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●『博覧―近代京都の集め見せる力―』
に 桜合わせの 紋を見て 平安無事の 尊さ覚え」、「古の 宝展げて 人集い よきもの見たと 語らい広げ」、「蒐めれば 違い楽しき 学びあり 法則見つけ 世の不思議知る」、「例外を 出来損ないと 認めつつ それを含みて 世は面白き」●『博覧―近代京都の集め見せる力―』_d0053294_02165768.jpg 去年11月16日に京都市内で見た展覧会、その5つ目について今日は取り上げる。龍谷ミュージアムでの企画展で、充実した内容にどのように感想をまとめようかと戸惑う。いつものように2,3階の展示フロアを使って今回は4つの展示コーナーに分けられた。もうなくなってしまったが、INAX(後にLIXIL)ギャラリーで長年企画された展覧会では4つ分の規模を思えばよい。「初期京都博覧会」、「西本願寺蒐覧会」、「仏教児童博物館」、「平瀬貝類博物館」の4部門で、それらの展示の区画は明確ではなかったうえ、相互に関係がないため、少々印象は混乱した。この館の展示可能な場所をすべて使うことが前提では、4つの部門を半分にすることは難しかったのだろう。それは展示すべき資料が足りないというよりも、こうした展覧会では資料はいくらでもあっても鑑賞にふさわしい内容のものが少なかったのかもしれない。それででもないが、本展で最も迫力のあったもののひとつは、展示の入口の暖簾代わりと言えばいいか、明治時代の本に掲載されたコロタイプ印刷の図版を何十倍にも拡大した吊りスクリーンの間仕切りだ。これは明治の写真技術の優れた面すなわち解像度が現代のスキャン技術で初めて迫力あるものに再現可能となったことを示し、技術の進歩と言うより、昔の写真や映像が現代の技術で初めて潜在能力を明らかにしたと見るべきで、よくぞ昔に鮮明な写真を撮っていたものだ。当時のカメラマンはせいぜい絵はがき大にしか引き伸ばすことがなかった写真が100年以上も経って畳数枚分の大きさに拡大され、多くの人々がそれを見て臨場感を味わうとは予想しなかったはずで、本展の企画者の着眼がなければ、古い、しかもわずかしか部数が存在しない本の単なる一挿図としてほとんどの人が気づかないものだ。迫力のあったもうひとつのものは、日米親善のために昭和初期に送られた市松人形への返礼としてアメリカから贈呈された手製の迫真的な人形5体だ。高さ3,40センチで保存しやすかったのだろう。戦禍に遭わずによかった。先の本におけるコロタイプ図版と同じく、人の手に収まるような小さなものが長い時代をくぐり抜ける。その点、建物は百年はもたず、もっても部分は改修され、百年前の姿のままではなかなかあり得ない。人間はそういうことを知っているので、物を集めるのかもしれない。似たものをたくさん集めるほどに分類の考えが芽生え、次に見えて来る本質があり、そこから学問が生まれる。またひとつの物は多くの属性を持ち、分類は幾通りも可能性があって、見方を変えれば本質も違って来る。そのため物が基礎となる。
●『博覧―近代京都の集め見せる力―』_d0053294_02172286.jpg 京都の仏教系の大学のミュージアムであるので、展示は京都及び仏教に因むものに限られ、また京都西本願寺や同大学の所蔵品が優先されるだろう。本展のチラシは見開きで、開いた両ページに先の4つの部門が写真とともにごく短く説明され、図録を買わずともこれで充分という気がする。「初期京都博覧会」は「博覧会」の名のつく日本初の博覧会が明治5年に西本願寺で開催されたことを紹介する。この部門でも当時の本に載った写真を畳数枚に拡大した半透明の吊りスクリーンが展示された。それは会場となった西本願寺境内の南辺中央だ。10年ほど前になるか、筆者は真夏に西本願寺の普段は非公開の建物を見学したことがあり、本展で大きく引き伸ばされた写真に写る門の前で夕方5時頃から30分ほど列の後尾に並んだ。