「
鮒の腹 割いた図写し 褒められし 花咲くごとく ノート整い」、「指先で 足りる世界を いかに見る スマホに見入り 目の前見ずに」、「古手紙 筆跡愛し 遠き人 会いたき思い 夢に留まり」、「喜びを ひしと感じた 電話声 それで満足 思い残さず」
郵便不便と題して投稿したことを覚えている。調べると2005年7月だ。内容は忘れたが、題名だけは今もたまに思い出す。郵便の不便さはその後17年経ってさらにひどくなった。土日の集配がなくなったからだ。関東から封書が届くのが、場合によっては6日かかる。木曜日の午後に投函されたものが水曜日に着くことが最近二度あった。昔なら考えられなかった。到着を急がないものなのでそれでもよかったが、郵政にすれば急ぐ場合は速達にしろということだ。サーヴィスは無料ではなく、それなりに高くつくと思わねばならない時代になって来た。郵便が不便になったのは民営化のためだが、一方で電子メール時代になったからだ。筆者もはがきや手紙をめったに書かない。昔は毎日のように書いていたのに、電子メール時代になるとそれもほとんど送らない。アクセル・ムンテは著述を手書きで行なった。タイプライターがどうしても苦手であったらしい。となれば現在の電子メールはなおさら幻滅するだろう。筆者も手書き派であったが、文字をほとんど書かなくなったので、時代の流れに応ずることが出来るタイプと言えそうだ。とはいえスマホは頑として持たない。それでLINEもパソコンを通じて息子とだけたまにやり取りするのみで、電子メール本位で他者と連絡を取り合っている。だが筆者は元来長文派なので、若い人に嫌われるだろう。手紙時代を懐かしんでも、知り合った人は筆者に住所を知らせることを嫌がるだろう。ストーカーされたくないからだ。まあ女性はそれくらいの慎重さがあったほうがよい。とはいえ、筆者は若い女性と知り合ったとして、ストーカーになるほどの気力はない。またそれほどに魅力のある女性はいない。それでたとえば知り合った女性が何となく筆者を警戒しているような素振りを見せると、筆者は内心大笑いしている。『そんなにあなたは魅力的ではないですよ』と言うのを控えるのはもちろん、その雰囲気すら筆者は漂わせないが、まあそれはあたりまえのことで、その女性も高齢になるとわかる。話が脱線した。郵便不便と題すると郵政に何となく申し訳ないので今日は別の題名にした。郵便局員も必死に仕事をしている。さほど急がない封書が国内で1週間要して届くとしても我慢すればよい。配達が異常に遅いことがあったので、「郵便勘弁」という言葉を思い、そして「郵便簡便」にした。郵便が電子メールに全部置き換わることは不可能だが、文字の言葉を伝えるには電子メールで充分で、また電子メールを単にメールと呼び、郵便(mail)はネットの簡便さに生まれ変わった。それでは郵便局は不要かと言えばそうはならない。
はがきや封書を送りたい人は今もいるし、送らねばならない場合は相変わらずある。ところで今日筆者は自分の大きな机周りを大掃除した。はがきや封書を整理し、不要なものは処分したが、どうしても捨てられないものがある。本当は焼却すべきだろうが、今は紙を燃やす場所に困る。それに筆者は古い手紙をめったに読み返さないが、何かの拍子に読むことがある。そういう時は一気に10年、20年、あるいは半世紀前の気持ちに引き戻される。たくさん手紙を交わした相手は数人いて、はがきや封書は人物別にまとめて束ねてある。それと同じほどの量を筆者は相手に送ったが、相手はもう処分しているだろうか。電子メールであれば形がないので愛着に乏しい。それに何百何千とそれを交わしたところでかさばらず、実感がない。その点はがきや封書は筆者の名前が表の真ん中に書かれていて、その筆跡を見ただけで誰かわかるのがよい。もっと言えばきれいな字で書かれているとその書き手まで美しく感じるし、実際そのとおりと言ってよい。電子メールにはそういうことがないので、ごくたまにはがきや封書を受け取ると、『ああ、この人はこういう字を書くのだな』としげしげと見つめる。ネット・オークションでは有名人のはがきや手紙が出品されていて、これは以前書いたが筆者は昔富士正晴のはがきを落札したのに出品者は送って来なかった。