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●『WAKA/WAZOO』その5
のうち 子孫残すは 微々の微々 後は食われて 糞となりけり」、「伝統を 壊す人知る 伝統の 厚み知らずに 短き命」、「名人の 技を知る人 常に稀 名を見て実を 知らぬ人の世」、「名人も 迷信思ひ げんかつぎ 謂れ知らねど 厄は避けたし」
●『WAKA/WAZOO』その5_d0053294_00044420.jpg
昨日言及した「アンディ」の歌詞に「皮紐」が荘厳云々とあることは、歌詞の理解をどう助けるだろう。皮紐は鞭を連想させるが、それが荘厳であるとは倒錯的性行為に因む歌詞かと思わないでもない。そうであっても結論として歌詞は権威に一度は馴染んだことの否定で、ザッパがよく「iconoclast」と呼ばれることの理由を説明する曲と言ってもよい。「イコノクラスト」はカトリックから生まれた運動で偶像崇拝否定のことで、転じて伝統や権力の批判にも使われる。ロックンロールないしロックは若者の自己表現手段で、現在もそれは続いているが、ロックも権力を持つことは当然の帰結で、そうなればそれに反対してたとえばパンクが生まれ、ロックが歴史として永らえることになるが、元来ごく単純な音楽であるので、今後もロックが愛好されるとして、その芸術性はもう出尽くしたのかどうか、これは現在ないし今後の若者がどう創造して行くかの問題で、誰にも明らかなことはわからない。ただし、この80年ほどのロックの歴史を見ればそこには多様な歴史、あるいは伝統が培われていて、新たなロックをやるとしてその参照すべき作品は充分網羅され尽くしている。ところが前述のように基本は中学生でも即座に演奏出来る単純さがひとつの大きな命であるので、たとえば彼らは80年前のロックンロールを聴かず、ましてやザッパの何たるかを知ろうともしないし、知る必要も全くない。それでも自己表現によって億万長者になることも夢ではなく、そうして人気者になった彼らが、伝統破壊主義者と呼ばれる、あるいはそのことを標榜して自惚れるとして、大多数の人はそのことに異を唱えないだろう。それほどに短期間で大人気をさらう者は同調者を産みやすい。ザッパはそのことをたとえばビートルズを例によく知っていた。ザッパがジョンとヨーコと共演した時、ふたりのやる音楽はみなわかっているといった意味のことを語ったそうだが、それはジョンの音楽がロックンロール、つまりコード3つの単純な音楽、ヨーコの音楽はコードがないかあってもひとつというさらに単純なもので、基音さえわかればバンドは伴奏出来たからだ。それはプロとしてあたりまえで、ジョンとヨーコの音楽に合わせるだけではなく、マザーズとしての個性を発揮することも忘れなかった。そこからは伝統破壊主義者が伝統をくまなく努めている者であることが垣間見える。それにザッパ自身は自分をイコノクラストとは言わなかったであろう。謙虚さがあったからだ。それゆえザッパはインドや中国の文明に比べて200年の歴史しかないアメリカに言及した。
 ザッパはアメリカ人の音楽観があまりに貧しいことにも言い及んだ。大多数の人は西洋の古典音楽を映画でクラシック音楽風なオーケストラ曲で代用するのみで、ヨーロッパの大作曲家の作品を一生聴かずに過ごす。日本でも同じで、そんな歴史、伝統を全く知らずともギターとドラムで演奏すれば人気者になれる「子ども文化」社会が築かれている。その背後には金儲けがうまい大人が蠢いているが、ごく短期間でも有名になって金儲け出来ればそれでよしとする若者が多く、需要と供給の均衡は保たれている。そこに調子乗りの評論家紛いが一枚噛めば彼らは怖いものなしで、ネットも動員してそれこそ世間を席巻する。そのことを石鹸で洗い流そうとしたのがザッパとは言わないが、何事も確実に少し遅れてアメリカの物真似をする日本であるから、ザッパが73年にアメリカのTV界を「アイム・ザ・スライム」と風刺したことは日本でもますます当てはまるようになり、「子ども文化」ならまだしも、その頭に「醜悪な」を付け足す必要のある事態が続いている。