その時に門を入ってすぐ左の有名な龍大図書館やその他、たくさん写真を撮りながら、今調べると投稿していない。部屋の明かりが灯る飛雲閣も撮ったのに、投稿の機会を逸したそのような写真は数多くある。話を戻して、グーグルのストリート・ヴューで確認すると、現在のその門は明治5年の先の写真と全く同じで、西本願寺の貫禄を伝えるが、明治5年の写真は門の前に背中を見せる記念撮影屋の男性がひとりと、門の両脇でこちら向きに入場券を販売する男性が全部で6人、そして門の奧には後ろ姿の入場者がふたり見え、全体としてやはり明治5年を納得させる雰囲気がある。人々の衣服も手伝って江戸時代と言われてもそうかと思う静けさで、この写真をじっと見ていると時間の不思議さを思い、そして現在が夢であるかのような気がして来る。もっと言えば自分が写真に写る誰ででもあるような気分で、写真というものは気味が悪い。そう感じるのは筆者の精神が過敏になっているからと思うが、もうひとつ思うことはその写真の当時より現在がいいということだ。この感覚もうまく説明出来ないが、江戸時代や明治初期の京都の人々の生活はこの西本願寺の写真1枚からほとんどわかる気がするからだ。それを言えば現在も同じで、筆者の言っていることは意味をなさないが、筆者の両親が生まれていなかった頃の、現在もそのままにある建物の1枚の写真を見ると、生きている自分の存在が不思議でしかもありがたい気がするということで結論づけておこう。本展の印象とは無関係のことを書いているようだが、本展で最も印象深かったのはその第1回京都博覧会の会場前の写真と今日の2枚目の多くの人々が写る写真だ。これは左上の駒札に「法約蒐覧会 三月一日ヨリ四月三十日マデ」とあって、駒札の下には「拝観無料」の木札がある。チラシの説明によれば、江戸時代から行なわれて来た「法宝物拝観」を発展させたもので、明治8年に最初に開催された。写る門は堀川通りに面する「北小路門」で現在も同じ形だ。写真は当時の撮影だろう。
 チラシに載るが、「西本願寺蒐覧会」の写真として展示風景を捉えたものがあった。明治43年の本に載ったもので、先の多くの人々が写る写真も同じ頃の撮影かもしれない。明治8年と43年とでは市民の身なりはあまり変化がなかったように思うが、当時を生きた人なら服装の流行を見つけてかなり正確に撮影年代を当てるかもしれない。昭和生まれの筆者が戦後の昭和の写真を見てだいたい何年くらいかがわかるのと同じと言いたいのだが、やはり明治では戦後よりもゆっくりと風俗が変化したのではないか。本展ではこの「蒐覧会」で撮られた人々の露出感度の悪い写真がほかにもあって、雨に濡れた地面に足元を汚しかねない人々が写っていた。宝物の展覧会となれば昔も今も大勢の人が押しかけるのは同じようで、それだけ日常に変化が少なかったからでもあるだろう。TVからスマホと娯楽が増えた今でも人気があるのは、実物を目の当たりにする経験を貴重と思うからだ。一瞬でも珍しい話題のものを見ることを人々は求める。それが「西本願寺蒐覧会」では全国の西本願寺派の寺から借り集められた真宗関連の宝物を展覧するものであるから、親鸞の威光を尊ぶ人々が多く、それが現在まで脈々と続いていることを本展は示す。そう言えば来年は大きな親鸞展が京都で開催される予定で、本展はその前哨展の意味合いもあるだろう。話を戻すと、「西本願寺蒐覧会」の展示風景の写真は現在の展覧会とほとんど変わらない。青竹を部屋の畳部屋内部の縦横に使って結界を作り、掛軸は壁面に吊り、立体の像は欄間の下の棚に並べる。現在のように展示物をガラスで保護していないが、宗教関連の宝物であれば悪戯をする罰当たりな人物はいなかったであろう。これらの展示物は寺から集められて真贋や等級が鑑定され、重要なものは記録し、場合によっては京都西本願寺が召し上げたのではないだろうか。本展では親鸞の著色の肖像画の掛軸の絵の部分が間近で見えるように吊るすのではなく、ケースの中に置かれていた。30センチほどの近くからそのかなり劣化した画面を見たが、痩せた親鸞の鋭い人物像がありありと伝わった。