出来る。普段は家内相手にしかしゃべらないので、たまには他人と大いに話したいのであろう。言葉はこのブログに綴っているが、それは発音を伴わず、脳と手指だけの運動だ。そういうことについても本展では紹介があった。言葉を発せられない人がどのように言葉を使って他者と思いを交わすか。筆談もボディ・ランゲージも出来ない人がある。本展の2階の展示は撮影不可とされる箇所がいくつかあった。うまく話すことの出来ない人たちの顔写真で、彼らがいかに他者とコミュニケーションを取るかについての紹介があった。健常者は素通りしてしまいそうな展示だが、しゃべることの出来ない人でも思いを他者に伝えねば生きられないのであって、その思いが発声や文字として示されるとは限らない。ヒトはしゃべることで他者とつながりを持つことを発展させて来たが、言葉が通じる同国の健常者同士であっても意思の疎通が不可能な場合はある。それでも「語ればわかる」と思いたいのがヒトで、しゃべることに勤しみ、しゃべらずにはおれない。しゃべること、書かれた文章は厳密に唯一そこにあるようだが、隙間だらけで無数の映像を含む。その曖昧さが面白く、またヒトは曖昧とわかっていながら厳格なものとしても受け止める。「しゃべる」と「話す」が同じようでいて違い、違うようでいて同じと思うこともそうだ。結局ヒトは曖昧な生き物で、人生は遊びと言い換えてよい。今日の5枚の写真は人類の進化の過程だが、遠い将来のヒトも生を遊びと思うだろう。
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