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●『ベルリンの画家とその世界(THE BERLIN PAINTER AND HIS WORLD)』
腕を 振うつもりの 趣味世界 心地よさこそ 天国なりき」、「好きなもの 全部自分で 見つけたと 自信あるほど 人に勧めず」、「踏み込めば 意外な出会い あると知る さらに一歩 さらなる出会い」、「顔も名も なき人の作 ただ残る 分かち難きや 形ゆえの美」●『ベルリンの画家とその世界(THE BERLIN PAINTER AND HIS WORLD)』_d0053294_01351019.jpg9月21日に家内と訪れた白沙山荘の美術館にギリシアのアルカイック期の壺が1点展示され、その作者が「ベルリンの画家」とあった。梟を一羽のみ描き、確かにその孤高性は「ベルリンの画家」の大きな特徴だが、構図はまだしも、筆致は拙い。工房の弟子による作か後世の模造品ではないかと直感したが、早速その壺絵画家の画集をフランスのネット古書店に注文し、先月8日に届いた。厚さ4.3センチのハード・カヴァーで、本文は英語、副題は「紀元前5世紀早期のアテナの壺絵」とある。白沙山荘蔵の壺がその本に載っているかどうかすぐに調べたが、結果を言えばなかった。そのことについては後述する。10月11日の投稿に書いたように、「ベルリンの画家」は筆者が成人して間もない頃に新潮社の『人類の美術』を買ったことで知り、当時最も熱中した画家であった。そしてすぐに同書に掲載される2点の写真図版を、実際の色を想定して二度以上精密模写した。壺は曲面であるから、それを撮影した人体像の写真図版は歪みがある。それを平面に投影すればどうなるかを考えて模写すべきだが、それには本物の壺に半透明の紙を密着させ、鉛筆で壺絵をなぞるのが最も正確で、それ以外の方法、たとえばパソコンを駆使してもおおよそしか再現出来ないだろう。当時はパソコンがなく、また実物の壺の胴体の膨らみはわからないから、カメラのレンズすなわち写真図版のとおりに描くしかなかった。とはいえ、おかしいと感じる歪みは是正した。写真図版の上に半透明の紙を重ねて写し取るとのではなく、本を横に置いて描くのだが、それでもかなり難しく、多大な緊張を強いられた。その過程で思ったのは、当時の壺絵画家は普段は平面に描いて画力を上達させたとして、壺は必ず曲面であるから、そこに描いて最も効果的な形や構図を狙ったはずで、そうして描かれた壺絵を平面に模写する場合、曲面の歪みを戻す必要はあまりないのではないかとの思いであった。曲面上の絵は見る角度によって形が違い、どの角度から見ても形がおかしくないようには描けない。ある程度は正しい見る角度は存在するが、その角度から眺めても周辺部は歪に見える。だがそのことを感じさせない自然さで描くのが壺絵画家の技術であり、「ベルリンの画家」の作はそうなっている。それで繰り返せば、その壺絵を平面に描く場合、絵の周辺部の歪みをことさら訂正する必要はないということに考えが落ち着いた。歪みを持ちながら壺絵として正しく、また芸術性があり、それを平面に「精確」、つまり歪みなしに描けたとして、それは「ベルリンの画家」の意図から外れているのではないか。
●『ベルリンの画家とその世界(THE BERLIN PAINTER AND HIS WORLD)』_d0053294_01355247.jpg
 そこでさらに考えるのは、人間の眼球、網膜も曲面であることだ。曲面の視野が曲面上の壺絵を見つめる。そのことは平面の絵画を見ることよりも本当は自然なことではないか。言い換えれば人間が見るその周辺部は歪みを持っているはずで、「ベルリンの画家」の壺絵の人体の周辺部が歪んで見えることをごく自然に受け入れる。壺絵をカメラで撮影する場合、レンズから最も近い壺絵の中心すなわち壺の胴体に焦点を合わせると、周辺部はレンズから遠ざかる分、ぼやけて見える。そのことを避けるために任意に定められるレンズの絞り機能があり、『人類の美術』に載る2点に「ベルリンの絵画」の壺絵写真の人物像は周辺部がぼやけておらず、そして周辺部は歪みを含んでいる。