「
膜で説く この世の仕組み 知る子ども マスク外さず いじめもせずに」、「V字松 一本消えて 影薄き 力合わせて 輝きもせり」、「切り株の 掘り起こされし 更地には さびしさ消えて 期待集まり」、「松枯れの 醜さ見つつ 待つ彼の 腐る思いを 疑いと知り」
10月の終わり頃だったと思うが、渡月橋から下流50メートルほどの左岸に立つ松の樹皮が長さ1メートルほどにわたって剥がれていた。その松は渡月橋付近では珍しく45度ほど傾き、車道の上に被さっていた。そのように育つように植木屋は剪定などをしたのだろう。樹齢は百年は経っていないはずだ。今日の最初の写真は2年前の5月に撮ったが、カメラの記憶媒体に保存したままであった。その理由が自分でわからないが、何となく死期を思っていたためかもしれない。見る場所によればV字を形成するこの二本の松のうち、左手が交通事故に遭った。樹皮が剥がれて内部の白木が覗いた箇所は、写真で言えば左端の幹の下側で、大型トラックかバスがぶつかったことが明らかだ。その痛々しさをどれほどの観光客が気にしたか知らないが、筆者は嵯峨へのスーパーに行くたびに樹医がしかるべき措置をしてやるべきと思った。渡月橋のすぐ下流の蛇篭を積み並べる工事が今月中旬からまた始まり、大きな土嚢を運搬するダンプカーがこの松の下をくぐって渡月橋を南にわたり、中の島公園に入ってそこで土嚢を下ろすが、10月下旬はまだその工事が始まっていなかった。松の樹皮が抉られたのは、荷台にユンボなどの重機を載せたトラックが下を通過したのかもしれない。それはともかく、渡月橋に大型トラックがひっきりなしに走る様子は怖い。松尾橋の畔から河川敷に降りて、そこから工事車両専用道路を渡月橋近くまで走ればいいものを、それでは渡月橋から200メートル手前で重機に土嚢を移し替えねばならず、作業がはかどらないと考えているのだろう。大きな傷を負った松は枯れるか生き延びるか、判断は微妙であったが、車も人も往来の激しい道の真上の傷であり、手当てするには車をしばらく停止させねばならず、それで嵐山公園の管理者は根元から伐採することにした。事故に遭った箇所が腐食し、そこから幹が折れて下を通る車に落下するかもしれないという人命優先の考えでもあって、景観上重要であった松の木の伐採に誰も文句は言わない。伐られたのは先月の終わりか今月のかかりであった。紅葉の季節が終わっても、また「花灯路」が開催されなくなったにもかかわらず、嵐山に来る人は去年よりはるかに増えている。それでなるべく早いうちの伐採がよいと判断されたようだ。今日の2枚目の写真は13日に撮ったが、最初の写真の左の松がそのような姿になり、もはやV字は存在しない。これがさびしいが、筆者もそのV字がどこにあったのかと思うほどに、木は伐られてしまうとすぐに存在を忘れてしまう。人も同じだ。
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