以前から同じ表情の親鸞の肖像画は見て来たのに今回は妙に生々しく感じた。似た風貌の人はよくいて、筆者は嫌いなタイプの顔だが、本展の肖像画には個人の好悪を吹き飛ばす迫力があった。それは親鸞の人物像に初めて興味が湧いたことかと言えば、そこまではない。ただし現代には見ない強靭な顔つきで、多くの人々が文句なしに崇めたことは何となくわかる。それは限りない優しさに溢れるという表情ではなく、その反対に敵対者には全く容赦しないという激烈さで、弱者には絶大に頼り甲斐があるといったものだ。家族でも夫がただただ優しいだけでは迷惑するだろう。夫は家族には優しく接しても他者にはそうではいられない場合が多々あり、特に男は優しさと厳しさを持ち合わせる必要がある。
●『博覧―近代京都の集め見せる力―』_d0053294_02182032.jpg
 「仏教児童博物館」は今日の2枚目の写真下にその玄関前の集合写真で、昭和13年頃の撮影とされる。写真右端に縦長の看板があり、「コドモの博物館」の文字と男女の子どもの絵が描かれる。これはチラシに肖像写真が載る龍大の教授で大阪の中井玄道が昭和3年に開設した「仏教児童博物館」のことで、本部は西本願寺内の龍大図書館にあった。仏教に関する博物の展示のみが目的であったのではなく、科学や歴史、美術も含み、展示物の貸し出しや巡回展を行ない、50年以上続いた。写真の背後に写る建物は展示のためのもので、東山の京都女子高等専門学校内に設けられた。中井は明治末期に渡米して布教に努め、その際ボストンの親日家と知り合い、アメリカに子どものための博物館があることを知る。それで「仏教児童博物館」を創設するが、日米親善の役割を果たしたことが後の戦争でどうなったかまでは本展では説明がなかった。戦後は信仰の自由の叫び声が大きくなり、「児童博物館」はよくても「仏教」の名前を冠することに拒否感を示す人が増えたであろう。アメリカはキリスト教、日本は仏教で、その違いを認めながら日米が子どものための博物館で親交を保った好ましいことがあったのに、戦争の道へと進んだことは皮肉なものだ。「仏教児童博物館」で海外の児童から送られて来た絵画などを見た日本の子どもの中には、戦争に駆り出されて死んだ者もいるだろう。今日の3枚目の写真は戦前にアメリカから送られて来た人形で、左からワシントン大統領、インディアン酋長マサソイト、リンカーン大統領、ジョン・オールデン、インディアン婦人で、20代の女性が作ったものだったと思う。保存がとてもよく、芸術品としても鑑賞に堪え得る。インディアンを象っていることも好感が持て、特にインディアン酋長は逞しく、堂々としていて、作者の愛情が滲み出ている。リンカーンは少し病的な印象があるが、アメリカ人の考えるリンカーン像はこのようなものなのだろう。ジョン・オールデンについては知らない。子ども像なので、子どもが鑑とすべき神童であったのだろうか。「平瀬貝類博物館」は兵庫県淡路島出身の平瀬與一郎が開設した。チラシの肖像写真は明治時代の撮影で、西宮市貝類館蔵で、京都岡崎にあった「平瀬貝類博物館」が所蔵した貝や絵画は西宮市貝類館に引き継がれたようだ。平瀬が真宗の門徒であったかどうかの説明はなかったように思う。「平瀬貝類博物館」の外観写真は2階建ての石造りの立派なもので、平瀬の財産の規模が偲ばれる。現在はレストランが建っていて、博物館がそこにあった面影はわずかに建物の礎石の部分からわかるとの写真による説明があった。建物は容器であって、肝腎なものはその中身であるから、平瀬が生涯を費やして集めた貝の標本が別の施設に引き継がれていることに平瀬も本望だろう。
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by uuuzen | 2022-12-18 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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