そういう社会でザッパの音楽がどういう意味を持つかとなれば、昔から筆者は思っているが、大いなる誤解でありこそすれ、ザッパの精神を何ら理解しない、そもそも出来ない連中が、「イコノクラスト」を曲解して伝統無視に勤しむ。そんな七難しいことをやらずとも、ごく簡単に有名になり、金儲けが出来るではないかとの理由だ。それで日本で数万人の客を集めてライヴをするミュージシャンが「ザッパ? それ誰?」と思うだろう。いつの時代の世間も活きのいいのが大好きで、古臭い伝統はどうでもよい。それにザッパも「イコノクラスト」と呼ばれたからには、伝統を破壊して人気者になったのではないか。そこにザッパをパンクと見たベン・ワトソンの考えもあるということだが、偶像破壊はその偶像を物理的に壊せば済むとして、音楽のような目に見えない形のものを壊すというのであれば、それが持っている伝統のどの箇所を改めるかが問題になる。つまり伝統を破壊するには伝統を知る必要がある。そうでなければそれこそ稚戯だが、平和が続けばそれが幅を利かせる。その現実を横目で見つつザッパは創作を続けたが、独学ゆえに因習に支配されなかった。そしてヴァレーズを敬愛するあまり、音楽家は死ぬことを拒否するとの旗印を掲げ、また自分の音楽を好む人々が確実に存在することを知る幸運に恵まれたが、それは貧困に苦しむ音楽家を蔑むことにつながらない。そもそもキリストが歴史上稀な真実の人であったとして、彼は権力者に理解されずに磔にされたではないか。それを思えば世間の大人気者であるからその存在がそうでない人よりも優れているとはとうてい言えない。ザッパは経済的に成功したが、インタヴュアーからそれを指摘されると、ビートルズほどに有名でも儲けてもいないと言って、経済力で作品を云々されたくないことをにおわせた。
●『WAKA/WAZOO』その5_d0053294_00051510.jpg ただしザッパはギターをひとり奏でて歌うフォーク・シンガーのような道を目指さず、ヴァレーズのように大がかりな大管弦楽曲を書いて演奏させる夢を持ったので、どうしても経済的な成功を求める必要はあった。ただしそういう大曲が音楽家の価値を左右するとは限らないことを知っていた。それでコンロン・ナンカロウのようなひとり籠って特殊な楽器専用に曲を書き続け、さほど有名にならなかった作曲家にも関心を寄せたが、そういうザッパを知ることはもはやロックやポップスとは全然違う畑、つまり芸術的音楽の視野で見つめることになるのに、さて日本のザッパ・ファンないし研究家を謳う者のどれほどがザッパをそうした地平で捉えているかとなると、まあ言わずもがなだ。ともかく、ザッパは人気が命のロック・ミュージシャンであったから、その点で見れば二流になるだろうし、またヴァレーズのような確実に西洋音楽の歴史の一齣として大作曲家の仲間入りをしつつある人物ほどに「純粋」ではなかったので、その点でも二流として見られ、一風変わった中途半端な音楽家として世間では評価が定着する可能性が大きい気がする。そのことは生前から明らかで、たとえば72,3年のザッパのアルバムの日本での評価を見ればよい。どの評論家がまともに『ワカ/ジャワカ』を持ち上げたか。有名な音楽雑誌でも普通かそれ以下の評価で、ろくに聴いていないか、聴いてもわからない耳をしていた。とはいえ、それが世間というもので、50年ぶりに公表される、ザッパが蔵入りさせていた録音を本作として発売しても聴くのはごく少数で、この文章を読む人もまあ100人もいないし、いても大半は反論だが、コメント欄を閉鎖しているのでうるさい声に耳を貸さずに済む。ところでどういうファンであろうが、ザッパにすればレコード、CDが売れて音楽活動が続行出来ればよかったと表向きは言える。知性の足りないファンに誤解されても彼らなりに楽しんでくれるのであればそれでよく、聴き手を選ぶことは出来ない。それを前提としつつあえて筆者が言いたいのはたとえばヴァレーズからザッパへの系譜だ。そしてヴァレーズはドビュッシーに学んだから、ザッパは西洋の古典音楽に連なっている。