「
Kさんは 計算強き 黄金虫 株の含みの 金蔵持ちて」、「追われ過ぎ 終わり迎えた 野兎や 今は猫並み ペットで飼われ」、「広っぱに 逃げぬ兎の 無言の眼 放置すべきか 報知すべきか」、「飼い兎 檻から逃げて 人恋し 折から出会う 人は冷たき」
昨日の投稿のついでになるが、今日は2016年8月中旬に撮影した岡崎神社の写真を全部紹介する。全部で10枚で、最低9段落すなわち400字詰め原稿用紙に換算して27枚書く必要があるので、先ほど写真を2枚一組に加工し直した。それでも13,4枚は書く必要がある。今日の冒頭の最後の二首は10年ほど前、阪急の松尾駅から南100メートルほどの物集女街道沿いで見かけた白兎を思い出して詠んだ。家内と桂方面から歩いて嵐山に戻る途中、現在は大きなマンションが建っている広大な空き地の最も歩道に近いところにぽつんと小さな白兎が赤い目をしてうずくまっていた。雑草はそれなりに生えていて、食べ物には困っていなかったと思うが、筆者がすぐそばでしゃがんでも動かず、触ってもそのままであった。飼い兎が逃げ出したのだろう。とはいえ空き地周辺のどの家かわからず、一軒ずつ訪ね歩くことは出来ない。その頃はまだ松尾駅前の京都銀行の背後に交番はなかったと記憶する。連れて帰えれば飼うことになるが、その選択はあり得ない。筆者は動物を飼った経験がない。数年前から雀に毎朝米を与えている程度で、それも米を撒いた後はさっと家の中に入り、彼らが喜んでついばむ様子を観察することを楽しみとしない。米に群がって騒ぐ声を背後にわずかに聞くだけで充分で、YouTubeにあるように、掌に餌を載せて雀に食べさせることはしたくない。ともかく、しばし家内と途方に暮れながら、兎を放置してまた歩き出した。振り返ると兎は同じ場所でじっとしている。街道は人の往来の何倍もの数の車が走り、またその兎はとても目立ったので、誰かが車を停めて連れ去った可能性はある。その人が動物好きで飼う覚悟があれば、兎は1、2年は生きたのではないか。野兎の可能性はまずない。野兎であれば防衛本能から人から逃げる。ところが見かけた兎は誰かに見つけてほしそうな雰囲気で、人に触れられることが慣れていると思えた。それにしてもだだっ広い空き地の歩道際に一羽の白兎はとても目立った。その1,2年後かにマンションが建ち、筆者は密にそのマンションの守護神が兎だと思っている。空き地の以前は田畑であったと思うが、家が建っていたにしろ、その家ないし田畑の以前の状態は野原で、兎が走り回っていたとしても不思議ではない。わが家でも30年前には裏庭に狐色のかわいい顔をしたイタチが走り回り、蛇もよく見かけた。それら動物が全滅して家だらけになった。そしてその中でペットが飼われる。ペットは内心ぺっと唾を吐いているかもしれない。野生は餌の確保に大変だが、自由がある。人間もそれが一番だ。
次の話。卯年生まれの守り本尊は文殊菩薩だそうだ。先日それを聞いて少々驚いた。母が死んだ日、筆者は村上華岳が描く文殊菩薩の絵を入手した。そして通夜の深夜、初めて短歌がすらすらと脳裏にいくつか浮かび、それを書き留めた。それからしばらくしてこのブログの投稿の冒頭に四首を詠んで載せるようになった。その短歌の半分以上は本文に関係がない。何度も書くように、ブログの冒頭の一字に何を使うかは決まっている。その話をするとややこしいが、今日は「K」を使う番で、それを厳守しつつ一首詠む。その後の三首はそれと必ずしも関係しないので比較的詠むことはたやすい。だが毎日の四首は本文を書く以上に骨が折れる。本文だけなら投稿はたやすいのにわざわざ四首を載せる。それがいつまでかとなると、冒頭の一字表が一巡するまでで、まだ1年以上は要する。