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●『テオ・ヤンセン展』
床を 作らず買うは 袋入り 漬物キムチ 野沢菜なすび」、「納豆の 容器洗って 臭みなし それでプラゴミ ならぬ理由は」、「分別を する分別を 弁えぬ 弁の立つ人 背向けて立つ瀬」、「空っぽの 缶ほど響く いつの世も その誇る顔 見ずに生きたし」●『テオ・ヤンセン展』_d0053294_18150628.jpg 先週は美術ファンにとってびっくりさせられるニュースがあった。大英博物館に展示されるゴッホの『ひまわり』にふたりの若者がトマト・スープをぶちまけたのだが、額縁はガラスが嵌め込まれていて、そのことを知ったうえでの行為であったそうだ。それにしても世間を注目させるやり方がネット時代になってより過激化して来ているようだ。誰でも嫌なものを見たくないが、テレビもネットも同じようなもので、人間の醜悪さは古今東西不変でも、この百年でどんどん時代は広く伝播、暴露されるようになって来た。悪貨が良貨を駆逐するのはそのとおりで、今は世界中がそうなって来ているように感ずる。ゴッホの絵を血祭りに上げようとした若者は本物の血でも使えばもっと衝撃が大きかったのに、笑劇に留めておきたかったのか。トマトでは何となくもったいない印象があり、その行為も環境保護の観点からは矛盾していると思った。環境保護問題は個人にはあまりに大きすぎて筆者は正直な話、まあ関心がほとんどない。人間は動物であるから、生きて食べて雲古して死ぬだけのことで、遠い他国の人が環境悪化でどう苦しんでもほとんどぴんと来ない。その意味で筆者は猿とほとんど変わらないが、それを言えば、トマト・スープぶちまけ行為も猿そのものだ。そこで猿として筆者がたまに自省するのは、まず他人に迷惑をかけたくないことで、これは簡単そうでもそうでないことがよくある。そこでごく狭い個人的な経験を書く。筆者は近所の「風風の湯」ではどの湯舟にもひととおり浸かる。なるべく他の客が浸かっていないことを見計らう。ひとりで大きな湯舟を占有したいからだ。各湯舟に5分数えて入ることにしていて、半ば目を閉じている。露天風呂であれば少しは瞑想気分にもなれる。湯が波立たず、すこぶる気分はよい。その時急に大きな波が立ち、首まで浸かっている体が大きく左右に揺れることがある。他の入浴者がザバザバと傍若無人に入って来るからだ。それで筆者は湯から出る時に波を立てないように静かに、また最短距離をたどる。筆者のその行為を誰も気づいていないことは知っている。それでも自分がされて嫌なことは他人にはしたくない。水泳の飛び込みは飛び込んだ際の水しぶきが少ないかが高得点になる。そこには美しさとは何かという視点がある。飛ぶ鳥は跡を濁さずと言われる。人間は生きている間でも周囲を汚しっ放しで、それで二酸化炭素問題が大きくなり、ゴッホの絵を汚そうとする人物も出て来る。環境問題は個人が傍迷惑をしないことが原点にあるが、たとえば温泉を利用することが自然も含めた環境には迷惑なことかもしれない。
●『テオ・ヤンセン展』_d0053294_18154446.jpg
 テオ・ヤンセンの名前を知ったのは10年ほど前だ。TVでしきりに展覧会のコマーシャルが流されたからだ。浜辺を巨大なムカデのような骨組みが風で移動する映像が使われ、そのわずか数秒でどういう作品かわかった。同展は東京のみでの開催であったと思う。今回は大阪南港の湾岸沿いの大きな会場であるATCギャラリーが選ばれた。理由は想像がつく。作品をある程度分解して輸送するにしてもコンテナが必要で、船舶での輸送、そして到着後に作家が組み立てて展示するとなると、繁華なところにある狭い美術館では無理だ。つまりさまざまな経費を考えると湾岸沿いの建物がよい。たぶん今回の出品作は簡単な包装を施してコンテナに積め込まれたのではないか。作家が大阪に来て会場内に作品を設置する際、破損部分は修理したはずだが、作品はどれも仮設工事現場の組み立てパイプのようなもので、一部が壊れても簡単に修理出来る。それは使われている材料のためだ。プラスティックの管が主体で、それを同じくプラスティックの結束バンドで縛る。帆船と同じく風力で動くので、風を受ける布を張る必要がある。軽さを考えればビニール傘に使われるようなビニールでいい気がするが、強度の問題からだろう、麻の帆布を使っているようだ。ただし動く際の傘を開くようなバサバサ音からして、ごく薄手でしかも水を弾く何らかの加工を施しているだろう。ヤンセンはこれらの作品をオランダ語で砂浜を意味するSTRANDに獣のBEASTをくっつけて「ストランドビースト」と呼んでいる。砂浜のない場所でも風は吹くので、平らな地面が確保されるのであればどこにでも設置出来る。また本展では展覧会場の前で一体が展示され、500円だったか、別料金を支払うと自分で10メートルほど動かせるイヴェントが行われていた。風がなければ人手で動かせるのは当然だ。