「
腎臓は 人造できぬ 肝臓も 肝腎かなめ 新人いずれ」、「どのような 形に咲くや 鶏頭花 つかみどころの なきこと魅力」、「あずまめや 深紅似合いて 笑み愛し 辛苦乗り越え また逞しき」、「セーターを 解きつ巻いての 毛糸玉 母編み直し 秋深まりて」

今年は本気になって鶏頭の花を育て、また写生もしたが、嵯峨への買い物がてらの散歩でちらほらと鶏頭の花を見かける。今日の写真はそれらの代表的なもので、3枚とも9月30日に同じ家の玄関脇で撮った。嵐電の鹿王院駅近くで、去年も咲いていた。今年は通りがかった時にその家の奥さんが外に出て花に水やりをしていたので声をかけた。初対面だ。3か所に分かれて咲く花の形がどれも違って面白いと言うと、奥さんは同じ種子で育ったと言う。日当たりその他の環境条件の違いから花の形が違って咲くようだ。そこが鶏頭の花の大きな特徴で、そのことについて書かれた専門書があれば知りたいと思っている。奥さんに描いてもいいかと訊ねると、切って持って帰れと言う。切り花を描きたくないのでそれは断った。そして写生の了承を得たので天気のよい9月20日の午後に訪れた。家の前の道はその地域では最もよく車が走り、また当日は地元でお祭りがあって、普段より人出が多かった。玄関脇のごく狭い場所に折り畳みの椅子を広げて描き始めると、筆者にほとんど触れるほどに自転車や歩行人、車が通り過ぎる。写生を始めた時、奥さんを呼び出して挨拶しようかと思ったが、来客の笑い声が聞こえていた。それにその仲間に加わろうと近所の同じくらいの高齢の女性がやって来て筆者をまじまじと見ながら家の中に入った。その来客は筆者が玄関脇で描いている様子を奥さんに伝えたかどうか知らないが、内部から小さく漏れる話声によるとそれはなかったと思う。そのため、奥さんは筆者がいつ訪れて描いたかは知らないだろう。小1時間ほどで3枚描いたのみで、翌日出かけ直そうかと思いながらそのままになった。その後2週間ほどして花は全部根元から切られ、プランターの土の上で花が散り撒かれていた。そうすると来年はまた勝手に花が咲くのだろう。これは先日の19日のことだが、めったに行かない太秦のスーパーに出かけた帰り、これもめったに歩かない道沿いのとある玄関前に鶏頭の花の鉢が5,6個あって、ちょうどその家の奥さんが水やりをしていた。その家の鶏頭の写真は
去年の秋に投稿した。今年も同じように咲いていて、そのことを初対面の奥さんに言うと、もう亡くなったが近所のお婆さんからいただいた種子で何年も前から育て始め、毎年そのままで同じように咲くとのことだ。写生してもいいとの返事をもらったので、天気のよい日に出かけようと思いながらそのままになってる。背丈のきわめて低い品種で、それなりに珍しいが、去年と同じような花が今年咲いたのであれば来年もそのはずで、そう焦らなくてもよい。

3枚目の写真は冨田渓仙の家の裏手で、道路から7,8メートル奧まったところに現在も咲いていて、そこまで入って写生は出来ない。仕方なしにカメラを最大ズームにして撮り、さらに画面いっぱいになるようにトリミングした。嵯峨のスーパーを往復する際、いつもこの花の前を通るが、家の住民を見かけたことがない。去年はなかった気がする。あってもこれほどの群れではなかった。背丈が低いが、地面に植わっているのがよい。園芸種かあるいは条件がよければ背丈がもっと大きくなるのか、どうも鶏頭の生態はわからない。隣りが5台ほど停められる四角い駐車場で、たいてい車は1,2台しかなく、筆者と家内は駐車場内を斜めに横切る。この花の塊を少しでも間近から撮影しようと思って駐車場に入り、背丈の低いブロック塀越しにもう1枚撮った。それは今日の写真とよく似ていて、背景の建物の下部が斜めになっている。それがどうも気に食わない。筆者が小学生の時、近所に写真を斜めに撮影する人がいた。筆者や妹が斜めに立つ写真を今も持っているが、そういう写真はその1枚のみで、当時から筆者は気になった。カメラをそのように傾けて撮ることが当時は流行ったのだろう。芸能人であればそういう写真は格好よく見えるかもしれないが、筆者はそのわざとらしさが嫌であった。美意識の強い人はそのように被写体をたまには斜めに傾けて撮ることはあると思うが、めったにそういう写真は見栄えがよくならないと思う。ついで書いておく。お笑い芸人で常にスーツ姿でTVに出るのがいる。しかも必ずYシャツの首元のボタンを外し、ネクタイを緩めている。それはサラリーマンや紳士の常識への抵抗なのだろうが、筆者はその醜いスタイルと顔に目を背ける。芸能人はやくざ者とはよく言ったものだ。話を戻す。今日の3枚目の写真をつい先日からパソコンの壁紙にしている。以前の壁紙が消えてしまい、仕方なしに別のものを用意する必要が生じたためだが、この写真を選んだのは気に入っているからだ。この花の群れから10メートルほど離れた同じ家の敷地内の目立たない一角に、素焼きの鉢に咲く鶏頭の花がある。全く世話されていない荒れ具合だが、その花も背丈は低く、そこから地面にこぼれた種子が野生化したものが今日の3枚目の鶏頭と想像する。家の人はほとんど注目していないはずで、「ああ、咲いているな」と思った後はすぐに意識から消えるだろう。鶏頭はそのような花と言える。なければさびしいがあってもほとんど気にならない。重視される花とは言い難い。花期が長いからでもある。ましてやこの鶏頭以外に花が皆無のこの家では放ったらかしにして勝手に咲いてくれるだけのことだ。しかし手間がかからず、雑草のように咲くゆえに魅力がある。それはずぼらな筆者のつごうのいい思いだが。それで、隣家の裏庭に移した今年のわが家の鶏頭、来年は勝手に咲いてくれるだろうか。

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