「
麹菌 つきで発酵 古き本 紙は朽ちても 中身かぐわし」、「嗅ぐや姫 これは怪しい 近寄らぬ 賢きおなご 世に栄えあれ」、「似た者が にたりにたりと 空の下 黙って過ぎる 陽だまりの際」、「翻り 言い訳するは 本厄の 十八娘 茶番も出たな」

昨日の投稿に肝腎の書き忘れたことがある。かなりの長文になって疲れてしまったからでもあるが、別の理由として最近読んでいるキリスト教関係の本の感想を書く時に回すのもいいかと思っているからだ。ムンテの著作はキリスト教の博愛精神抜きでは語れない。それに、やはりギリシア文明への憧れがある。あたりまえのことだが、ギリシア文明とその後のキリスト教のふたつの大きな柱を無視してヨーロッパの文化は何も語れないと言ってよい。それはさておいて、ちょうど3か月ほど前にネットの『日本の古本屋』で「アクセル・ムンテ」という言葉で検索すると、筆者が知らなかった本『純情の記録』が出て来たので即座に注文し、届いてすぐに読み始めた。ところがこの本は昨日書いた『ドクトルの手記』と同じく、「まえがき」や「あとがき」がなく、ムンテのどの原書を底本にして翻訳したかがわからない。昭和21年(1946)9月、明文社刊で定価13円、著者は末永時惠で、『サン・ミケーレ物語』の翻訳者と同じく女性だ。戦争が終わって丸1年経った頃の出版で、当時の人々が知識欲に飢えていたことが想像出来る。実はこの本の入手とほぼ同時に筆者は同じ著者による『人生診断記』を購入した。1974年11月に紀伊国屋書店から出た本で、『サン・ミケーレ物語』の増補版すなわち完訳版と同じ日の出版だ。判型も同じ、背表紙に使用される活字も同じで、紀伊国屋書店は『サン・ミケーレ物語』の再版に当たって初版では収録しなかった章を含んだ完訳本を出すことにし、ついでにムンテの別の著作も出版するのがよいと判断したのだろう。全部を読み比べていないが、『人生診断記』の「あとがき」によれば、昭和17年10月つまり『続ドクトルの手記』の出版の翌年に『人生診断記』の初版が出て、その後再版された。そして戦争が終わった後に、同じ内容の本を、筆者が9月下旬に買った『純情の記録』と改題して刊行し、さらに74年に最初の題名『人生診断記』に戻して紀伊国屋書店が900円の価格で出版して今に至っている。同じ内容の本が4回世に出たので日本では『サン・ミケーレ物語』と同じほどによく知られると言いたいところだが、『サン・ミケーレ』がそもそもあまり知られない。筆者は戦前の『人生診断記』を入手していないが、『純情の記録』と同じく「まえがき」も「あとがき」もないはずで、末永が翻訳した理由を知るには74年の本を手に取るしかない。そこにはムンテ顔負けの驚くべき経緯が書かれる。末永は有名なスパイ事件のゾルゲと親しく、昭和16年(1941)の夏の終わりに東京のゾルゲが住んでいた家でこの本の原書を受け取った。

その後間もなくゾルゲは逮捕、処刑されるが、子どものいない末永にとってこの本はゾルゲとの交友もあって子どものような愛着があり、また当然ムンテにも親近感を抱き、死ねば天国でゾルゲやムンテと語り合いたいと書いている。末永は1911年に岡山に生まれ、東京女子大を出て駐日ドイツ国立航空工業聯盟代表秘書として10年間勤務、昭和27年から20年間は弥生会診療所理事長を務めた。もう亡くなっていると思うが、ほかにも翻訳書がある。さて末永がゾルゲから贈呈された原書について、末永は「あとがき」にこう書く。「ゾルゲさんが私に「あなたに頼まれていた英訳のとてもいい本があるのです。今日これから私の家に行きましょう。」」つまり末永は昭和16年夏以前からゾルゲと親しくし、一方おそらく岩田欣三が訳して昭和15、6年に2分冊で出た『ドクトルの手記』に感動し、その後ムンテに別の著作があることを知ってそれを読みたいと思い続けていたのだろう。ちなみに筆者が所有する1930年にロンドンのジョン・マレイ社から出た第7版の『サン・ミケーレ物語』の巻末にムンテの著作として4冊が列挙されている。