「
壇ノ浦 源氏勝ち目の ボーナス(棒茄子)は 矢で的を射る 那須与一や」、「丸く掃く 丸き心の ゲル住まい 蜂巣六角 丸に錯覚」、「満月を 丸き地球で 見上げる目 朝待ち烏 丸丸太る」、「丸い菓子 齧りつ見るや テレビには 月食映り 外に出ぬママ」
昨夜の月食が442年ぶりというのは天王星も食になるからとのことだ。その天王星は、ネットで月食の拡大写真が紹介されて月の右下にぎりぎり仁丹の粒ほどの白い球体が写っていたが、肉眼では見えない。そのため442年ぶりは全くどうでもよい。満月の前日の夜や翌日の今夜は肉眼では満月とほとんど区別はつかず、月食はそういう満月からずれた日に生じることもある。2日ずれてもあるかもしれない。そのことを思って昨夜は書いたが、442年ぶりの意味がわかってがっかりした。肉眼で見えない遠い星に筆者は興味がない。これは紛失したものが見つからないことや人が遠くに行ってもう会えないことに関心がないことにつながっているかもしれない。いつまでもくよくよしては面白くない。たまに小学生で親しかった友人を思い出すが、それだけのことで、探して会おうつもりはない。会えば幻滅することが多いと思う。お互い昔とは見栄えが大違いになっているからではない。内面がよい方向に変わったのならいいが、そうでない場合は打ち解けられない。子どもの頃はみな無邪気であったと思うが、大人の無邪気というのは否定的な意味が強い。筆者のブログの文章をある人から無邪気と言われたことがある。それは大人げない、忖度がないとの意味だ。筆者は少々むっとしたが、まあ気にしない。人の文章をどうこう言うより、まず自分で書いてみてはどうか。ところがほとんどの美大生が全然絵を描かずに遊んでばかりいることと同じく、文学部出も文章を好きで書くことはない。ネットにはそういう人で溢れ返っている。自分に何もない人ほど他者をこきおろし、劣等感の裏返しの優越感に一時浸る。最近湯たんぽのような顔をした13歳の男子がヤフー・ニュースに盛んに取り上げられる。別に何とも思わないが、その子の顔が13歳にはとても思えず、6,7歳に見えることに驚く。筆者の13歳はもっと大人びていた。筆者はツイッターのプロフィールに6歳の顔写真を使っている。大人の筆者の顔と大差ないと思うからだ。もっとも、それが無邪気な自惚れと言われるか。今日の写真は5日にザッパロウィンが開催される『夜想』に3時半に着き、開場まで時間があったので高辻通りを西方向に少し散歩した時に見つけた。竹製の弓矢を製造する会社の壁面で、大きな的が表通りと裏通りに描かれる。そして表側には円形の鏡が上下に二枚あった。筆者のオンボロ・カメラはファインダーを覗かねば撮れず、それもあって筆者の顔は映らない。マスクをしていたので、胸にカメラをかざして撮ったところで、筆者の顔の表情はわからない。それが〇なのかどうか。
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