そこにアメリカ黒人のブルースの加味だが、そのブルースにしてもザッパが初めて作曲の要素としたのでは全くない。そのため、ザッパの音楽をより理解するにはザッパの曲だけを聴いていいことにはならない。ザッパが偶像破壊者として、その崇められている偶像の実態を知らねばザッパがどのようにそれを壊そうとしたかはわからない。だがロックやポップスの範疇でザッパを見つめる限り、「恰好いい」人気者の要素が優先され、またそれはすぐに新たな若さに駆逐される運命にある。したがってザッパが恰好いいとして、その要素は音楽性に求めるべきで、それには伝統や古典を知る努力をするしかない。
 ようやく本論。『ワカ』と『ワズー』の2作を作り上げたザッパは20人編成、そして10人編成でアメリカ、ヨーロッパをツアーした。70年代初頭、10人編成の「プチ・ワズー」のライヴを収録した海賊盤があった。高価なので買わなかったが、当時「ザ・グランド」や「プチ」のワズー・ツアーについての情報はもたらされるのに、そのライヴ盤が正式に発売されないことが大いに不満であった。それが昨日書いたようにザッパ没後に数枚が世に出たが、『ZAPPA/WAZOO』以外はひとつの全ステージを収めたものではなく、さまざまな会場で録音された、しかもソロの部分のみ切り取った断片の寄せ集めで、アルバムの完成度は乏しく、海賊盤の少々ましなものであった。今回の5枚組のディスク3後半とディスク4はその双方のツアーから曲が選ばれたが、ディスク3にはジョージ・デュークの曲の後にまず「アプロキシメイト」が入っている。これは『ZAPPA/WAZOO』にあるヴァージョンより2分ほど短く、ブックレットにあるようにザッパが75年頃に編集したものだ。ザッパは75年に自作の管弦楽曲をUCLAで演奏、収録するので、その成果とともに当時何かのアルバムに収録するつもりがあったのかもしれない。またもうひとつ思い起すのは、この曲の存在をザッパが初めてアルバムで紹介するのは76年の『ザッパ・イン・ニューヨーク』で、その見開きジャケット内部の「パープル・ラグーン」の曲説明に、「パープル・ラグーン」と「アプロキシメイト」のふたつの主題が対比されて奏でられていると書き、後者を「ザ・グランド・ワズー」期の未発表曲と知るした。一方74年のTVに出演して当時のマザーズが演奏した際、ナポレオン・マーフィ・ブロックが同曲の主題を歌い、その時は画面に楽譜が映った。ザッパの曲として重要な同曲はそのようにいわば小出しされて来たのだが、「パープル・ラグーン」にその主題を吸収した形で演奏したザッパは後年その「パープル・ラグーン」をディスコ調でライヴ開演のテーマ曲とするに至り、「アプロキシメイト」はすっかり忘れ去られた。それが独立した曲として発表されるのはザッパ没後の『ZAPPA/WAZOO』だが、前述のように74年にはTV画面に主題の楽譜を後で編集して掲げているので、レコード発表はしていなかったものの、ザッパにすれば72年に書いた主題の思いは刻印され、愛着があったと言ってよい。同曲の重要性はディスコ・ブームが来る前に踊れない複雑なリズムで書いていたことで、それはロック音楽では御法度とされる代物と言ってよく、レコードに収めるにその適切な場所がなかったのだろう。それでもうひとつ「パープル・ラグーン」の主題を書き、併せて演奏することにしたが、その傍ら「ブラック・ページ」を前面に押し出した。
 つまり、72年のワズー・オーケストラを使ってザッパは76年のザッパを大きく特色づける曲の主題をいくつも書いた。そのことは『ZAPPA/WAZOO』の「グレッガリー・ペッカリーの冒険」の5楽章や本作のディスク3後半とディスク4に収められる「プチ・ワズー」の演奏からわかる。昨日書いたようにそこには後にアルバムで発表される主題が別の曲に使われるなど、ザッパ研究において楽譜に遡って分析する必要のあることが満載されている。それだけで足りないのは、ザッパが歌詞や物語を書いたことで、その文学的な観点からの周到な分析も欠かせない。