「
辣腕に 使われ学ぶ 要領は 段取り大事 始末なおさら」、「津軽には 継がるることの 多かりき 疲れ取る湯に りんご凛とし」、「浸かる湯に 柚浮かべたし 寒き夜 湯気の小窓に 三日月曇り」、「鶏頭の 横に並ぶや 赤帽子 風雨に負けぬ 童思わせ」
一昨日の鶏頭と投稿日が逆になるが、今日の最初の写真は前日の11月21日に向日市に自転車で行った帰りに見かけた。縦長の左右の2枚は同じ花を別角度から撮った。
今年府立植物園で写生した鶏頭よりやや小さな花で、日当たりは同じようによさそうだ。これほど立派に育ってくれれば遠くに写生に出かけなくて済むが、わが家ではたぶん無理だ。さて今日の投稿は今年最後で、保存写真の在庫整理を兼ねる。とはいえ2枚目の縦3枚のみで、上から順に撮影日は2年前の8月15日、10月11日、11月19日だ。中央の背丈の低い鶏頭は嵯峨のスーパーへの途上のとある家の玄関脇で毎年咲き、今年は水やりをしているその家の主婦と立ち話をした。写生してよい許可を得ながら訪れなかった。背丈の低いものは筆者が構想している屏風では写生してもたぶん素材として使わない。筆者が子どもの頃に見かけて母に名前を訊いた鶏頭の花は、筆者の背丈に近かった。となれば1メートルはある。もっと高く伸びるひまわりは昔2曲屏風に染めて京都府主催の公募展に出品し、その年度の優秀賞となって賞金をもらい、作品は府庁の玄関ホールに展示された。それでもうひまわりは染める気がしない。鶏頭はひまわりほど大きくならないが、直立するので見栄えがよい。菊も品種によってそうなるが、たいてい茎がなよなよと曲がり、女性っぽい。その点、鶏頭は外で遊ぶのが大好きな腕白小僧の趣があって、元気をもらえる。そう思わない人もいるだろうが、それは花にあまり関心がないからだ。鶏頭はひまわりほどの貫禄はないが、ひまわりは花の首がすぐに垂れてしまうのに、鶏頭はかなり長い間そのままの姿だ。つまりひまわりは勇ましいが夏の暑さに降参してうなだれるが、鶏頭は晩秋まで力を衰えさせない粘りがある。筆者が鶏頭に関心を抱くのはそういう逞しさを感じるからだ。もちろんその思いを鶏頭に託したいからだ。そうなると花鳥画でも人間の意思を投影させることが出来るし、構図や配色もおおよそ定まって来る。筆者は夏生まれで、そのことからも鶏頭に愛着があるのだろう。手間要らずで大きく育つ点もよい。筆者は母が働いていたために放任主義で育ったが、いろんな意味で子どもの頃から目立っていたので、その点でも鶏頭に近い。そうなると筆者が友禅で染めようと考えている六曲一双の屏風は自画像となる。ただし鶏頭のみでは光琳の「燕子花図屏風」のような構図になり、それでは面白くないから、左右隻に人物をひとりずつ配置するつもりでいる。それは女性で、ふたりは別々の楽器を演奏している。
先に「燕子花図屏風」について触れたが、開花中の菖蒲園に行くと燕子花や菖蒲は光琳が描いたように咲いている。つまり人は池を回遊しながら花を見るのが普通で、壁紙のような連続文様として横並びに描いても違和感がない。ところがその屏風の燕子花をすべて鶏頭に置き換えればどうか。まずそのように鶏頭が咲いている場所はきわめて珍しく、そのような観賞用として鶏頭は植えられない。だが横並びに複数咲くのはもっぱらで、燕子花ほどではないが、群れとして画題にすることは出来る。ただし光琳の屏風のように、屏風からはみ出た外側にも燕子花が咲いている広がりを感じさせることはまずい。その点で六曲一双屏風での構図は、左右隻の端で鶏頭の花が途切れているようにするのがよく、その左右の咲き止め箇所辺りに人物を配する。また六曲一双であれば計12面で、人物で2面取るとして10面を鶏頭が占める。1面辺り大きな花であれば2、3本が限度だ。間を取って2.5本として計25本だが、それほどまとまって背丈の高い鶏頭が植えられる場所は現実的とは思えない。非現実的でも全くかまわないのだが、筆者が動き回って実際に見た眺めをある程度反映させたい。となれば25本のうち、10本ほどはうんと背丈が低いものとし、全体に背の高さに凹凸をつける。そうすれば横長の画面の上部にリズミカルな空間が出来る。そこからさらに考えるのは、鶏頭の花の大小を音符にたとえることだ。計10面に染める大小25本の鶏頭はある旋律をなぞっている。ごく短いものになるが、それでよい。またあからさまに音符の並びとわかるのは面白くないから、大小25本の鶏頭のほかにさらに低い鶏頭や、枯れかかったものもところどころに置く。そのために強い印象を与える面白い形の鶏頭をなるべく探してスケッチするか、写真を撮っている。以上、創作手法の一端を書いたが、華麗で力強く、また清新さを盛ろうと考えていて、抽象や現代絵画風にはならない。光琳を初め、京都画壇の伝統に連なる画面で、どの日本画家も描かなかったような構図だ。一方、キモノに染めることも考察中で、そのキモノに合う帯は入手済みだ。鶏頭を染めたキモノは珍しい。夏から秋の花で暑苦しいからだろう。絽に染めては上前のワンポイント程度にするしかないから、やはり全体にわたって文様がある絵羽ものとなるが、そうなれば屏風と違って構図は鶏頭が咲く場所を俯瞰したものになる。それではおおよそどういうキモノになるかは見えているので、写生を生っぽく使わず、半ば抽象化して一見鶏頭の花とはわからないようにするのがよさそうだ。そうなれば色彩も現実にこだわる必要はなく、ポップで洋服にも使えそうな文様になるだろうし、色違いで何種類も染められそうだ。またそうなると軽くなり過ぎて面白くないので、結局鶏頭文様のキモノをほとんど見かけないことの理由がわかる。
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