「
嘘つきは 騙される者 馬鹿と見る 馬鹿の思うは 嘘つきも馬鹿」、「人気者 調子乗り過ぎ メッキ剥げ 蓄えた財 目減り恐れて」、「恥の意味 知らずに生きる 愚か者 怖いものなし 仲間集めて」、「体だけ 大人になりて 知に無縁 痴は大好きで やがては痴呆」
今日の写真の上は昨日深夜、下は今夜の満月だ。さて、最近読み終えた久坂葉子の手紙集と小説の2冊について書きたいことがたくさんある。ひとつだけ書くと、21歳で自殺した彼女は文学、音楽、美術など、関心が多方面にあって、読書量もかなり多かったようだ。10代後半ではそれは珍しくないが、それは昭和時代の人間に特に当てはまる気がする。久坂はピアノを学び、作曲もしたが、ラヴェルやドビュッシーの曲を弾き、ミヨーの歌曲を好み、ブラームスの交響曲では第4番が最もよいなどと書いていて、現在のように音楽が無限かつ無料で即座に接し得る時代ではなかった昭和20年代の女性としては、そうとう知的であった。筆者は知的な女性が好きで、久坂の顔写真を見ながらその人物像をいろいろと想像するが、一方で今の10代後半で久坂のような知性を高めることに貪欲な女子がいるのかと思う。いれば必ず世に出て来るとして、その出方が問題で、TVやネットで人気者になると本人も図に乗り、たちまち下衆な人種の仲間入りをするだろう。久坂は金のために小説を書きたくなかった。小説は他の表現行為と同じく、独学で誰の感想や助言も得ずに発表出来るが、久坂は同人誌に仲間入りし、先輩の意見を乞うた。それで富士正晴と知り合いになるが、そういうつながりを持たずに今は人気者になってしかも大金持ちにもなれる。ところがそういう表現者は知識の底が浅く、移り気な同類に囃し立てられるだけで、没後も人気を保つことはまああり得ない。久坂の場合、富士正晴の尽力もあって今も小説は読み継がれているが、21歳での自殺は才能に限界があったと言うしかない。久坂についての結論めいた話になったが、後日その気になれば詳しく書く。ともかく、自殺は勇気を要するだろうが、自殺された身近な人は一生そのことを忘れ得ず、しかもその死者を大切に思う人であれば、答えのない難問の前で堂々巡りをする。そのことを自殺者がわずかでも思いやることが出来れば自殺を思い留まるはずだが、それが出来ないほどに自分が置かれている状態を嫌悪し、そのことを堂々巡りで思い続けるのだろう。そこに精神的未熟さがある。久坂は知性を重視したが、それと精神の落ち着きはまた別の話だ。そこには若い女性特有の事情がある。そのことを久坂は凝視しつつ、操れなかった。男は知性に乏しくても精神が落ち着いている女性に魅せられるだろう。知性は子ども並みで精神不安定な女性に振り回されるのが好きな男もいるが、女性の世話をする男は大変だ。よく女は男が家事を手伝わないとこぼすが、家事よりも女の機嫌を取るほうがはるかにエネルギーを消耗する。
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