母が死んでもうすぐ丸2年になるので、短歌はもう二千以上作ったはずだが、人から笑われる短歌もどきであるとしても、毎日の四首は頭の体操になり、少しは背筋が伸びる気はする。これも何度も書くように、優れた作品の陰には必ず練習また練習がある。そして才能に乏しい者はいくら練習を重ねても凡作しかものに出来ないが、それでも日々の練習がなければさらに取るに足らない作しか生まない。それに卯年生まれの筆者は文殊菩薩に縁があり、こうした駄文もわずかでも知恵を高めることに効果があると信じたい。70を超えて今さら知恵でもないが、筆者は自分が好きなことをしている時や見つけた時が楽しく、常に求めている後者は筆者を時にでたらめな方向に導くが、そのでたらめさが方向性を持っていて、しかるべき位置にいつの間にか収まると思っている。ただし筆者はあまりに無知で、知りたいことは無限にある。そんなことを早々と忘れた、あるいはほとんど全く思わない大人は筆者には退屈だ。話は合わせるが、ある一定以上の関係にはならない。だがこれは誰でもそうかもしれない。そのことを知りつつ、誰でも当たり障りのない付き合いをする。その気配りのようなものが茶の湯で言われる「淡交」で、大人の振る舞いだろう。それに筆者は関心事について意見を戦わせることを望んでいるかと言えば、そうではない気がする。それはこうした文章で充分で、反論がある人は同じく文章で意見すればよい。ところがその反論が文章と呼べず、謗りに過ぎない残念な姿を示すことがある。つまり本人は筆者以上の恥を晒している。ともかく、好きなことをあまり得意がって会話することはみっともないと思える年齢に筆者もとっくに達し、周囲の誰にも言わないことをこうして書き散らしているが、論文にすべきことはほとんど触れないようにしている。あるいは印税をもらう文章は全然違ったふうに書く。その下書きめいたものとしてブログを機能させたい思いがある。
次の話。去年の暮れ、「風風の湯」で嵯峨のFさんが散歩中に久しぶりに古い知り合いに会ったと言う。話を聞き終わって筆者は「それはSさんでしょう?」と言うとそうだとのこと。Sさんは4,5年前まで「風風の湯」でよく会った。長身でちょっといなせな感じのSさんは長年配管工をしていた。70代半ばになって仕事を辞めたか、失ったかで、今は弟さんと暮らしているそうだ。兄弟とも独身で、長年親類の仕事の世話になっていた。これも以前書いたが、Fさんは自宅のちょっとした修理にSさんを呼んで仕事をしてもらい、その代金として5000円を握らせたと言った。その時Sさんはやや不満顔であったそうだが、Fさんにすれば30分ほどの仕事ではそれで充分という考えだ。4,5年前、「風風の湯」のサウナ室で筆者はSさんとFさんと同席したことが何度かあり、ある時筆者の隣りに座るSさんが意見した時、Sさんを置いて隣り合っていたFさんがその言葉に苛立って「お前は黙ってぇ!」と一喝した。確かにSさんの話は要領を得ず、筆者は魯迅の書く阿Qをいつも連想するが、阿Qほどの調子者ではなく、筆者はSさんが好きだ。暇なSさんは毎朝5時に起きて中の島公園でのラジオ体操にこっそりと加わると言っていた。それは嵐山地区の女性が中心になっていて、嵯峨住まいのSさんはよそ者でもあるからだ。話を戻し、道端でSさんに出会ったFさんは近況を訊ねた。すると収入はないものの、どうにか暮らしていて、もうすぐ5万円の給付金が国からもらえると言ったそうだ。5万円では生活出来ないが、慎ましく生きているのだろう。そして「風風の湯」にはたまに行っているとのことで、しかも午後4時というから、筆者やFさんの姿を見ることはない。その偶然の遭遇の際、Fさんはたまたま「風風の湯」の招待券を2枚持っていて、それをSさんに与えたそうだ。Sさんをアホ呼ばわりするFさんには優しいところがある。Fさんにすれば、独身の高齢で仕事のないSさんは自己責任でその境遇に至ったが、誰でもFさんのようには生きられない。