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●『續ドクトルの手記』
睨の 威圧感じて 澄まし顔 偉ぶる人の 知能量りて」、「平和とは 脆きものなり 成り難し 破片集めて モザイク細工」、「欠けら見て ピースピースと 叫ぶ子の 求める平和 大人が作り」、「かわらけを たわけて割って 祈るのは 円に縁(えん)かけ そのかけらをと」●『續ドクトルの手記』_d0053294_23194570.jpg4か月前に『ドクトルの手記 上』の感想を書いた。下巻をとっくに読み終えながらどう書くべきかと思い続けている。下巻は『ドクトルの手記 下』と題されるべきが、『續ドクトルの手記』とされ、背表紙の題字は活字から手書きになった。そこには訳者、出版社の事情があるのだろう。奧付けによれば出版は『上』が昭和15年(1940)9月、『続』がちょうど半年後の翌年3月だ。となれば原書は1年で翻訳されたと考えてよい。訳者の岩田欣三は医者で、原著者のアクセル・ムンテと同じ職業ゆえ、原書に興味を抱いたのであろう。そのことは邦題の「ドクトル」にも表れている。ただし原題の直訳「サン・ミケーレ物語」は『上』にも『続』にも目次の次の扉に括弧書きで記され、そして表紙には原書と同じ英語で下方に横書きされている。「サン・ミケーレ」はイタリア語の読みで、これは誰でも知るように大天使ミカエルのことだ。フランスの観光地で有名な島のモン・サン・ミッシェルも同じ天使を祀る教会があるのだろう。原書の表紙中央には羽を生やして鎧に身を包んで剣と盾を持って立つ大天使ミカエルが金色で型押しされている。その原画を知りたいところだが、当時の画家に描かせたものかもしれない。ともかく大天使ミカエルはアクセル・ムンテが鳥好きであることから、大部の著書の表紙に刻印されることを強く望んだであろう。もちろんそれはムンテが最初にカプリ島の山腹の村であるアナカプリを訪れ、そこにあった荒れた礼拝堂の名前を地元住民から「サン・ミケーレ」であることを知ったからで、その礼拝堂が別の名称であれば本の名前も違っていた。それはともかく、聖書に因むこの大天使の名前を日本語に訳した本の題名に使うことは当時の日本の国情に照らして無理があったことは容易に想像出来る。山本五十六がイギリスで軍縮について会談した後のことで、日本ではイギリスへの敵愾心が沸騰していた。そんな時に英語で書かれた本、しかも戦争とほとんど無関係の内容の散文集を出版することは無謀であったろう。当時戦争反対を真剣に思っていた日本の学生はどれほどいたのか知らないが、英米に対する日本優位を誇る者が大半であったのではないか。つまり『ドクトルの手記』の2冊は初版しか出ず、読んだ人はごく少なかったであろう。奧付けに2冊とも1円70銭の価格が印刷され、当時封書は5銭であったのでその34倍、現在の価格に換算すると2冊で5712円となる。1974年の久保文による全訳本は1600円で、当時封書は20円であったからその80倍の価格であった。
 いつもの悪い癖だが、筆者はこの文章を以前に書いた『サン・ミケーレ物語』『ドクトルの手記 上』の感想を読み返さずに書いている。そのため内容が重なることもあることを断っておく。先に書いたようにこの翻訳書は日本が戦争に突入する前夜に出版された。原書の初版が1929年刊であるので11年遅れたが、アジアでは唯一の翻訳であったはずで、戦前の日本の世界的地位が垣間見える。ところが戦争後、日本は戦前のことをすっかり忘れ去った。あるいは以前に書いたが、子どもの漫画雑誌では盛んに戦争を題材したものが増え、戦闘機や戦艦の精巧なプラモデルが大いに作られ、それらの宣伝が漫画雑誌に毎週載った。子ども心ながらに筆者は戦争に負けた日本はよほどそれが悔しく、大人たちは未来を担う子どもに向けて戦艦や戦闘機の恰好よさを植えつけていると思ったものだ。東京オリンピックの開催後も漫画で戦争を描くものが流行したが、高度成長期になると日本は経済で欧米に勝ったという思いが広がり、巧妙に戦争を賛美する漫画はなくなったように思う。