「ストランドビースト」は人力でも動き、砂浜の名前にこだわることはなさそうだが、こうした大掛かりな、しかも動く作品は誰も文句を言わない公の場所で動かすしかなく、オランダでは砂浜しかそれに該当しなかったのだろう。しかしそれも限度があるはずだ。本展会場ではいくつかモニターがあって作品が砂浜で動いている映像を流していた。それは海を背景にする砂浜のごく一部で、逆に海側から撮った映像はなかった。それに砂浜の規模は見当がつかず、案外撮影場所はごく狭く、そこを外れると作品に不適当な岩場があるなどするのだろう。ただしそういう作品にとっての障害を映すことは鑑賞者の幻滅を招くので、広大な砂漠のような砂浜を自在に動いている印象を与える必要がある。オランダの浜辺は日本よりはるかに少ないはずだが、日本も波消しブロックなどで眺めが台無しにされていない砂浜はごく限られ、ヤンセンの作品を砂浜で動かすことはそう簡単なことではないだろう。
●『テオ・ヤンセン展』_d0053294_18160641.jpg ヤンセンは最初画家を目指し、風景画を描いていた。ごくわずかだが、その作品も今回は展示された。オランダ人であるのでフェルメールやゴッホ、モンドリアンの後につながる絵画を目標にすればよかったと思うが、モンドリアンの後はもう絵画ではやるべきことがないように感じる。それにヤンセンの作品の骨組みはモンドリアンから出て来たものとも言える。モンドリアンは晩年にニューヨークに住み、その街区の縦横の道筋を黒と三原色に還元して構成した。そこには車や人の動きへの関心もあった。躍動するニューヨークという大都会に感化され、モンドリアンは自作絵画をアニメーションのように動くものとして夢想していたところがある。その点が最晩年のモンドリアンの作品のそれまでにない魅力だが、ヤンセンはその可動性を彫刻でやろうとした。ヤンセンが風景画の次に試みた作品として、ヘリウム・ガスを詰め込んだ大きな風船をUFOのように浮かばせるというインスタレーションとも接した行為だ。ストランドビーストが生まれるのはその後で、環境を使った可動性の巨大な作品へと思いが進んだ。これはチラシに書かれているが、ストランドビーストはレオナルド・ダ・ヴィンチを想起させる。科学者の側面があるからだ。工学的な頭脳を持つ一方で美に敏感という人物は美術の世界ではイタリア・ルネサンス期にはよくいたが、その後仕事が分化されるにしたがって画家は絵だけ描けばよく、科学者は計算だけしておればいいというようになって来た。それで以前書いたように若冲の名前を知らない大学の数学の先生がいる。専門家は蛸壺に入っているも同然で、またそうでなければ一流とはみなされない風潮を自ら作り上げて来ている。それゆえ科学者が音楽や美術にうつつを抜かす者を二流とみなすが、レオナルドがそのことを知るとせせら笑うだろう。話を戻す。ストランドビーストはレオナルドのように科学を使って何か役立つものを作ろうとしたこととは関係がない。風や太陽の光、熱を使って動力を得ようとする考えが20世紀後半から強まり、今では巨大な扇風機型の風車、太陽光発電パネルが大人気だ。ヤンセンは自作にモーターを搭載しないので、風がなければ動かない。また風が吹き続ければどこにどう動いて行くかわからない。この風頼りの無用の長物である点が芸術ということだ。しかもその無用性はどこへどう動いて行くかわからないという物騒とも言える点において攻撃的で、それゆえビーストと呼ばれ、ヤンセンの作品のその野獣性を文明批判や従来の芸術に対する批判であるとみなす人があるだろう。芸術はみな野獣性を持つと言いたいが、たとえば形式化したロックはもはや棘がない、それでいて狡猾な人間性を体現し、つまるところ芸術でも何でもない。その観点からすればヤンセンは金儲けにあまり関心はなさそうで、孤高の作家と言ってよい。
 風を利用した彫刻家で真っ先に思い浮かぶのが新宮晋だ。今手元の彼の1984年秋の展覧会『呼吸する彫刻たち』の図録がある。新宮の作品は兵庫県立美術館の海沿いにもあって誰しも気づかない間に見ていると思うが、大きな特徴は固定されていることだ。簡単に言えば巨大な風車が地面に固定されて風が吹けば回るという、先の風力発電の風車と同じようなものだ。それはヤンセンの作品と比べると植物的だ。そこに日本の前衛と言ってよい彫刻家のひとつの限界がある。もちろん植物的であることが否定されるべきではない。美術作品とは昔からそのようなものであるからだ。そうでなければ鑑賞者も作品を展示する側も困る。ところがヤンセンは作品が風の吹くままどこに動いて行くかわからない点を重視した。そこに大航海時代のオランダの帆船に連なる意識上の伝統のようなものがあるかもしれない。風任せでどこへ行こうがいいではないかという考えは、冒険的、海賊的で、男の本能と言ってもよい。そう考えると新宮の作品は、形はいろいろあってもどれも植物的根本の多様性にとどまり、昆虫好きの少年をわくわくさせる点ではヤンセンの作よりも劣る。