「
虐待を 受けし子どもの 擬悪態 心の傷の 癒し求めつ」、「虐げを 親から受けて 棘芽生え 遂げたき事象 自傷自殺か」、「放置して 報知されるや 痴呆症 法治あっても 豊地も痩せて」、「ささやかに ささやいて過ぐ 命かな 威張る人でも 知ることわずか」

枚方の菊人形を子どもの頃に何度か見たことがある。菊は花の色も形も豊富で、キモノになぞらえて等身大の人形に着せるにはふさわしい。菊人形の人気が衰えたことは菊の人気が低下したことでもあるだろう。あるいは専門の職人が少なくなったかだが、それも人気低迷が理由だ。3、40年前、大阪和泉市にある国華園から通信販売で珍しい形の朝顔や桔梗の種子、あるいは鉄砲百合の球根などを購入し、裏庭で育てて写生したことがある。その会社から買わなくなってからもしばらく通販雑誌が届いていたが、会社の名前にあるように販売の中心は菊であった。筆者はさっぱりそれを育てる気が起こらないまま現在に至っているが、折りあるごとに速水御舟が描く菊の屏風などが脳裏にちらつき、菊に無関心ではない。菊の御紋を今の若者は昭和世代ほどに意識せず、そこには天皇、菊が国家神道の象徴として崇められたことへの一種の抵抗の思いが反映している気がする。だが菊は本来そういう政治とは関係がない。『和漢朗詠集』に載る菊についての漢詩や和歌をよく知る大人はもう稀と思うが、たまに改めて読むとさすがに香り高く、菊を愛でる人の気持ちはよくわかる。数日前、TVでヴィオラの新しい園芸種が近年続々と作出され、その一例を筆者は初めて知った。ヴィオラは京都に出て来た頃の筆者が大好きな花で、花色の数が豊富なことに着目し、さんざん文様化して訪問着や振袖を染めた。当然当時はどのような花色の変化があり得るかも考えたが、先日のTVで紹介された新しい園芸種のヴィオラは想像をはるかに超え、ジャーマン・アイリスの小型の花のような色合いと形であった。つまりパンジーと掛け合わせたようで、花の色は肉色や茶色で、花弁はとても縮れていた。それはそれで珍しく、また美しいが、完全な洋花で、筆者は描きたくはない。そのように今はあらゆる花が洋花化し、突飛と言えばいいか、目立つことが好まれる。それはネット時代に応じているはずだ。一旦注目されると時に爆発的に広く知られるが、一瞬で消え去ることも多い。そうであっても誰しもごくわずかな間だけでも目立ちたいのだろう。そのことは花の命に似ているか。今日の写真は20日の夕方に寝屋川市の市民会館のすぐ近くで撮った。プランターでも充分に菊は見事に咲く。ほとんど誰も意識せずに通りがかるが、菊にすればそのことはどうでもよい。いつの間にか勝手に咲いてやがて枯れて目立たなくなる。人間も全く同じで、ああ、あれだけ若かったあそこの娘さんも嫁がずに顔に弛みが目立つようになったし、あれほど元気であったあそこのお爺さんはもうとっくにこの世からいない。
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