筆者は『純情の記録』を入手してすぐ、それがムンテのどの本を訳したのかわからないまま、『MEMORIES AND VAGARIES』に違いないと思い、すぐにいつものフランスのネット古本サイトに発注した。同じくジョン・マレイ社の1930年刊の第3版だ。『サン・ミケーレ』と同じ濃紺の表紙のハードカヴァーで、厚さは半分、判型も一回り小さい。『純情の記録』と『ドクトルの手記』はそれと同じ大きさの判型だが、ペーパーバックでしかも表紙の紙は脆弱で経年変化でかなり脆くなっている。その点、百年近い前の前述のムンテの原書は造本にほとんど変化がなく、またとても読みやすい版組でほれぼれする。末永はどの原書を底本にしたかを書かないが、昭和16年夏にゾルゲから受け取り、その題名が『MEMORIES AND VAGARIES』であると明記しているので、筆者が所有する第3版か、あるいは1908年の第2版、それとも1940年より少し前のもっと版を重ねた本であったはずだ。というのは『MEMORIES AND VAGARIES』の初版は『MEMORIES』という題で1898年に出版されたからだ。また1908年の第2版の後、絶版となり、1930年になってムンテは第3版を出すことに同意し、初めて序文を添えた。前述したように末永は「あとがき」でゾルゲの言葉として「英訳のいい本」と書いているが、「英訳」は誤解を招きやすい。ムンテは最初から英語で書いたからだ。そのことを末永は当然知っていたはずだ。なぜならゾルゲから受け取った英語による原書がムンテ自身の執筆でなければ翻訳者の名前が記されるからだ。ゆえに先のゾルゲの言葉は「英語のいい本」であるべきだ。
筆者が『MEMORIES AND VAGARIES』を購入したのは、『純情の記録』を読み始めてすぐに翻訳が気になったからだ。特にある個所は絶対に誤訳していると直感した。昔英語の授業での先生の言葉を思い出す。「翻訳文を読んでいて理解に少しつまずくことがあればそれは誤訳の可能性が高い。」そのとおりで、訳している本人は元の外国語から正確なイメージを汲み取っていないのだ。末永は74年の本は以前の3冊の翻訳に磨きをかけたと書いている。筆者は『純情の記録』と『人生診断記』を全部読み比べていないが、旧仮名遣いを新仮名遣いに改め、また章を原書どおりに入れ替えた以外はそのままであるはずで、前述の気になった箇所は相変わらず誤訳のままだ。『サン・ミケーレ』よりはるかに文章量が少ない著作であるので翻訳は難しくない気がするが、ムンテが40歳頃に書いた本であり、英語はまだこなれていない気がする。当時のムンテは詩に魅せられていて、散文でも詩のような無駄のない表現を念頭に置いていたからだろう。それで筆者の直感だが、『サン・ミケーレ』より翻訳は困難な気がする。それで末永が誤訳したと肩を持つのではないが、原書はイタリア語、フランス語、ドイツ語、ラテン語が随所に登場し、ヨーロッパの知識階級でなければ読みこなせない、あるいは読んでもあまり面白くないだろう。それは行間を汲み取る必要があるからだ。それはさておき、末永の翻訳本はどれも原書から3つの章を省いている。しかも大幅にカットした章もある。これはどう理解すべきか。日本の読者にあまり関心なさそうな章や記述をあえて省くという翻訳本は、筆者の知る限り、すでに大正時代にあった。ただしカットした箇所とその理由を翻訳者は述べるのが筋で、そうでなければ原著者に失礼に当たると考えるのは当然のことだ。ところが末永の翻訳本がなぜ『MEMORIES AND VAGARIES』から3つの章を省いたのか、また全訳に見える章でも一部を訳さなかったのか。そのことが筆者にはとても気になる。『サン・ミケーレ』は74年の紀伊国屋書店版では完訳本とされた。4度目に世に出る『人生診断記』もそうすべきではなかったか。あるいは出版社の編集者はなぜ原書と照らし合わせて誤訳の箇所を指摘しなかったのか。末永は天国でムンテと語り合いたいと書いたが、本の題名や各章の題名を全然違うものした理由をムンテにどう説明するだろう。『MEMORIES AND VAGARIES』の題名はとても含蓄に富むが、広く読者を獲得すべき本の題名として日本語に置き換えにくい。ムンテが再版の際に『VAGARIES』を足したのは無駄な行為ではなく、この本に登場する人間のことをうまく形容している。「ヴァガリーズ」はイタリア語では「ヴァガボンダッジオ」で、「ヴァガボンド」つまり英語の「FREAKS」と同じ意味と言ってよい。
