「
憐れみの 燐寸売る子に 隣り合う 徳ある人の 篤志は如何に」、「ガスレンジ 電池で点かず チャッカマン オイルあるのに 火は出ず燐寸」、 「石炭の ストーヴ焚くや 当番子 四十五人の 学級の暖」、「風の子と 言われて寒し 童かな 時に風邪ひき くしゃみ連発」
3番目の歌は筆者の小学3,4年生の思い出。当時昭和30年代前半で、大阪市内の校舎は木造がまだ多かった。一学級45人ほど、それが6,7クラスで全校児童は1800人近かったが、市内では少ないほうで、家内が通った小学校は2500人ほどいたそうだ。それはともかく、2階建て木造校舎は昭和一桁の創立以来のもので、筆者が小学生低学年の頃は築30年ほど経っていた。その校舎の前で撮られた学級写真を筆者は今も持っているが、中学生になって友だちになったS君の家に遊びに行くと、S君の父親が小学生の時に同じ校舎の前で全く同じように撮った学級写真を見せてくれた。最前列中央に校長と担任が並び、その両脇や背後の3段ほどの雛壇に級友が囲み、おそらく同じ写真屋が撮影したのだろう。戦前のとても古い写真に思えたのに、校舎も児童の雰囲気も、写真の白黒のやや緑っぽく見えるところも、筆者が写る集合写真と全く同じに見えたからだ。当時はその30年の開きがはるか遠い昔に思えたのに、実際はわずか30年であった。それはさておき、冬場は石炭を使うだるまストーヴの係が順に児童に回って来て、筆者はその当番を担当したことをよく覚えている。木造校舎1階の端に石炭倉庫があり、その用務員の背の高いおじさんからブリキのバケツに石炭をスコップで入れてもらう。それを教室に運び、ストーヴにまず新聞紙や細い木片を入れてマッチで火をつけ、燃え盛ってから小さなスコップで石炭を放り込んだ。すると授業が始まる前にはストーヴは熱くなる。10歳かそこらの児童によくぞそういう作業をさせていたと思うが、10歳でも責任を持たせることはよい。石炭ストーヴは数年後に石油のそれに変わったが、石炭の艶や形は印象的で、形のない石油やガス、電気で暖を取るのとは大違いな気がする。さて去年12月21日、お歳暮を送るために京都大丸に行き、ついでに北海道の小規模な食品展に立ち寄った。会場の出入り口近くにほぼ空の段ボール箱があって、一袋だけ見切り商品として「塊炭飴」を見つけ、迷わずに買った。200グラム入り218円。北海道赤平市の石川商店が1921年(大正10)から作っている。大きな塊から断ち割ったもので、形は不揃い、石炭や黒曜石の艶がある真っ黒な飴だ。袋の懐かしい味わいのデザインもよい。京都や近畿では売られていないだろう。強いニッキ味で、家内は嫌がるので筆者ひとりで食べている。黒色は竹炭を使うためで、舌触りはとてもなめらかだ。赤川市がどの辺りにあるのか調べていないが、そう言えば北海道ではまだ石炭を採掘しているのだろうか。
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