「
敢然と 意見すること 歯向かうと 小心者の ボスの口癖」、「知らぬ間に 増える短歌に 垢思い 塵も積もれば 病となるや」、「大切に 自他を想えと 教わりて 他人の涙 甘いと笑い」、「よき人が 敵を平気で 殺すのを 正義と称え 負けるを悪と」
今日の写真は去年12月11日に撮った。その2日前に「風風の湯」の斜め前にある中ノ島に架かる太鼓橋の工事がまた始まる看板が出た。今日と同じ題名で
「その13」を投稿したのは2年前の4月10日で、その時は1か月ほど前の3月4日の写真を投稿した。もう当分工事はないと思っていたのに2年ぶりに再会で、今度は橋桁だ。2年前に予定されていたのだろう。橋の下となれば目は届きにくく、橋の利用者は工事をあまり気にせずに済む。それで筆者の撮影回数も今回は少なくなりそうだ。この橋は車止めの石柱があるのでそれを抜いて車が往来することはない。中ノ島への車の出入りは渡月橋南詰めからだ。ユンボなどの重機は桂川の中を下流から進むか、大型ダンプに載せた重機を中ノ島に運び入れ、そこから川に向かって砂で造られた仮設の昇降用道路を使う。つまり中ノ島橋は歩行者専用なので劣化しにくいはずだが、橋脚は洪水で被害を受けやすい。そのことは大雨の後、必ずと言ってよいほどこの橋のわずかに上流の堰に流木が引っかかっていることからもわかる。雨はとっくに上がっているのにその流木はいつ下流に流されるのかと思っていると、いつの間にか見えなくなるのは、公園の管理者が引き上げているのではなく、続く雨で流されるからだ。そうなる時にこの橋の橋脚にぶち当たる。流木はたいてい木肌が洗われてつるつるになっている場合が目立つが、そうなるのは川底の石にぶつかってのこととして、川底に浚渫すべき石が多いことが想像出来る。そう考えると河川管理は終わりがない。したがって橋の工事もそうなるが、日本には修理されない橋が近年増えていると聞く。利用者の数と修理費用を天秤にかけるからだ。その点、嵐山は日本有数の観光名所で、見栄えを常によくせねばならないとの考えが多数派を占め、嵐山に住む筆者はその恩恵を被っていると思うのがいいのだろう。松下幸之助は京都市の住民からは特別の環境税を徴収すべしと意見したと何かで読んだことがあるが、その意見が通れば筆者のような貧乏人は住めない。京都がそんなに住むのにいいところかどうかだが、筆者は気に入っている。京都人特有の冷たさが喧伝されてもみんながそうではないし、そもそも誰しもみんなと知り合いになれない。一人が一生の間に言葉を交わす人数は2、3万とこれも何かで読んだことがあるが、筆者はたぶんその10分の1以下で、また思い出したい人はごく稀で、数十人もいない。そしてろくでもないのはその何倍もいる。とはいえ思い出す時間がもったいないので、心の中で大切にしたい人だけを思い出してひとりで微笑む。筆者にはそういう人がいる。
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