もっとも筆者は中学生になってすぐに自発的に漫画を一切読まないと決め、当時のつまり60年代半ば以降の人気漫画については全く詳しくない。漫画はさておき、大人が読む本はどうであったろう。『ドクトルの手記』は戦後重版されず、忘れ去られた。それゆえ外国によく出かけていた開高健が欧米で大評判になっている『サン・ミケーレ物語』がまだ未邦訳と信じた。訳者の久保文や出版社の紀伊国屋書店もそうだ。そのことを筆者は信じ難いが、出版社とはいえ担当者は個人で、その見聞には限界がある。それに有名な小説家の開高健が未翻訳と言うのであるから、みんなそれを信じた。ところが『上』の感想に書いたように筆者は12年経って、意外なところから久保文による訳本が日本で最初ではないことを知った。昔から気になっていた富士正晴の記念館をようやく訪れ、その展示に岩田による訳本が展示されていたからだ。もちろんその本を見てそれが『サン・ミケーレ物語』と同じ内容とはわからないが、富士の本がその本のそばに置き開かれ、そこの文章を読んで同じ原書の訳本であることを知った。つまり富士は久保文の訳本やその帯に開高健が書く推薦文を読みながら、彼らの情報不足を笑い、その一方で岩田がよくぞ戦争の足音が高まっていた頃にこの名著を翻訳しまた出版社もそれを刊行したことに、本を愛する人々に同志の思いを抱いたであろう。つまり戦争を起こそうという連中が急増し、大手を振り始める頃にも、国を問わずにいいものはいいと主張し、実行する人々が当時の日本にいた。戦争が終わって本の存在がすっかり忘れ去られたが、運よくまた久保文によって翻訳し直されて世に出たことはこの原書の持つ本質的な力のためだ。ただし久保が書くように1965年当時、訳した原稿の出版に同意するところはなかった。
 それで開高健の力を借りたのだが、富士と開高の関係を知る筆者は複雑な気持ちだ。本題から外れるが、少し寄り道しておく。以前に書いたように筆者は30代半ばまでに開高の有名な本の大半を読んだが得るところはほとんどなかった。やがて開高のデビュー作にふさわしい、そして筆者が開高の小説では最高傑作と今も思っている『日本三文オペラ』の原案が実は富士が抱いていたもので、それを直接富士から聞いた開高がいち早く小説にし、そのことを知った富士の呆れ果てぶりを筆者は知るに及び、決定的に富士のほうが面白いと思うようになった。筆者は昔から富士の本を買い集めて読んでいたが、それは富士が当初画家になってもよかったほどに描くことが好きであったからでもある。ただし開高はさすが文章はうまく、『サン・ミケーレ物語』の推薦文も開高らしい個性がよく出ている。富士ならどういう推薦文を書いたかと想像するに、開高のような技巧を使わず、もっと平易な言葉で富士の人格を表わしたはずだ。筆者が言いたいのは、結局のところ表現行為は技巧より人格が優先することだ。技巧を磨きぬけば人格もそれに釣り合って優れるかどうか。これは難しい問題で、技巧とは何かをまず決める必要がある。ところがそれがきわめて難しい。富士の若い頃の文章はとても技巧的と言ってよい。背伸びしていてあちこちとても角張っている。それが高齢になると角が取れて丸くなり、読みやすい。しかし言わんとすることは若い頃よりもわかりやすい。これは技巧を尽くし、それを捨て去って本来あるべき人格が姿を現わして来たと見てよい。つまり最初から技巧を無視していたのではない。技巧の果てに人格表現がより直截に出来るようになった。これは開高にも言えるかもしれないが、開高の生き方はとにかく前人未踏を強く意識したもので、富士のように従軍出来なかった一種の無念さからか、英語力もあったので自分から進んでヴェトナム戦線に赴き、九死に一生を得る経験をする。そしてそのことを糧に有名になって行くが、その賭けのような行為は技巧を意識することと言い換えてよい。「わざとらしい」と言ってもよい。小説家は普通の人が経験しないことを文章にすることが役割と思っていた節があり、実際それは真実と言ってもよく、それで開高が『サン・ミケーレ物語』に大いに感心したことは理解出来る。ムンテは医者でありながら文章力があり、また冒険家でもあったので、書くべき題材はふんだんにあった。開高は誰でも小説は書けるもので、魚屋なら魚屋にしか書けない話があるといったことを書いた。その発言の奧にムンテの存在があったと見たい。医業の片手間に書いた『サン・ミケーレ物語』が欧米で爆発的に売れ、20世紀最大のベストセラーと言われるまでになったことを知った開高は、では小説家を自称する自分はどういう生き方をして、どういうことを書くべきかと大いに悩んだであろう。
