「
維摩居士 見舞い固辞され 阿羅漢に 代わりて文殊 知の比べ合い」、「人生は まさかたまさか 出会いなり すべて意思では 面白くなし」、「多幸感 分かち合いたき 人は知る 悲しみに添う 思いは常に」、「作ありて 死者の思いを 知ることを 禅は否定し 然りと言えり」
今月初旬、今日の写真に見える古い掛軸を入手した。昔から関心のある禅僧の作で、他にも数点持っているが、この竹の図はとてもよい。賛が面白く、二行目は「此左何處生」とある。これは竹がどこで生えているものかと問うていると同時に、この自画賛の掛軸が誰の手にわたっているのかとの思いを馳せている。筆者はこの竹が生えている場所を知っている。もちろんこの禅僧がこれを描いた時から250年は経っていて、竹の遺伝子は脈々と継がれていても、昔の竹とは同じではない。また絵のほうは所有者がどれほど入れ替わったのか想像がつかないが、今は筆者の手元にある。いずれまた別人が所有するが、これを描いた禅僧はそういう所有者の変遷と伝達を禅に置き換えた。つまりこの禅僧はとっくの昔に死んだが、この作によって筆者の心には今も生きているし、その顔つきや言葉使いも充分想像出来る。同じ思いをいずれこの作を所有する人も抱くと思うが、逆に言えばそういう心がわかる人しかこの作の価値を理解せず、またほしいとも思わないので、出会いの機会はない。またこの作がいつか火事に遭うなどして物理的に消えてしまうとして、これを描いた禅僧はそのことも見越していて、賛は絵ではなく竹との出会いと読み取ればよい。竹ならどこにでも生えているし、その竹を見て背筋を伸ばし、何か悟った気になる人は少なくない。つまり絵などどうでもよく、竹の精神さえ感受すればよい。しかし実際は幸運なことにこの絵は眼前にあり、筆者は物としての作と自然の竹の呼応も楽しめる。賛が意味するように、人生は出会いが本質だ。先日「ベルリンの画家」について投稿した。筆者は半世紀近く、その画家がそう呼ばれる理由になっているギリシア時代の壺絵を知らなかった。それが洋書を取り寄せたことで、第二次世界大戦で破壊され、80年ほど経った近年ようやく元の姿に修復されたことを知った。だが、元はたまたま半世紀前に「ベルリンの画家」の絵に出会って魅せられたからで、縁の不思議を思う。人生は能動的でなければ切り開かれないが、能動のみでは足りない。それを運と呼ぶ場合もあるが、能動を続けていると他者のそれが呼応するのであって、人生に必要な出会いは必然である気がする。先の禅僧の竹図にしろ、「ベルリンの画家」にしろ、彼らは筆者を知らないが、筆者は知っていて、その作をこうして紹介している。ではこの文章で次は誰が関心を持ち、そのことで人生を愉快と思うだろうか。筆者はそのことを期待もしていないが、先に書いたように知るべき人は知るのであって、そう考える筆者は幸福者だ。
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