そしてそれらが一体となってザッパがいかにイコノクラストであったかがわかるのだが、ほとんどのファンはおぼろげにそれを知るのみで、また敬して遠ざけるだろう。簡単に言えば熱烈なザッパ・ファンを自認するミュージシャンであっても、人気曲ないし好みの曲を模倣するだけで、ザッパの最もザッパらしい「アプロキシメイト」といった曲の主題を易々と弾きこなし、さらにはその後にふさわしい即興演奏を紡ぐ才能は皆無と言ってよい。それゆえザッパは「ザ・グランド」と「プチ」のワズー・ツアーの録音はアルバム化しても売れる見込みは乏しいと判断したのではないか。自分のやりたいことと売れる音楽の区別をザッパは明確に知っていたはずで、後者を意図しつつ、前者を随所に忍ばせたが、その前者あってこそのザッパであって、そこが因習破壊とみなされる部分であった。つまり「アプロキシメイト」はそのひとつの代表で、その短い主題に続く即興が大半の72年のヴァージョンを75年頃に編集し直したところにザッパの呻吟ぶりがある。ともかく本作のそのヴァージョンからは売れにくい曲への愛着が伝わり、経済性に悩んだザッパの姿が見えそうな気がする。耳障りが悪そうなそうした主題こそがザッパの個性を如実に示し、繰り返すと72年はその豊穣期であった。本作の「アプロキシメイト」の次に「プチ・ワズー」のサンフランシスコでのライヴがディスク4とともに収録される。合計78分の演奏で、これを1枚のCDに収録してほしかったが、それには1曲目のコンサートが始まるまでのザッパのメンバー紹介やチューニングを数十秒ほどカットする必要があったかもしれない。またブックレットにはアンコールでもう1曲演奏された可能性があるとするが、ザッパはそのテープを遺していない。それを言えばそもそもザッパが「プチ・ワズー」のツアーをどれほど録音したかだが、ジョー・トラヴァースはそれを明らかにしていない。それで小出しの形でこれまでアルバム化されて来たが、本作においてようやくステージ丸ごとの収録が『ZAPPA/WAZOO』とともに揃ったことになる。未発表の録音がまだあれば今後はそのアルバム化だが、目ぼしい曲はもうほとんどないのではないか。
●『WAKA/WAZOO』その5_d0053294_00061442.jpg ディスク3の最後は「リトル・ドッツ」で、この主題の楽譜は同名アルバムのジャケット内部で公表された。同アルバムと本作とで同じ曲がステージが変わればどう違うかを聴き比べられるが、主題よりも聴きどころは即興演奏部分で、ザッパはそれを新たな主題を産む場とみなしたので、主題と同じほど重要だ。主題がきわめて演奏困難であれば、それに続く即興も瞠目させられる箇所の連続であらねばならず、ザッパが発表したギター・ソロはどれもそれぞれのフレーズが主題に化ける魅力を持っている。それゆえザッパはしばしば自分のギター・ソロの録音を短縮してアルバムで発表した。ここは重要で、即興本来の命としてそれこそ0.1秒単位で真剣であるべきが、凡庸なミュージシャンは個性も緊張もなく、自己に酔ってだらだらと演奏し続ける。それはさておき、ザッパは20人ないし10人のワズーを前に楽譜を立て、指揮棒を振っている写真がある。これは主題はもちろんのこと、即興もある程度は楽譜の割り付けがあったことを思わせる。楽譜どおりに演奏する技術を持つプロのミュージシャンを集めたことは当然ながら、即興で個性を発揮し得る才能も求めたのは、ひたすら自分の創作を完璧なものにしたいためで、それが恰好よさと思っていた。それは格好だけ一人前のロック・ミュージシャンの姿からは遠く、したがってザッパの才能の真価を問うべきはわかりやすいブルースを主体にした曲ではなく、「アプロキシメイト」のような演奏困難な主題だ。それはたとえばディスク4の最初「アメリカ・ドリンクス」にもある。この曲はヴォーカルつきのヴァージョンとともに『アブソルートリー・フリー』に収録され、いかにもアメリカ的なジャズだが、同ヴァージョンから4年後の本作の演奏では著しい編曲がなされている。メンバーのソロが加わったのは当然として、オリジナルにはなかった主題が中間部に突如現れる。