 そこで誰もあえてしない従軍やあるいはまだ誰も書いていない分野を探すといった行為につながったと筆者は想像しているが、誰も書いていない分野があるとして、そのことについて散文を書くことに意味があって多くの人が楽しむかどうかは別の話だ。まだ書かれていないのは書くに値しないからとも言える。ただし開高が言ったように誰でも小説は書ける。実際たとえばお笑い芸人やAV女優がそうしているし、それなりに評価もされているが、筆者は全く関心がない。開高は小説家とは小さな説を唱えるものであると説明した。その考えは富士にもあったと言ってよいが、富士と開高の決定的な違いは富士が詩人として出発したことだ。ムンテは散文家であったが、詩を大いに読んだ。それに音楽や美術にも造詣が深かった。開高にはそれはない。筆者が富士の肩を持つのは、富士が開高よりもムンテに近いからだ。そして「わざとらしさ」がないところだ。この「わざとらしさ」の解釈は簡単ではない。文章を書くことはやはり技巧を必要とするからだ。下品の権化のような女性小説家が日本にいて、なぜ彼女が億単位の金を稼ぎ、また本人が自覚するいわゆる一流有名人であるのか筆者にはさっぱり理解出来ないが、文字は読めても下品をよしとし、金儲け大好き人間が世間に多いからだ。たとえば彼女にムンテの本のことを言うと、「日本ではほとんど無名でわたしのほうが偉い」と自惚れるだろう。ところが『サン・ミケーレ物語』は世界的な大ベストセラーになって20数か国で翻訳された。先の下品な女性小説家とは格があまりに違い過ぎる。ところが日本では早くも1940年に翻訳本が出版され、戦後は久保が1960年に全訳したものから抜粋した本が65年に、全訳本は74年に出たものの、おそらくどれも初版のみで、ネットの『日本の古本屋』でも品切れになっている。断っておくと、12年前に投稿した筆者の『サン・ミケーレ物語』はネット検索で第1ページの上位に表示される。それがいつからのことか知らないが、筆者のその投稿によって古書価格が高騰した気もしている。今後再版がなされるかどうかはわからないが、半世紀以上経つので新たに訳されるのもよい。そして筆者は訳したいと思い始めている。その理由は後日書く。だが前述のように久保文は翻訳したものの、どの出版社もそれを世に出すことに難色を示したから、現在でも事情はほとんど変わっていないだろう。日本は戦後特に世界文学全集が大流行したが、含まれるのはすべて職業文筆家の作品で、ムンテのように二束の草鞋を履いた書き手はいない。そこに専門家を厚遇する日本的な考えが見られそうだが、現在世界文学全集、あるいは20世紀文学全集と限ってもよいが、それを編むならばムンテは欠かせないのではないか。ただしムンテは自分を文章の専門家とは思わず、文章に弱点があることをよく自覚していた。
●『續ドクトルの手記』_d0053294_23200934.jpg
 筆者は久保文による全訳本を10年ほど前に入手しながら、それを読まなかった。そのため『サン・ミケーレ物語』の全部を今回の『続』でようやく読み終えた、と言いたいところだが、原書は全32章であるのに岩田訳は『上』『続』併せて31しかない。その省かれた1章は「スウェーデンへの旅―ハムレット」で、これのみ久保が初めて邦訳した。岩田がそれを省いたのはなぜか。『上』は312ページ、『続』は284ページで、本来『続』の冒頭に来るはずの「スウェーデン…」は、他章に比べてかなり少ない文章量であるから容易に『続』に収録し得た。