その絵を「ベルリンの画家」は顔や手足、胴体それぞれを正面図として捉え描き進めたが、そのことは設計図で言う正面図であって、視点を唯一に定めた透視図法にしたがっていない。これは鑑賞者の視点が厳密に言えば一定し得ない壺であれば当然で、「ベルリンの画家」の壺絵はたいてい表と裏にそれぞれ別の人物が描かれるが、ある程度の正面から眺めて不自然でないように工夫されている。それが前述のように設計図の正面図的捉え方だ。そうした正面図はいわば無数の視点に対応して事物の正確さを伝える。したがって壺絵の鑑賞者は絵の中心部に視点を定めて鑑賞すれば、絵の周辺部分はわずかに歪んで見えることを知りつつ、不自然さをさほど感じない。立体の人体を平面に描く場合、必ず歪みの問題に突き当たる。ギリシア時代の壺絵はそのことを感じさせながらごく自然であるとも思わせることで、平面絵画よりも「自然なもの」に見え、そのことが人間の眼球との関係ゆえとも言っておこう。さて届いた本はほとんど半世紀ぶりに筆者の夢がかなった。「ベルリンの画家」のカタログ・レゾネでもあり、日本語版は出ていないと思うが、そのことから日本におけるギリシア美術の認知度がわかる。西洋の芸術をよく知るにはギリシア・ローマ文明とキリスト教は基礎で、それらを無視して最先端のあらゆる芸術や文化を評論するのは本当は滑稽と言うべきであろう。興味深いことに「ベルリンの画家」は楽器をしばしば描いている。それに動物もだが、筆者が最も興味深いのは衣服だ。たいていは襞(ドレイプ)がたくさんあって、男女ともにその着衣とそこから半ば透ける脚の線が艶めかしい。とはいえ、「ベルリンの画家」の人物像はみなクールな表情で、喜怒哀楽がほとんど感じられない。そのことを理知的と見るか冷た過ぎると見るかは人によってさまざまと思うが、猥雑さが全くない点が魅力的であり、それが「ベルリンの画家」に限ってのことか、アルカイック期の芸術全般にそうであるかは判断が難しい。絵は精緻過ぎず、無駄な線は一本もなく、人体の均衡は完璧だ。
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 そうした極度に完成された絵を見てしまうと、もはや後世の画家はなすべきことがないように思うが、幸いと言うべきか、古代ギリシアはローマに飲み込まれ、「ベルリンの画家」の壺の大半は壊れた。地下に埋もれたごくわずかが19世紀に盛んに発見されたが、それらをイタリア・ルネサンスの画家たちは見ることは出来ず、したがって自由に描くことが出来たと言ってよい。「ベルリンの画家」はBC505年から460年代に製作したことが判明している。日本の国が出来るよりはるか以前のことだ。それにそんな大昔のことが10年単位でわかっている。これは建築や政治その他を統合的に研究し、辻褄を合わせた結果で、それほどの学問の蓄積が西洋にある。そのため、「ベルリンの画家」の正しき名前はわからなくても、彼がどういう絵を描き、それが他の壺絵画家とどう画風が異なり、どういう個性を持っているかが今では本書からわかる。もちろん研究は限界がないので、新たな壺が発掘され、新たな研究がなされる可能性は常にあるが、ここ百年の間に多くの研究者が「ベルリンの画家」の全貌に近づく努力を続けたおかげで、世界一古い、そして大画家と呼んでいい作家の作品集が出来上がった。まことに頭が下がるが、それほど「ベルリンの画家」に大きな魅力があるので、研究が続けられる。2500年前の顔も名もわからぬ壺絵画家の末裔がいるのでもないのに、なぜそんなに注目し、生涯を費やして研究するのか。筆者は「ベルリンの画家」から、生きている間の名声や経済力は何の意味もないことを思う。純粋に作品がただただ奇跡のように素晴らしい。2500年前の人間が現在とどう違ったかと言えば、壺絵は工房で製作され、壺本体を作る人と絵を描く人に分かれていたはずで、たとえば板谷波山と同じように製作していたであろう。となれば職人的芸術家で、生活は慎ましいものであったろう。ところがそれゆえか、あるいは当時の文化のせいか、「ベルリンの画家」の絵には猥雑さがない。