まあ2000円程度であったので諦めたが、その後富士のはがきの出品を見ない。電子メールは価格のつけようがなく、やはり人間は形あるものを喜ぶ。人間が形ある存在であるからだ。話を戻して、今の若い人は文通を面倒だと思ってもっぱら電子メールだろうが、筆者は手書きの文書からネット時代へと移ったので、手書きの味わいを愛している。今の若い人に達筆を期待することは無理で、たいていはひどい字を書いて送って来るが、それもまた愛嬌と思うほど老人は鷹揚にかまえるべきだ。富士正晴は電話魔であったのに、よくはがきを出し、またその文面がとても大きな文字で4,5行というものが多い。それに句点の丸が文字と同じ大きさで、これは印刷された漢文にそういう書き方があって、それに倣ったものだろう。わずか4,5行であれば電話で事足りるようなものだが、あえてはがきを出すのが礼儀を重んじる世代だ。富士がネット時代まで生きたならば電子メールをどう思ったか。その味気なさに失望したと想像するが、時代はどんどん味気ないように進む。前島密はまさか個人が出すはがきや封書が激減する時代が来るとは想像しなかったはずだが、まあ仕方がない。簡便さを勘弁してほしいと思っても時代は常に変わって行く。今はもう深夜2時だが、まだ書き足りない気分なのでもう一段落続ける。筆跡の話をしてもいいが、電話にしよう。本当は書いてはまずいかもしれないが、昔のことなのでいいだろう。
10年ほど前、たぶん20年ぶりにある女性に電話した。勇気がいったが、電話する用事があったことと、声を聴きたいと思った。はがきや手紙ではそれが残る。そのことが嫌でもあったからだ。相手にもよくないはずだ。彼女の電話番号を覚えていたのではなく、昔のはがきか手紙に確か書いてあったことを思い出し、調べるとすぐにわかった。ただし住所は変わったので、つながるかどうかわからない。幸い電話番号はそのままで、筆者がかけた時、義母が電話口に出た。電話はそういう予想外なことがあってスリルがある。だが筆者は一旦決めると肝が据わる。まず名乗り、目的の人物を電話口に出してほしい旨を伝えると、ちょうど目当ての彼女は仕事から帰ったばかりであった。義母の『どこそこの誰々からよ』という小さな声と、電話口にやって来る彼女の足音の慌ただしさがはっきりと伝わった。かけ直す手間が省けて筆者は運がよかった。電話のそばに義母がいて聞き耳を立てているのは彼女の口調からわかったが、別にやましいことは何もない。話したのは2分ほどだ。話しながら筆者は懐かしさがこみ上げた。明らかに相手は内心舞い上がっていた。その心の動きが電話からはっきりと伝わった。彼女は全く昔のまま、あるいはもっと素直さに磨きがかかっていた。筆者はそれをひしひしと感じ、幸福の絶頂の気分になった。電話を切った後で思ったことは、『もうこれで一生彼女の声を聴かなくても充分に満足した』であった。彼女は幸福に暮らしている。それが何よりも嬉しい。彼女は筆者の電話を迷惑に思わず、予想外のプレゼントであるかのように心が浮き立っていた。もちろんその後筆者は電話せず、はがきも封書も送ったことがない。それで生きているかどうかも知らないが、そのことは考えない。はがきや手紙にない力が電話にはある。富士が求めたのはそれだろう。語った尻から言葉は消えるが、言葉を発する思いが脳裏に明確に刻まれて行く。では電子メールには他の連絡手段にない威力があるだろうか。筆者はないと思う。一番いいのは実際に会うことだが、当然それは不可能な場合が多い。それではがきも封書も電話も電子メールも使わずにたまに昔親しかった人のことを思い出し、生きているなら元気でいてほしいと思う。それにはまず自分が元気でいることだ。それで筆者はツイッターのプロフィール欄に「いつも心に太陽を」を謳っている。人生に嫌なこと、辛いことがあるのはあたりまえだ。それを表に出したところで誰も同情しないどころか、遠ざかって行く。落ち込んでいる人は誰からも愛されない。不運をそうとは思わず、踏ん張って前に進むべし。筆者の母はそうして生きた。それで筆者の好きな女性もみな悲しみを示さず、笑って明日を生きようとする。そして年齢を重ねるほどに神々しくなる。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→