ともかく「スウェーデン…」は他の章と関連があり、やはり省かれるべきではない。『サン・ミケーレ物語』はムンテを主役として印象深い人物がたくさん登場するが、小説と同じようにある章に出て来る人物が他の章に登場する。そして最初に登場時は説明がほとんどなくてどういう人物であるかわからないまま読み進めるが、後になって詳細に描かれることがある。そのため小説的構成になってはいるが、全体としての物語が「サン・ミケーレ」に関して収斂して行く内容ではなく、32章はどれも短編として独立した面白さがある。そのため32章ではなく、もっと長く書き続けられてもよかったし、『サン・ミケーレ物語』という題名にするのであればそうすべきであった。これは肝腎の「サン・ミケーレ」については詳しく書かれていないからで、その意味でこの本を最初に訳した岩田のつけた題名「ドクトルの手記」は全く的外れではなく、むしろそのような原題であったほうがよかった気がする。というのは、ムンテが購入したアナカプリのサン・ミケーレ礼拝堂がある一帯の話よりも医者として出会ったさまざまな人物についてのことが多く書かれるからだ。そのことはさておき、『続』を読み終えて12年前とはかなり違う印象を抱いた。それは失望ではない。むしろ初めて、よりムンテの人となりを目の当たりにするような気持ちで、本書の深みをさらに感じた。筆者が読んだ65年の久保による訳本と『続』を比べると、前者が出版事情からやむなく省いた章は次のとおりで、それらを今回は初めて読んだ。順に示すと、「催眠術」「ミス・ホール」「小鳥の聖地(島の禁猟区)」「バンビノ(バンビーノ)」「サンタントニオの祭(サン・アントニオ祭)」、そしてこれは原書では章番号が与えられていない最後の「古い塔にて(古き塔にて)」で、丸括弧内は久保版の題名だ。なお原書では題名のみでは本文内容がわかりにくいとの考えから各章とも目次に6,7個の副題がムンテによって付されていて、岩田はそれらを全部訳しているが、久保は無視している。なお、岩田は訳した原書について言及せず、久保は65年本に原書の初版のムンテによる序文を訳して載せているので、ひとまず初版を底本にしたと考えてよい。
 というのは筆者が所有する同じロンドンのジョン・マレイ社から出版された1930年刊の第7版には、ムンテの代わりにトッレ・ディ・マテリータが序文を書くからだ。また筆者は1995年のイギリスのフラミンゴ社刊のペーパーバック本を所有するが、これは1975年に別の会社が初版を出した。フラミンゴ社は叢書『モダン・クラシック』の1冊として出版したので、やはり20世紀の古典的名著の位置づけだ。そのような本が欧米にはたくさんあって日本語に未翻訳のものも少なくないと思うが、出版社の経営が困難になり、町の本やが次々に消えて行く現状は読書を趣味とする人が減少していることを意味し、また日本は日本でのみ通用する小説のみで充分と考えている人が多いためかもしれない。それに翻訳本はやはりどうしても読みにくく、筆者はよく原語ではどういう表現がなされているのかと思うことがある。話を戻して、久保の65年本の最初の序文は近藤駿四郎が書く。この人はネットによれば医者だ。序文にはパリに住んでいた1958年秋にガストン・マイヤール氏から本書の原書を贈呈された。ガストン氏は医者だろう。つまり本書は出版以来、医者仲間に読み継がれて来たようで、それは当然だ。1958年には本書は何十版も重ね、ミリオン・セラーになっていたのではないか。ガストン氏が所有した本が初版かどうかわからないが、当時80歳で、初版時は51歳であるから、その当時71歳のムンテを知っていたかもしれない。ただしムンテは1949年に亡くなるから、近藤が本を譲り受けた時にはムンテの没後から9年経っていた。ともかく近藤から久保へと本は移動して翻訳の運びとなったが、何度も繰り返すように岩田欣三が戦前にいち早く注目し、ほぼ全文を訳して2分冊で出版した。出版社の青木書店は1945年創業の現存する同名の出版社とは違う。巻末に本書以外の本の案内があって、読みたいと思わせるものがある。