精いっぱい生きての境遇を誰しも受け入れねばならず、またそうかと言って目の前の知人に無慈悲に接することは人間的ではない。家内によれば女湯では訊いてもいないのに自己紹介として最初に「義塾卒です」と言った中年がいるとのことで、食べることと旅行のみの豪勢な話ばかりするそうだ。ぞっとする下品な女もいるものだ。筆者はSさんを見ていると、アクセル・ムンテが友人と呼んだパリのイタリア人の道路工事員を思う。彼は文無しであるのに同じ地区に住むイタリア人家族が幼ない子どもを亡くした時、棺代としてなけなしの金を与えた。それでムンテは『サン・ミケーレ物語』の最後で彼が天国に迎え入れられ、自分にその資格がないと書く。筆者はSさんも絶対に天国に入ると思っている。そうでなければ神は悪魔だ。
次の話。年末にFさんは忘年会をしようと言った。去年は株で一千万円ほど儲けたそうで、機嫌がいいからでもあろう。Fさんが最近息子さんと訪れた鍋料理食べ放題の店があり、筆者と家内は気を使ってはならないのでそれぞれ千円だけでよいと言われ、29日の午前11時に店の前で待ち合わせをして3人で2時間食事した。3人ともあまり満腹にならなかったのは、鍋料理ゆえに忙しかったからでもある。Fさんは「風風の湯」の常連では最も筆者に心を許している。食事中、Fさんはかつての商社勤務時代の話に終始笑顔で、筆者や家内のことについては全く質問しなかった。興味がないのだろう。それにFさんは筆者の芸術への関心を知っていて、その方面は全くの無知だ。聞き役に徹することは苦痛ではない。それに機嫌のよいFさんを見ているのはこっちも気分がよい。奧さんを早く亡くしたFさんで、筆者の家内はその奧さんとは何もかも似ていないはずだが、Fさんが何となく家内を好ましく思っていることは態度からわかる。さて4段落目となった。今日の写真について書く。最初の写真上は丸太町通りの南側から撮っているので、2016年のお盆頃に京都市美術館を訪れた後、たぶん泉屋博古館に行く途中であった。下の写真は鳥居奧の突き当りにある社殿だ。2枚目の写真は大鳥居をくぐってすぐ左手で、数段の階段上にある。斜め方向に鳥居が並ぶのは境内の縦長の狭さを表わしている。同神社のホームページによれば仙洞御所にあった社を1710年に遷座したとのことで、売茶翁が最晩年にこの神社からさほど遠くない聖護院村に住んだ頃はすでにあった。同じ商売繁盛でも伏見稲荷系ではなく戎の神を祀る。神額に「三宮社」とあるのは「倉稲荷魂神」と「大国主大神」を合祀するためだ。3枚目は社殿前の一対の兎の像で、昨日投稿したものより古く、また同じように阿吽を象る。いっそのこと背後の狛犬も兎にすればいいようだが、兎が大きければかわいくない。4枚目左は手水舎内の黒御影石の兎で、三方を参拝者の絵馬で囲まれる。この像が最も早く置かれたものだろう。5枚目上は社殿東の「雨社」で、元は大文字山中腹の石祠に鎮座した五穀豊穣を祈願する雨乞いの竜神を祀り、ホームページには「大山祇命」など五神の名が掲げられる。岡崎神社が兎をシンボルとするのはかつて一帯に野兎がいたことによるとされる。それが今は5枚目の写真下の社殿前に並べられる兎御籤の小さな土人形の列に変わっている。写真の奧は大鳥居で、これら兎たちがすべて社殿に向かっている様子は何ともいじらしいが、本物の兎が消えて人形とは人間の勝手を示す。境内で飼えないものかと思うが、世話する人件費が大変としてまともに考えられない。この世は何事も金次第で、近くに住む商売人は先の三宮社にお詣りする。金をたくさん儲けた者は天国に入りにくいとキリスト教では言うが、日本の神はどうなのか。
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