「
喚呼され また見つけしや カリンの実 喋らぬものも 意思は飛ばせし」、「ずっしりと 重さ頼もし カリンの実 扱いにくさ 憎い魅力や」、「輝きの 色したカリン 目を引くは 知識の有無に 関係はなき」、「あっカリン 妻と言い合い 見上げれば 青空に載る 黄の実三つ四つ」
最後の歌は
2年前の10月末に家内と訪れた神戸の相楽園を思い出して詠んだ。その敷地の南塀際の歩道に20メートル置きほどに高さ3、4メートルのカリンの木が街路樹として植わっていた。そのことは当時の投稿に書いたかもしれない。カリンの木全部に実が成っていたのではなかったが、相楽園の玄関に最も近い木はいくつかの実がてっぺん近くに丸見えであった。葉は大半が落ちていたからだ。そうなるとカリンの実は遠目にも目立つ。今日の2枚目はグーグルのストリート・ヴューの2018年10月撮影で、その場所近くの木だ。茶色のシミが出ていない実がたくさんついている。自然に落下するまで誰も収穫しないことは、2年前に筆者らが訪れた時の様子からもわかるが、落ちた実はどうなるのだろう。持ち帰っていいと思うが、それに文句を言う人があるかもしれないと誰しも思い直し、そのまま路上に転がり、そして腐ってゴミとなる。それはさておき、先の歌のように家内とカリンの実を見上げた時、筆者は家内の顔をまともに見たので、その表情とカリンの実3,4個が木の枝に集まっていた様子が重なる。その様子が鮮明で、それを思い出して先の歌を詠んだ。さて、今日の最初の写真は
13日に投稿したカリン・ジャム作りの2日後の15日、いつものように家内と嵯峨のスーパーに歩いて行き、3軒回った後、もう一軒足を延ばして見つけたものだ。前回と同じ場所に同じように歩道際に固め置きしてあった。6時過ぎでほとんど真っ暗であったのに、カリンの色は目立つ。その3個は去年その建物の奧、川沿いにあるカリンの木の頂上近くに実っていたものと直感した。去年の筆者は通りがかるたびにその3個がほしいと思い、消えてからも川底に何度も目をやった。3個は川に転がり落ちたのではなく、地面に落下したものを拾ったその建物の人が鑑賞用に部屋に置いていたのだろう。そして茶色が目立て来たので、捨てるにはもったいないから、以前のように建物の端に置いていると通行人が持ち帰ると思ったに違いない。そう受け取って筆者は3個を買い物のキャリーバックに放り込んだ。目撃して1か月以上経ってそのカリンの3個が自分の手になったことを、カリンが呼び寄せたと思っている。そんなことはあり得ないと思う人は面白くない。毎朝雀に古米をやる筆者は、2年前に雀から驚嘆すべき出会いをもらえた。そのことについてはまだ書かないが、雀の恩返しとしか言いようがない。心を寄せていると何かが起こる。人間以外の存在、物も含めてだが、人間と通じ合う意思を持っている。
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