今では忘れ去られた本で、出版時に話題になっても百年経たずしてほとんどが読み継がれない現実を知る。あるいは存在がすっかり忘却されるかだ。『ドクトルの手記』の存在を知っていれば久保は翻訳したであろうか。当時青木書店がもう存在せず、それで新たに翻訳して出版しようという考えになったこともあり得るが、そうであれば岩田の翻訳本の存在を記すべきだ。また岩田は丸善あたりから原書を入手し、一読後に青木書店と相談して翻訳に取りかかったとして、当時存命中のムンテや版権を所有するジョン・マレイ社から許可を得たかだが、たぶんそれはしなかったろう。そうなれば海賊版みたいなもので、原著者に印税を支払わなかったことになる。戦前はそういうことが普通であったかもしれないが、岩田の翻訳は素直で読みやすく、誠意がこもっている。久保の訳はこの12年間、読み返していないので岩田本よりいいかどうかわからない。
 さて長々と書いてなかなか『続』の感想を始められない。最後の「古い塔にて」は他の32章とは全然色合いが異なる。そこでムンテはサン・ミケーレを去ってロンドン在住で、片目を失明していることを書く。それもあってなおさら「古い塔にて」は暗さに覆われたのだろう。65年の久保訳本の「あとがき」には1934年に手術を受けて視力を回復したとあり、77歳から亡くなるまでの15年間はまた目の楽しみを味わえた。失明はナポリでのコレラ蔓延時でムンテは当時何歳であったろう。どの章も何年何月といった日時の記述はなく、そして岩田訳を引けば、「古い塔にて」の冒頭は「『サン・ミケーレ物語』は、丁度これから始まらうとするところで、突然、意味のない斷片として終わつてしまつた。」とあって、実際このムンテの言葉のとおりだ。そして「古い塔にて」がいつ書かれたのかわからないが、初版より1年前としても「意味のない断片」は今の筆者と同じ71歳で、文章に苦みが混じるのは致し方がないだろう。つまり「古い塔にて」を省けば光り輝く人生絵巻の様相を呈して読者はそのあまりの面白さに次々にページを繰るが、「古い塔にて」に至って色合いががらりと変化することに驚き、またその章番号がつかない長文の存在によってなおさら全32章が眩しく思える。つまり「古い塔にて」はエピローグとして重要な役割を果たしていて、本書をなおさら名著らしく仕立てている。だが70歳を超えるとこうなるのかいう一種の絶望感のようなものも高齢の読者は感じるだろう。片目の視力を失っていた当時のムンテならなおさらだ。筆者は幸いまだ元気さはあり、数年は大丈夫と思っているが、そう考えるとその数年をなるべく有意義に過ごしたい。話を戻してムンテが全32章を「意味のない断片」と形容するのは、若い頃の輝く日々もそうであると言っているのか、あるいは自分の文章の至らなさを謙遜しているのか、ともかくこの言葉は胸に強く響く。では何が意味ある全体であるのかという疑問が湧くからだ。ムンテはそういうものは存在しないと言っているのかもしれない。とすれば本書はペシミズムで終わり、10年前に書いた筆者の感想は的外れであったことになる。だが「古い塔にて」が最後にあることでそれ以外は眩しく光っている。光が強いほどに影が濃くなることをムンテはナポリやカプリで存分に感じた。そしてサン・ミケーレを去った後、古い塔に引き込んで今度は影の部分を凝視したとしてもそれは当然で、その苦い味も一緒に味わえるのが本書の魅力だ。ムンテは1936年に本書の第20版にも序文を書いているが、岩田本にも久保による65,74年の訳本にもそれはない。ただし74年本には1930年刊の第12版の序の訳はある。そのことから近藤は第12版を久保にわたした可能性が大きい。それはともかく原書は初版から1年で少なくても12も版を重ねた。
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by uuuzen | 2022-10-26 23:59 | ●本当の当たり本
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