「
顛覆の 亀を起こして 兎寝る 優しく接し 負けても平気」、「多産には 多難があるを 知る兎 跳んで逃げるは 食われぬためと」、「満月に 杵つく兎 見た人は 丸餅ほしき ひもじさゆえに」、「野兎が いなくなっての 祀り上げ 神とは人の 罪の意識や」
先ほど階下で家内が大声で叫んだ。今夜が満月であることを昨夜調べて知ったが、そのことをすっかり忘れていた。月は昇ったばかりで、撮影はまだ急ぐ必要はない。だが家内の声は撮影を急がせるように聞こえ、筆者はカメラを持って立ち上がり、数歩先の窓のカーテンを引いた。するとオレンジ色の満月が正面に見えた。ガラス越しに3回シャッターを押して元の場所すなわちパソコンの前に戻った。すぐに確認すると1枚だけどうにかブログの投稿に使える。それから1時間ほどして遅めの食事のために階下に降りると、家内は満月が途轍もなく大きく見えたと言う。それはわかるが、勘違いで、月の大きさは変わらない。だが人間に勘違いがなければ人生は味気ない。他人がどう思おうが、誰しも自分のしていることは最高と思いたいものだ。その絶対的勘違いが幸福と呼ばれて明日も生きようという活力の源になり得る。先日アメリカ人の夫を含む家族3人が惨殺される事件が埼玉であって、殺した40男は大阪の芸大を出て映画の道に進んでいたという。両親が離婚し、母も妹も家を出て行ったのに仕送りを受けてひとりで住んでいたそうだ。それだけでも大いに恵まれているのに、なぜ他人に危害を加えるのか。一言すれば甘えているからだ。自分の才能を信じて生きて来たはずが、思うようにならないことに人生に幻滅したのだろうが、家がなく、金もない人はたくさんいる。他人と関わって生きて行かねばならない境遇に追い込まれなかったところに、その男の中途半端な金持ちの悲惨さがある。ところが世間ではその男と同じように家にこもっている者が増えているようで、彼らの立場に理解を示すべきという養護論が幅を利かせている。一方で自己責任論は相変わらず根強く、筆者はどちらに近いかと言えば、後者だ。それは一見薄情に思われるが、中途半端な同情は無責任で、頑張る気力のない者に手を差し伸べる時間を筆者は自分のために使いたい。筆者は少年期、青年期は極貧で、教科書を満足に買う金がなく、古本屋で買った教科書が数年前の改定前の内容であることを授業中に知った時の無念さは忘れられない。それでも努力するしかないし、またその気力が筆者にはあった。家にこもって親から仕送りを受けて時間を無駄に過ごし、挙句他人を殺すなど、全く無意味な人生だ。それを本人は知っていると思うが、量刑となればまた同じことを繰り返すだろう。甘えの性質は生涯変わらない。大人になれば自分の責任で人生を切り開いて行く。間違っても他人の肉を切り開いてはならず、自分もそうされたくはないだろうに、人を兎と思っているのか。
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