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●「PENÉLOPE(O ENGENHO DA COSTELA)」
笛を 吹いて叫ぶな パンの神 牧場の牛の 乳の出思へ」、「歌を聴き 言葉知らずに 楽しみて 場所時問わず 人は変わらず」、「何歌う 身の丈応じ 石は石 輝く玉は 磨き経てこそ」、「石ほどに 玉と思ひし 世の常と 嘆くは石の 証と謗り」
●「PENÉLOPE(O ENGENHO DA COSTELA)」_d0053294_22445662.jpg
先日CDの棚の整理に1時間ほど費やした。一、二回しか聴いていないものがたくさんあり、一生聴く分には困らない。本も同様で、買ったままで長年気になっている「積読状態」が、読んだものよりはるかに多い。図書館で借りたほうが貸し出し期間の2週間が気になって読破しやすいようだが、2週間を一度延長して1か月借りたままでも読みこなせない場合がある。それに期限を気にするのは嫌で、また筆者が読みたい本は図書館にない場合のほうが多い。CDはなおさらだが、今はネットで聴き放題のサービスがあってCDを買うよりもそっちが便利と思っている人が増えているだろう。それにYouTubeなら無料で、CDの売り上げが下降線をたどる理由はわかる。CDにこだわるのは筆者のような古い世代で、本を買うのと同じく、形あるものを手元で見たい、触れたいからだ。そこには音以外の音に関係する情報が詰まっている。話を戻して、CDを並べ変えながらもう聴かないはずのものを段ボール箱に詰めていると、買って四半世紀は経つはずのMÍSIAのCDを3枚見つけた。これらを筆者は買った当時一度しか聴いていない。たぶん1枚100円か200円であったので買った。それにセシール・カットの髪型の女性の顔がやや日本人的で、どんな声かと興味を持ったからだ。筆者は気に入る女性歌手を常に探しているが、日本人歌手には関心がない。MÍSIAはIにアクセント記号があって「ミージア」と読むが、日本人歌手に同じ名前のMISIAがいる。ミージアは本名でなく、CDブックレットの解説によれば1920年代のパリでのサロン文化でのミューズの愛称であったとある。これは当時の画家や音楽家、小説家たちのパトロンとなったミシア・セールで、ポーランド系のピアニストだ。ミージアがミシアを敬愛する理由はその名前が「忘れ難い象徴的な響き、音楽的な響きに聞こえたから」とのことだが、同じ女性として見習いたいカリスマを持っていると思っているのだろう。日本の歌手MISIAもミシア・セールに因むのかどうかは知らない。ミージアはシンガー・ソングライターではなく、他人の曲ばかりを歌っている。それにファドだけではなく、シャンソンや他の名曲もカヴァーする。ポルトガルの港町ポルトの生まれで21歳まで同地で暮らし、学生時代はファド・ハウスで飛び入りで歌っていた。母がバルセロナ生まれで古典舞踊の先生で、ミージアも同地でダンサーとしてデビューし、13年を過ごした。その間パリを始めヨーロッパ中を回り、88年にマドリードに行ってポルトガルの伝統音楽を発展させることに目覚めた。 91年にリスボンに帰り、「現代」のファドを歌うようになった。筆者が所有する3枚のうち、95年の『FADO』はブックレットによれば2作目とある。アマゾンで探すと日本のMISIAのCDが大量に表示され、彼女に全く関心のない筆者は閉口するが、「MÍSIA FADO」で検索すると10作ほどが表示される。90年代半ばに相次いで発売されたことからすれば10作は少ない。そこからファドないしミージアの知名度がわかるかもしれない。また伝統的なファドを現代風にするということは新しさ、流行を取り入れるということで、そうなれば世界的に有名な歌い手と同じ土俵での活躍を目指すことになって、いかに売るかという方策を考えねばならない。それには歌手の才能が一番重要なことは当然でも、どういう曲をどのように歌うかというプロデュースの手腕がものを言う。筆者は所有する3枚を発売順に聴きながら、その後ミージアの音楽性がどう変化したのかについて何となくわかる気もする。それはアマゾンで彼女のCDのジャケットを見比べることにもよるが、ファドの本分を忘れないようにしつつ、いかにファドを知らない人にポルトガルの歌に興味を持ってもらうかという、悪く言えば一種の迎合で、またその態度がなければ若い聴き手には受容してもらいにくいだろう。だが、たとえばミージアがどこまでビョークのように斬新さを保ちつつ変化を遂げ得るかとなれば、彼女の年齢も考慮すると難しいものがあるだろう。さて、筆者はファドには思い出がある。筆者より一回り年上世代のK先生と昔酒を飲みながら話している時、K先生は日本の歌手ではちあきなおみのファンで、彼女がファドを歌う本格派、つまり本物の歌手であると褒めたたえた。そしてアマリア・ロドリゲスのことにも話が及んだが、筆者はファドをまともに聴いたことがなく、返事のしように困った。