ザッパの指揮が目に見えそうだが、ザッパが曲を絶えず改変した、つまり自らの因習破壊の好例で、その主題は別の曲に使われた形跡はたぶんなく、楽譜として発表されることでザッパの創作の広がりが改めて認知される。次の「モンタナ」はイントロが後年の『ジョーのガレージ』の「スティック・イット・アウト」と同じロック調で、それが終わった直後に72年ではまだ発売されていなかった『オーヴァーナイト・センセイション』のようにザッパがヴォーカルを担当する。中間部はザッパのギター・ソロで、それが終わってすぐに冒頭のリズムに戻り、そして歌がまた始まる。次の「さらに遠くのオブリヴィオン」は『イマジナリー・ディジージズ』にも収録され、聴き比べるとよい。この曲は主題が多く、また別の曲「オブリヴィオン神父」との関係を含めると一冊の本が書かれるほどのややこしい事象を含んでいる。
 その作業を誰にもわかりやすく行なったザッパ・ファンはいないと思うが、それには楽譜の読み込みが欠かせないことと、歌詞の意味するところの源泉が謎めくからだ。その意味で日本の若い人気ミュージシャンが書くような子ども向けのラヴ・ソングとは天地の開きがあるが、もちろんザッパは無視されるか、天地の地と見られる。次の「コズミック・デブリ」の歌詞は「アンディ」に通ずる。似非宗教家のような人物が風刺され、それがどういう個人か団体であったかはわからないものの、たとえば統一教会を思えばよい。洗脳によって信じ込んでしまうのは弱い性格のためかどうか、ザッパは自分は騙されないと歌う。そこには裏を返せば人を操ることは簡単という思いが見え透く。人気者になるのはだいたいそういう人間で、人は騙すか騙されるかに二分される。もちろん後者が圧倒的に多数で、人気者はいつの世にも求められる。そこにイコノクラストがどう絡むか、それを知ることでより世間を手玉に取ることが出来そうだが、真実味の度合いの多寡によって、言い換えれば稀な個性の度合いによって後世への名声の伝わりの度合いが変わる。ディスク4の最後は70年発表の「チャンガの復讐」で「リトル・ドッツ」と同じほどの18分の長さがあるが、曲目紹介やチューニングの時間を加味すれば本作最長だ。主題のギターを含む音色がとても分厚く、その伴奏の管楽器群を圧倒している。主題後にメンバーのソロが順に続き、その最後にザッパが登場するのはこの曲の恒例で、4年後の日本公演でもそうであった。プチ・ワズーのツアーで顕著なのは「アポストロフィ」で披露されたのと同じ奏法のドラムスのジム・ゴードンの叩き方で、それが短期に終わったのは当時彼の人気が高く、他のミュージシャンから引っ張りだこであったからだが、ブックレットにあるように麻薬で早死にした。さてディスク5をTVに接続している録画機で一聴した。先日その5.1チャンネルで楽しめるディスクが4トラックと書いたが、それは早とちりで、5.1チャンネルのサラウンド方式は実際は音がいくつに分離しているのか知らない。CDの256倍のリゾルーションとのことで、4つどころかもっと多くのトラック数に分離して収録可能なのだろう。ともかく今日の3枚目の写真は表示画面で、一番上中央のザッパの顔写真の左右端に細い棒印が表示され、そのどちらかを指示すれば下2枚の『ワカ』と『ワズー』のアルバム・ジャケットと曲目が表示される。それ以外の画面はなく、ヴォーカル曲の歌詞表示や演奏者のクレジット、『ワズー』の見開きジャケット内部のメンバー写真や物語もわからないようになっている。ディスクの盤面はカル・シェンケルが当時描いたミッキー・マウス風のキャラクターを下敷きに別のイラストレイターが『ワカ』のジャケットの精緻な点描技法を引用して描く。
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by uuuzen | 2022-12-23 23:59 | ●ザッパ新譜紹介など
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