その透明感と均衡美は当時の人も同じように味わったはずだが、もちろん絵画を理解しない人はいつの時代でも圧倒的に多く、それゆえ「ベルリンの画家」は名前は伝わらなかったが、いつの時代にもごくわずかに作品の真価を一瞬でわかる人がいて、イギリスのサー・ジョン・ビーズリーは「ベルリンの画家」を最初に注目し、研究を1911年に発表した。その頃の彼が「ベルリンの画家」に夢中になったことは筆者にはよくわかる。筆者も『人類の美術』の写真図版で即座に魅せられ、模写したからだ。本書はビーズリー卿に捧げられ、彼の後継者である研究者たちが9つの論文を書き下ろしている。筆者はそれらを読む時間がなく、もっぱら写真図版を見るだけで時間を過ごすが、こういう絵画を生む文明はもう二度と人類には現われないことを思いながら、何度見てもため息が出て来る。●『ベルリンの画家とその世界(THE BERLIN PAINTER AND HIS WORLD)』_d0053294_01371223.jpg さて以前書いたようにビーズリー卿が模写した壺絵集があることを知っているが、そのうちの一図が本書に掲載される。『人類の美術』にも載り、かつて筆者が模写した壺絵だ。「Citharode」と題され、以前は「竪琴を持つ女」と書いたが、「歌うキタラ弾き」がより正しいだろう。本書ではカタログ番号が15で、初期に同定されたことがわかる。イタリアのナポリ県北東部のノーラで出土し、1956年にメトロポリタン美術館蔵となった。アンフォラで、裏面は「Ⅾraped Man with Staff」と題され、これは「杖を持った襞布をまとった男」と訳すべきだが、この布をたっぷり使用する「Ⅾrape」を絵の大きな要素として用いるのが「ベルリンの画家」の画風の大きな特徴で、そのことは「竪琴を持つ女」にも言える。現在はTシャツ1枚で闊歩する人が多いが、古代ギリシアでは貴重であったはずの布を、必要な倍以上も使った着衣が流行したのだろう。それはともかく、ビーズリー卿が模写した「竪琴を弾く女」は実物の壺を目の前にしたもので、カメラのレンズのように固定した一点から見つめたものではない。それゆえ、前述のように壺に透ける紙を貼りつけて絵の線をなぞったように「精確」なものとなっている。これが羨ましい。絵画の模写と違って壺絵の模写では写真図版は一鑑賞点に過ぎない。今日の2枚目の写真では壺絵の写真とビーズリー卿の模写を対比させたが、壺絵では下半身が長く引き延ばされて見える。それはそれでスマートに見えるし、またその効果を「ベル真の画家」が狙ったことも考えられるが、設計図の正面図としてビーズリー卿が描き起こした図を見ると、人体各部の均衡がちょうどよい加減となっている。となれば「ベルリンの画家」の代表作すべてを同じように描いた図の本がほしいが、ビーズリー卿が何点描いたかは知らない。本書で筆者はこの「竪琴弾き」の裏面が髭を生やして杖を持つ男の立ち姿であることを知ったが、どちらが表で裏であるかは本当はわからない。絵の仕上がりや保存状態のよさから「竪琴弾き」が優先されているが、このふたりの人物は裏と表にあって、決して同時に見ることは出来ない。それで物語が想像出来る。つまり竪琴の音色と歌声を耳にした仙人めいた男が彼女を呼び止めるという場面だが、そこには描かれないものの、樹木や丘、小径が見えるようで、それら一切付属物を省いて「ベルリンの画家」は人間だけを描く。それは人体の優美さ、動作の完璧さをひたすら愛するという人間賛歌であり、人間が神と同一になっている。それは完璧な技術で描き切ることが神であることと同義で、筆者はそのことを「ベルリンの画家」によって確信した。完成、完璧の後に腐敗、崩壊があり、そこにもそれなりの美を認めることは出来るが、まずは完璧があってのことだ。その域に到達しないものは価値なしとして消える。
●『ベルリンの画家とその世界(THE BERLIN PAINTER AND HIS WORLD)』_d0053294_01375991.jpg

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by uuuzen | 2022-12-03 23:59 | ●本当の当たり本
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