しかしちあきなおみがファド好きであれば、ファドは日本の演歌に通じるものがあるはずで、そのことからファドのおおよその世界は想像出来る。ところがファドと演歌を結びつけてしまうと、演歌に関心のない筆者はますますファドから遠のく。では演歌が駄目でファドならいいと思うことは視野が狭いか。このことは日本人歌手のMISIAに筆者がなぜ無関心であるかということにつながる問題だ。アマリア・ロドリゲスはフランスで公演してその後世界的に名を馳せた。世界的に有名な女性歌手にたとえばピアフがいるが、日本を代表する美空ひばりは欧米あるいは世界的にその名と歌声が知られるか。そうでないとすればそれはなぜか。美空ひばりは演歌歌手に限定出来ないが、現在日本でよく知られる女性演歌歌手は世界進出を目論んでいるかと言えば、日本人移民の多いブラジルやハワイではそれなりにファンはいてたまに公演はするかもしれないが、ピアフのように場所と時を超えて聴き継がれる音楽性を持っていない気がする。 また歌手当人たちも自分が生きている間だけ人気を保てればそれで充分で、それゆえに流行歌、ポピュラー・ソングと思っている。それはそれだけ歌手が無数に湧いて来る国柄を示してもいて、文化的に貧しいとは言い切れない。むしろアマリアが突出して知られるポルトガルのファドは歌い手の裾野が小さいと言えるかもしれない。この辺りのことを中村とうようはどのように考え、また書いたのか知らないが、「大衆音楽」をどう捉えるかは国それぞれによって大衆をどう定義するかに関係し、簡単に片づけられる問題ではない。ここでまたアクセル・ムンテの本について語ると話がややこしくなるが、少しだけ書いておくと、ムンテの『サン・ミケーレ物語』は20世紀で最もよく売れた本と言われ、その点では全く大衆文学と言ってよいが、その本が日本で人気がないのは、日本はヨーロッパの大衆の意味を理解していないとも言える側面がある。ムンテは知識人で、その著作を理解するのは百年ほど経つ今、ますます注釈なしでは困難になって来ているが、当時でムンテの文章の行間を読み取る人はムンテ並みの文化への関心がなければ無理であったろう。つまりムンテの著作は大衆が歓迎するものであったとして、その大衆は知識を無視しないほどに知性があった。日本の演歌歌手はシンガー・ソングライターでなく、専門の作詞家、作曲家が書いた曲を歌う場合がほとんどだが、そこには専門の歌手との三位一体による完成度がたいていの曲には見られる。ただしそれは言い換えればどの曲も型に嵌り込み、似た節回しになる傾向が強い。その点はファドもシャンソンも同じと主張する人がいるだろう。そうだとすればなぜ演歌が世界的に知られないのか。そこには歌詞の問題があるように筆者は思う。演歌に限らず、流行歌は世界的に男女の恋愛を歌うものが昔からひとつの大きな決まり事になっている。そうであるならば演歌がなぜ世界的な名曲とならないのか。今はYouTubeに載せれば底力のあるものは必ずより多くの人に広まって行くのではないか。そうならないとすればその原因はどこにあるのか。そこに日本の大衆文化、大衆音楽を解く問題が隠れている気もするが、それは大衆が権力に対してどう戦って来たかという歴史が関係しているのではないか。日本の歌の原点が万葉集にあると見れば、そこからして大衆は権力者にとっておとなしいだけの存在として捉え得るのではないか。それが日本の最長の伝統であれば、演歌の歌詞が歌う範囲のことは自ずと知れている。ただしそれが悪いとは言えない。どの国も歴史に応じた国民性と文化がある。日本人はロボットのように無個性で勤勉と言われたことがある。その見方は間違っていないと思うが、非難されるべきとは断言出来ない。権力者が御しやすい国民性であるとして、その権力者が極悪でない限り、国民は半ば諦めつつ文句をさほど言わない。それが平和ということだ。 ミージアが歌う曲は伝統的なファドの伴奏を使いながらも同時代の音楽性を感じさせる。たとえばスティングかと思わせる伴奏の曲がある。これはミージアや伴奏者が意識的にそのようにしたのかどうか知らないが、ファドの伝統を遡ると自ずとスティングが自作曲をアレンジした時に用いた南米の味つけにも行き着くだけのことで、ミージアの曲がスティングを模倣したのではなく、むしろスティングがファドを包含する世界のあらゆる大衆音楽を学び、その要素を取り込んだと見てよい。筆者はにわかにミージアのCDを繰り返し聴き、どの曲が最も好きかはまだわからないでいるが、『FADO』の最初の曲「詩の中の自由」はその題名からして演歌との差を思う。演歌ももちろん詩を歌うが、日本の若手のシンガー・ソングライターの詩も含めて筆者が大いに惚れ込むものはない。どれもうすっぺらいと言うか、古典となっている詩のどれにもつながっていない気がする。独創性を示すにはそのほうが当然と思っているのであれば視野が狭い。万葉集を知らず恋愛の詩を書くことはもちろん出来るが、その詩が万葉集が見せる世界よりも小さく劣っているのであれば作詩する意味は乏しい。