「
罧原の 堤向かうや 愛宕山 松尾過ぎれば 左に曲がり」、「八日では 的屋は準備 灯りなし 十日過ぎても 戎は笑顔」、「ゑべっさん 大和大路の 小路沿い 年に数日 人で埋まりて」、「商いを せぬ人も馳せ 硬貨投げ 十日戎の 景気求めて」
昨日書いた未整理の古き写真は、何枚かをスキャンしてこのブログに昔使用した。今日の最初の写真は右下に06年1月11日の印字があって、17年前に京都大和大路通り沿いにある恵比寿神社の「十日ゑびす祭」の「残りゑびす」に出かけて撮った。2,3枚目の写真は一昨日の京都恵比寿神社で、コロナの間のここ3年は訪れなかったので久しぶりだ。2006年以降、何度もこの鳥居を見上げて撮影したが、その年が最初であったかは記憶が定かではない。そのことよりも17年前のこの写真に年月の経過があまりに速いことに驚いている。未整理の写真束にはもっと記憶が鮮明なものがあって、それらが17年経っているからには、こうして書いていることを17年後に読んで遠いこととは思えないはずで、長いような人生がほんの一瞬のように感じる。この17年、筆者はさして大病せずに好きなことをして来たが、17年後には米寿を迎えていて、健康でも体力は落ち、市バスで出かけることも億劫になっている可能性は大きい。またそれは生きていればの話だ。そして生きていても88歳ではこうしたブログを続ける気力は乏しいはずで、また誰も読もうとはしない。その人生の幕引きの一例は、近年増えている「年賀状じまい」で、自分で字が書ける間に年賀状だけの関係を断つ。「風風の湯」の常連のFさんは今年は年賀状を半減させながら、やはり書いたそうだ。近年の筆者は大晦日に印刷して元旦に宛名書きをし、また届いた人にだけ出しているが、左右対称の切り絵を年に一枚でも作ることは、どうにか継続している気分にもなれるので、半ば億劫ながらもいい機会だと思っている。Fさんもそれは同様ではないだろうか。先月29日のFさんとの忘年会で、Fさんは筆者と家内を前に、「高齢になって夫婦揃ってへんがったら、長生きしても仕方ないで」と言った。人は自殺しない限り、いつまで生きるかわからない。家内の長姉は5,6年前まで元気であったのに、今日届いた長女からの寒中見舞いでは、ついに施設に入れたとのことだ。認知症が進行し、兄弟や妹が会っても意思の疎通が困難で、長女は頑なに面会させない。それは理解せねばならない。元気であった頃の姿だけを思い出にするのがよく、言葉は悪いが、老いさらばえて記憶をほとんど失った肉親に会うことは辛い。娘としてはそんな母親をたとえ兄弟や妹にも見せたくないのだ。まだ82,3歳で、認知症になるのが早かった気がするが、認知症は誰しもなりたくてなるものではなく、その予想のつかないことを思うあまり、意思がある間に「年賀状じまい」をするのだろう。
一昨日は訪れたことのない祇園の「漢字ミュージアム」に行き、その後京都駅でも展覧会を見るつもりでいた。ところが「漢字ミュージアム」に着いたのはちょうど5時で、閉場になっていた。そこから市バスで京都駅に出る気力を失い、京極通りで食事しようと四条通りを西に向けて歩いている途中、南の大和大路通りに入った。的屋は場所を確保して屋台の道具類などをまとめ置いていたが、「宵ゑびす」の前日で、背後の家との契約の関係か、どこも営業していない。その停電中と同じさびれた雰囲気もそれなりによい。江戸時代では日が昇っている間だけの賑わいであったはずで、日暮れになるとほとんど誰も参拝しなかったのではないか。的屋の明かりがないことよりも印象深かったのは、3,4年の間に街並みが大きく変わり、小さな宿、ホテルが目立ったことだ。それに駐車場も歯抜けのような具合であちこち広がっている。「十日ゑびす」で筆者が毎年ひとつの楽しみとしていたのは、通りに面した自宅の屋内ガレージで雑貨を並べ売るSさんと話をすることだ。Sさんは70後半から80前半の年齢で、昔ブログに書いたことがあるが、帽子をふたつ作ってもらったことがある。またSさんはそのガレージ・セールを近所の同世代の女性とふたりでやることがほとんどで、筆者は彼女らと毎年最低10分は立ち話をした。8日ではまだSさんはがらくた市を開いていないかもしれないが、ともかく四条通りから恵比寿神社に至る中間辺りにSさん宅があり、見逃すはずがないのに、神社に着くまでその家がわからなかった。それほどに家並みが変わっている。狐につままれたような気分で恵比寿神社に近づくと、今日の2枚目の写真のように通り沿いの鳥居の奧に地盤強化の杭打ち機がそびえている。どうやら神社の南に鉄筋コンクリートの大きな建物が出来る。観光客相手のホテルかもしれない。大和大路通りはそのように年々家屋が変わって行くのに、神社だけは長年そのままだ。そのことは今日の最初の17年前の写真からもわかる。3枚目の写真は境内で、祇園祭り並みに「宵々」でも大勢の人が繰り出している。家内と筆者はそれぞれ硬貨を投げて拝んだが、「儲かりますように」とはこれまで一度も願ったことはない。それよりもまずは「健康第一」だ。帰り道で筆者はSさん宅前の店を思い出した。そして今度はその店を目当てに大和大路通りを北上したところ、同店は昔のままにあった。ということはその前のSさん宅は???? すっかり面影はなくなり、おそらくお孫さんが家を継いだようで、ある店に変わっていた。そしてガレージ・セールが毎年開かれていた屋内ガレージは青空の駐車場になっていた。ああ、もうSさん、友人女性と年一回の談笑をすることもなくなった。Sさんが元気であればいいが。Sさんはたまに筆者のブログにアクセスすると言っていたので、この文章を読むかもしれない。
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