「
詫びなしの 厚顔輩の 言い分は やらかしたこと わがせいでなし」、「目の上の たんこぶ憎む 能無しの ひとつやること 強き自惚れ」、「甘え坊 甘い棒舐め 人も舐め 舐められ怒り 怒られ世間に」、「幼児の かわいらしさは かくれんぼ 次の瞬間 跡形もなし」

契約事項を読んだこともあって、5年は黙っていようと思っていたことがある。それが気づけば7年2か月ほど経った。思い出すたびに癪に障るが、どのように書くべきか、ここ数日あれこれ考えている。関係者に根回しをし、意見を聞いたうえでこのブログに真実を書くつもりもあるが、相手から反撃された時はこっちは証拠が完全に揃っているので法廷に訴える覚悟もある。ほとんどの人には一生に一度もない晴れ舞台を無茶苦茶にされたのに、詫びが一言もない。それどころか、筆者の知らないところですべてを筆者のせいにしているだろう。そんなことを思っていると今日の冒頭の一字は「詫」ではないか。それで冒頭の歌を詠んだ。7年前のそのとんでもない成果となった経緯については小説にする考えもあるが、調子者を主人公にしても読者は面白くない。ともかく筆者の目が黒い間に書き記しておかねば筆者の没後、どういう具合に勝手な考えが広められるかわからない。死者に難事の原因をすべて押しつける例はよくあるからだ。最近もそういう話を聞いた。ここには書けないが、簡単に言えば多くの人から集めた金のうち60万円の使途が不明で、それを死者が使ったことにされている。その死者は子どもも身寄りもなく、反論の術がない。ひどい話だが、人がよいとほどにずるい奴らからそういう立場にされる。この世は調子者ほどうまく泳いで行く。さて、少しは気分が収まったので本題に入る。3日に天龍寺境内で見た地元小中学校の子どもたちの絵画と習字の写真を今年も撮った。そのことで思うのは、やはり小学校低学年ほど絵は面白い。以前にも書いたように中学生はもう大人で、将来のプロになり得る才能が覗いている。それはそれで感心するが、無邪気さはほとんど消えていて、その意味ではさっぱり面白くない。ということは、筆者は小学1、2年生辺りの児童が好きなのだろう。実際街角で見かける乳母車に眠る乳児や3歳くらいの子どもが最もかわいらしいと思うが、彼らは存在全体がそうであって、手指を動かして何かを作る楽しみの表現行為をまだほとんど知らない。クレヨンやクレパス、絵具を持たせて自由に描かせるのは幼稚園や小学校に入ってからだ。筆者は幼稚園、保育園には行かなかったので、小学生になってクレヨンを初めて握るという思い込みがある。筆者がよく記憶するクレパスの色は初めて見た藤色で、その派手な色が現実の何かにあるとは思えず、どのような画面のどのような箇所で使えばいいか戸惑い続けた。藤の花を見たのは中学生になってからだが、クレパスの藤色のほ派手で美しいと思った。

天龍寺の法堂前で年に一度、義務教育の子どもがどういう絵を描き、毛筆でどのような字を書くかを鑑賞することは、時代の一側面を知るにはよい。もっとも、節分会で展示される作品は先生たちが厳選したはずで、選ばれなかった作品により時代の意識が反映されているかもしれない。それは簡単に言えば負の面だ。たとえば筆者がそうであったように片親の貧しい家庭の子どもの作品だ。それは精神分析の材料になりやすいと思うが、生活保護家庭の子どもの絵や字が、そうとは教えられずに見分けられるかとなれば、それは無理ではないか。児童であった筆者の絵画や習字は常に学級や学校で最優秀のひとりとして選ばれたが、そこには生活保護を受けることによる負い目のような精神が滲み出ていたとは思わない。また先生たちも筆者を憐れんでそういう特別の表彰の対象にしたのではないはずで、子どもたちの絵画や習字に生活の貧しさゆえの特有の味わいは反映されない。では持って生まれた才能だけか。筆者はそう思うが、その才能の発露である作品を評価する先生に偏見が全く混じないとは言い切れない。それに子どもは一種の自信のなさと憧れから、自分より確実に優れていると思う作品から何らかの影響を受けやすい。つまり大人びた作を作りやすい。そうなっても強烈な個性を保てばよいが、大人の表現者からも明らかなように、たいていは模倣の域を脱せず、拙い作しか生み得ない。それを逆手に取って有名人の物真似芸人が後を絶たないが、話を戻すと小学1,2年生の絵は誰かの真似をしたい思いがなく、自分の内部にある衝動に素直にしたがうあまり、どれも個性的なものとなる。それは彼らの外見でもあって、筆者がかわいらしいと思うのはそういう彼らの純朴さだ。しかし彼らはやがて世界は広大で想像を絶する卓抜な作品があることを知る。あるいはそう認めることを教育で強いられる。さて、今日の最初の写真では左下の絵が最もよい。その上の作はペットボトルの蓋の縁に絵具をつけてスタンプのようにたくさん押しているところが楽しい。右上の紙版画は二匹の猫がとてもかわいらしい。その下の5年生の作はほとんどパウル・クレーだ。2枚目の写真の中学生による漢字一字の図解絵では左上の「巻」が恵方巻の具材を象り、展示日と符合している。「街」は野性的で、モンドリアンが見ればどう思うか。「盛」と「飾」はもうすっかり大人の作品で、色合いもとても美しい。漢字の象形文字は事物の単純化であるから、これらの絵は漢字の原点に戻っての篆書以前の実物書と言ってよく、書道の一変形とみなすことも出来る。3枚目はたくさん展示された習字からどうにか選んだ。「友だち」は右端の作がよい。「道」は左が大人になりかけの様子を伝える。驚いたのは「白雲」だ。ほとんど清酒のロゴで、これは手本に忠実に書こうとしたものではないはずだ。小学5年生では拙い作だが、別格の風格がある。

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