何が言いたいかと言えば伝統や古典を知らねば限界があるということだ。上田秋成は独学でも6割はわかると言ったが、それは4割はわからないことでもある。もっとも、その6割すらに達していない表現行為が巷に溢れている。「詩の中の自由」は伝統的なファドに対してのミージアの考え、立場を示すには最適の歌詞と言ってよく、第3節は「詩的自由を使って作られたファドと言ったところで、違った形の中に同じ調べを求め、異なった韻律の中に情感を求めているだけ」と歌われる。この歌詞を広げれば、詩的自由さは使用楽器の自由さにつながり、おそらくミージアは筆者の所有する3枚以降はそのように音楽性を変えて来たのだろう。だがそうなるとどこまでがファドかという疑問が生まれる。だが彼女はファドのみをレパートリーとせず、シャンソンや他の名曲も歌う。それは彼女がヨーロッパ中をわたり歩いたからでもあるし、ポルトガルが新しい時代を迎えたことでもある。筆者は今日の写真では左上の顔が真横向きに写るジャケットのCD『TANTO MENOS TANTO MAIS』(ずっと少なくずっと多く)(邦題:ファドの女)の冒頭曲に少々驚いた。40秒ほどのヴィオラのソロだ。このヴィオラの旋律はユダヤないしイスラムの香りがあって、ファドがたどって来た文明、文化の混交が垣間見える。それを前奏曲として2曲目「ファドの不思議」はスチール弦を張ったギターラが伴奏に加わり、ミージアが歌い上げる。この曲は先の「詩の中の自由」と同じく、ミージアによるファドの解釈が主題になっている。そしてもちろんそのことがアルバムのテーマになっていて、奥行きはきわめて深い。 それは当時のミージアの年齢に応じたもので、彼女は20代の若いだけが取り柄の歌手ではなかった。歌詞に「創造の網の目の中で誰かが誤った結び目を作った。…矛盾の結び目こそがファドの不思議なのだから。」とあって、この矛盾の結び目は多文化の混交と解釈していいだろう。これを演歌に置き換えると、どうなるか。演歌にはこの曲のような純粋に詩と呼べる歌詞は絶無と言ってよい。演歌は朝鮮半島の曲に祖先があるとよく言われるが、現在の日本でそういう出自をイントロで表明、曲の歌詞で歌うことは絶対に大衆の人気を獲得出来ない。ポルトガルはヨーロッパの僻地で、その点は極東の日本と似ている。またその僻地性は世界の中で主導性を得にくく、ファドがポルトガルでのみほとんど歓迎されるのに似た立場に演歌はある。だがもっと演歌は狭いファンの層しか見ていない。それでも演歌を支える大衆は多く、作曲家、作詩歌、歌手は充分に食べて行けるからだ。去った異性に対する気持ちを酒を飲んで悲しみを紛らわせるといった紋切り型の歌詞の中に政治を憂うとか千年以上前の文明を見つめるという態度は皆無で、刹那的であるほどに演歌は歓迎される。それだけ日本の大衆は現状に甘んじ、文句をあえて言わないように飼い馴らされて来た。あるいはそもそも日本の文化は政治とは無関係に享受されるものという、諦観ではない孤高性を持っているとの考えも出来るかもしれない。今日の投稿の題名にしたのは『ファドの女』の6曲目で、イントロがスティングの「フラジャイル」のそれに似ている。ギリシア神話の「ペネロペ」について歌うが、日本盤は丸括弧内の副題を訳さず、また題名が一度だけ出て来る歌詞でも原語を片仮名表記にしている。これは翻訳者の知識不足で、そこに日本の翻訳者の限界もある。直訳すると「肋骨から創出された女」で、これは「アダムとイヴ」のイヴのことだ。ペネロペとイヴはギリシア神話とキリスト教の象徴と言ってよく、ヨーロッパにおける二大女性を意味している。ただし歌詞にイヴは登場せず、ペネロペとオデュッセウス(ユリシーズ)の夫婦の物語を独自に解釈する。つまりペネロペはオデュッセウスの帰りを待たず、自分から夫を探しに出て行方知れずになった。これはひたすら待ち続けるだけの貞淑な妻ではなく、積極的に動く新たな妻像で、そこにミージアの思いないし現代女性の思想の反映があるだろう。つまり女性解放運動にミージアも加担し、強い女であろうとしている。歌詞の最後は、老いぼれて帰って来たオデュッセウスは「ひとり残され、靴下を繕う人もいない」とあって、男尊女卑思想の男の末路が描かれる。西洋文明の最も古い、そして今につながる物語に取材しつつそこに現代性を盛る。そういう演歌やシンガー・ソングライターの歌詞があるだろうか。ミージアの歌の歌詞を理解するには詩とは、普遍性とはどうあるべきかを考える知性が必要だ。
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by uuuzen | 2022-10-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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