『MEMORIES』はムンテが雑誌に投稿した随筆をまとめ、さらに別の章を加えたものだ。その緑色のハードカヴァー本はかなり高額の古書となっていて、筆者は入手していないが、ネットにある一部のページの画像を比較すると、本文に差はない。ただし活字はゆったりと組まれてより読みやすい。また全12章とのことで、改題した再版以降に1章が加えられた。想像するにそれは第13章の「序に代えて」であろう。次にムンテの原書と末永本の目次の対比を記すが、末永は本文内容を鑑みて別の題名を創作している。これは本の題名の訳語とともに、翻訳者のどこまで許される越権行為であるかの問題を提起している。なお末永による74年版では下記の丸括弧12「序に代へて」を序文とし、丸括弧1「友に捧ぐ」は「音楽愛好家に」に改められた。また末永は原書第3版にあるムンテが添えた序文を訳さずに本文の本来の第16章の「序に代へて」を序文としているので、ゾルゲが入手し末永に贈呈したのは第3版以降の新刊本で会った可能性が高いだろう。
1.FOR THOSE WHO LOVE MUSIC(1.友に捧ぐ)
2.TOYS FROM THE PARIS HORIZON(11.人生の縮図)
3.MONSIUER ALFREDO(2.悲劇作家)
4.ITALY IN PARIS(3.労働者の街)
5.RAFFAELLA(4.高貴のしるし)
6.MONT BLANC、KING OF THE MOUNTAINS(5.山の王者)
7.MENAGERIE(6.見世物)
8.ZOOLOGY(7.表情)
9.A CRY IN THE WILIDERNESS(未翻訳)
10.POLITICAL AGITATIONS IN CAPRI(未翻訳)
11.THE DOGS IN CAPRI(未翻訳)
12.SOUER PHILOMENE(8.握手)
13.WHEN TAPPIO WAS LOST(9.仲間)
14.LA MADONNA DEL BUON CAMMINO(10.聖母と医者)
15.PORTA SAN PAOLO(11.人生の薔薇)
16.INSTEAD OF A PREFACE(12.序に代へて)
筆者が『純情の記録』を読んでいておかしいと思った箇所について書く。それは最初の章「友に捧ぐ」の最後に近い箇所だ。末永はこう訳している。「イタリアのタスカの町にゐる私の長姉から、落魄のドン・ケツターノがその裏長屋部屋に住んでゐると知らせて來てゐたことを思ひ出した。」ムンテに姉がいるとして、その話は『サン・ミケーレ物語』のどこにも書かれない。それはいいとして、問題は辻音楽師ドン・ケッターノのことをなぜムンテの姉が知っているかだ。イタリアのタスカにムンテの長姉が住んでいるとして、彼女はなぜケッターノが裏長屋部屋に住むことを知るのだろう。そうであれば長姉はケッターノと個人的に親しく、またムンテに彼のパリへの転居先の住所を報せて来ていたであろう。ところがこの章の物語は医者になるために連日猛勉強しているムンテが音楽好きなあまり、しかるべき日に自分の部屋の窓下で演奏してほしいという契約をケッターノと交わしただけで、ムンテはケッターノの経歴を知らず、どこに住むかも知らない。筆者は届いた原書を早速確認した。前記の箇所をムンテはこう書く。「I was in Itary,in my poor exiled Itary. And in the purestTuscan the eldest sister informed me that Don Gaetano lived in the garret.」これを訳すと、「わたしはイタリアにいた。故郷を喪った貧しいイタリアだ。そして生粋のトスカーナ人の最年長の女性はドン・ガエターノが屋根裏部屋に暮らすことを教えてくれた。」となる。