行儀がよくて上品な新宮と、その反対のヤンセンと言い換えてもいいが、前者が美術館に収まりがいいのに対し、後者は作品の造作が仮設並みに荒く、したがって美術館に恒久的に収蔵展示されるものではなく、本展のように夏休みを中心とした会期に親子連れが見に行くような見世物的展示とされる。ヤンセンは自作を美術館に収まるような芸術とは考えていないのだろう。それに設計図さえ残せば、誰でも同じものを作り得るはずで、プラスティック素材を中心に使っている点でポップ・アート時代から生まれて来た、言い換えればアンディ・ウォーホルの大量生産時代に見合った作品だ。そこで本展の会場で筆者がまず思ったことは、プラスティックの細いパイプや結束バンドを使っている点だ。プラスティックは1960年代に広まり、今では人間の体内に取り込まれるほどに深刻な環境汚染問題の主役になっている。となれば、風に吹かれて浜辺を動き回るストランドビーストは岩礁に衝突して壊れた場合、そのプラスティックは海洋汚染の材料と化すだろう。何が言いたいかと言えば、環境問題が喧しい昨今、ストランドビーストは使用材料を自然素材の別のものに改める必要がありはしないかということだ。そのことをヤンセンがどう考えているのかはわからない。逆に彼はプラスティックを使うことで自作がいずれ環境を汚す悪者としてのビーストであると言いたいのかもしれない。ゴッホの『ひまわり』が環境問題を考える若者から攻撃されるのであれば、ヤンセンの作品もそうなるだろう。プラスティックのストローを一斉にやめようという動きの中、全身ブラスティックのヤンセンの作品は時代の先端を行きながら時代に逆行している。
●『テオ・ヤンセン展』_d0053294_18163958.jpg 嵐山のとある店の屋上に半年ほど前に大きなトンビを模した凧が釣り竿に結ばれて上げられた。雨でもそのままで、風がよく吹くので筆者が見る限り、いつも空を舞っている。烏除けのためだ。烏はとっくに作りものであることを知っているが、そのトンビ凧は風の動きで急に向きを変え、しかも羽を広げると2メートルほどあって、烏にすれば近寄らないほうがよい。凧遊びを今の子どもがあまりしなくなったのは飛ばす場所がないからだろう。筆者が小学生の頃は紙飛行機が流行し、竹ひご、和紙、ヒューム管がセットになって安価で売られていた。それらはみな土に還るので環境汚染の心配はほとんどなかった。プラスティックが登場して、たとえば鳥人間コンテストといった催しが開催されることにもなったが、軽くて頑丈という点でプラスティックはなくてはならないものになっている。本展会場でストランドビーストの卓上に載る小型の模型キットが何種類も販売されていて、それを祖父が孫に買い与える光景を目撃した。模型のライセンスをヤンセンが所有し、また本展のような大規模な展覧会が世界各地で開催され、ヤンセンは作品を売るよりも作品に付随することで収入があり、それで創作活動が続行出来るのだろう。ストランドビーストに付せられる作品名は古代の生物に因むものがあって、いかにも男の子が喜びそうなところがある。恐竜が現代に蘇るとして、その役割は巡回動物園くらいしかない。その見世物をヤンセンは自作の骨組み的作品で行なっている。美術展覧会というものが本来見世物であるので、ヤンセンの作品はそうした動かない、小さな絵や彫刻からすればとても新鮮に見える。本展では会場の天井が低いため、剥製を見る気分で、海を背景にした砂浜で動く映像を見るほうがはるかに夢がある。そうした映像を収めたDVDも販売されているかもしれず、ヤンセンはネット時代を熟知してもいる。日本ではロボコンが毎年開催され、ロボットを使って何か特定の作業をさせることへの若者の興味は年々高まっているが、ヤンセンは風力に固執する。そこで風力を蓄電し、それで搭載ロボットに岩礁を乗り越える仕組みに持たせることはあり得るか。筆者はないと思う。原発事故処理専門ロボットは大いに期待されているが、ヤンセンの作品は動く以外の目的を持たない。ムカデのように多くの足が風でワサワサと動く点に面白みがあり、頭脳はない。頭脳がないような猿的人間は傍迷惑という概念がないが、それも含めての人間だ。とはいえ直接の被害を受けると注意はする。「風風の湯」の水風呂に浸かっていると、サウナから出たばかりの20代前半の2,3人がそのまま水に浸かろうとした。「水をかけてからっ!」「??」「水が汗でしょっぱくなるから」「了解!」話せばわかるのだ。人間はみなそうと信じたいが、筆者はそんな甘い考えを持っていない。話しても理解出来ない人間はいる。
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by uuuzen | 2022-10-20 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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