この章はパリの貧しいイタリア人街に住む辻音楽師をムンテが訪ねる話で、第4章「パリのイタリア」と関連している。現在もパリにはその地域があって地図にも名称が記されているが、そのことを知らずともこの一文は即座に意味がわかり、誤訳するほうが不思議なくらいだ。末永は最初の「I was in Itary,in my poor exiled Itary.」を訳していない。意訳すれば「そこはイタリアであった。故郷を喪った貧しいイタリアの友人が住む場所だ。」となる。ドン・ガエターノがフランス人でないことは誰にでもわかる。ガエターノをケッターノと読むのは、GとCを読み間違えてけったいな名前になっている。Tuscanはトスカーナ地方のことで、そこで生まれ育ってパリに移民となった「the eldest sister」つまり最年長の女性にムンテはガエターノが同じ建物に住むことを教えてもらった。大阪には在日韓国、朝鮮人が集まって暮らす地域がある。それと同じだ。また本書は尼僧の「Sister」が頻繁に登場するが、この場合は全部小文字で、日本でもよく年長者の女性に「お姉さん」と語りかける場合を思えばよい。このごく短い文章の中にムンテは映画であればいくつかの場面を描き込んでいる。
以上の箇所以外に特に気になった部分はなく、すらすらと読み進めることが出来たが、そこに誤訳が混じっているかどうかは逐一原文と照らし合わせなければ何とも言えない。というのは、末永は本書の題名や各章の題名も意訳と言うより、全然別の言葉を使っているからだ。これは翻訳を超えた行為ではないか。たとえば第1章「FOR THOSE WHO LOVE MUSIC」は最初「友に捧ぐ」とされた。ドン・ガエターノをムンテが友人として扱ったという読みからだが、ここは原題をそのまま「音楽を愛する人たちのために」と訳すべきだろう。74年版では「音楽愛好家に」と改題され、それは間違いではないが冷たい。愛好家ほどではなくても音楽好きな人はたくさんいるから、「愛好家」と限定するのはよくない。末永が3章分を訳さなかった理由は本文を読み込まねばわからないが、筆者が最も興味深いと思った第2章「TOYS FROM THE PARIS HORIZON」(パリの地平からの玩具)は原書から大幅に文章を省いて訳してある。そのほうがわかりやすくてよいと末永は考えたのかもしれないが、断り書きなしにそういう削除、つまり勝手な物語を作り上げる行為はムンテに顔向け出来ることだろうか。本書の「序に代えて」も人形の話で、ムンテが大の人形好きであったことがわかる。それは『サン・ミケーレ物語』でも言及されることだが、本書は子どもにとって必要不可欠な玩具、特に人形についてのムンテの美意識が表明されている点に筆者は大いに感じ入った。筆者も伏見人形などの素朴な玩具が大好きであるからだ。ムンテは具体的にどういう人形が大好きで貧しい子どもに買い与えたかを本書で書いている。それらは筆者が調べた限り、当時ミラノで製造された手足のない、いわば日本のこけしのようなパルプ製の人形で、それはエーゲ海文明を育んだ古代ギリシアの揺籃期の、日本で言えば土偶のような人形と似ているだろう。末永はたぶんそういうところまで読み解かなった。筆者は末永が省いた箇所をまだ読んでいないが、ひょっとすれば末永にとって意味不明の記述が多かったのではないか。ゾルゲと親しく会話するほどの語学力があることと、翻訳を正確にすることとは別の才能だ。せっかく最初の翻訳から74年の第4版まで32年もあったのに、末永はなぜ原書を読み返さなかったのだろう。先の誤訳以外に決定的な間違いがないと思いたいが、末永がムンテの原書を下敷きにして別の物語を作り上げたと言えないこともない。それでともかく末永が省いた3章分を筆者がまず訳し、それから本書について改めて感想を書きたい。そうそう、本書は『サン・ミケーレ』以前に書かれたので、同書と重なる話が目立つ。そのため本書をまず読んで同書を繙くのがいい。あるいは本書を同書に組み込むことが出来ないかとも思う。それほどに2冊は補完的な内容だ。
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