「
圏外に 飛び出た後は 落ちる核 参画せずも 拡散するや」、「前科者 善の果実を 得ずに出て 娑婆の汚れに さばさば馴染み」、「過激こそ 効果がありと 信じても 名画汚すは 美の意識なし」、「価値観は 人によりけり あたりまえ 人蹴りしては 罰当たります」
昨日は『ザッパ・イン・ジャパン』という架空のアルバム名を書いた。それは本作のブックレットの後半はテリー・ボージオが『ザッパ・イン・ユーゴスラヴィア』と題して同国2か所の都市を回った思い出を書くからではなかったが、日本公演盤が発売されるならばそのブックレットにテリーが『ザッパ・イン・ジャパン』と題して何か書くことは間違いない気がする。それにもう書き上げているのではないか。5つに分けて書かれる『ザッパ・イン・ユーゴスラヴィア』はなかなか面白く、ほぼ半世紀前のことを昨日のことのように鮮明に覚えていることに感心する。誰でも大きく感動したことは一生忘れないだろうが、テリーが書くのは演奏の内容についてではなく、観光の思い出だ。しかも後に何ら影響を及ぼさなかったわずかな眺め、ほとんど一瞬と言ってよい光景だ。そのようなことはどの人にも日々無数に経験していると言ってよい。したがって次々に忘れて当然だが、テリーはどういうわけかそうした記憶の中から特別衝撃的であったことを、48年経った現在でも絵に描けるほどにはっきりと覚えている。 そのことは後述するとして、ジョー・トラヴァースによるデイヴ・モアへのインタヴューでは、ザグレブだと思うが、通訳の女性がナポレオン・マーフィー・ブロックに誘拐されたという噂が流れたとある。ナポレオンが彼女と一緒に一時姿を消したからだ。携帯電話のない時代にどうしてふたりは連絡し合ったのかだが、ナポレオンの口説きに彼女は応じた。おそらく出会ってから丸1日経つか経たないのにふたりはベッド・インしたのだが、英語が通じたということより、目の合図で男女の仲はどうにかなる。ツアーに出るとミュージシャンにはグルーピーがまとわりつき、セックスに不自由しないと言われる。それは70年代前半までが特に盛んであったろう。ザッパの「ダイナ・モ・ハム」は複数女性とのセックスが歌われ、それはザッパの実体験と思ってよい。これは以前書いたが、マイク・ケネリーが1988年のザッパ最後のロック・ツアーに関して日記を公開していて、架空の断り書きがあるが、マイクがザッパの部屋を訪れると、確か3人の女性とセックスの最中であったと書く。ザッパは当時48歳ほどで、年齢の半分ほどのグルーピーが一団となってザッパの部屋に訪れていたとしても驚くことはない。だがゲイルがツアーに同行していればそういう遊びは出来ない。ゲイルがユーゴスラヴィアに同行したのはきわめて珍しい国での演奏であったゆえの旅行気分で、通常ザッパは家族を家に置いてツアーに出た。
それでゲイルはザッパのツアー中の女遊びをザッパが家に戻って来た時に注意したそうだが、そこに普通の仲のよい夫婦の姿がある。ザッパにすればツアー中に女がホテルの部屋に押しかけて来れば拒めないというのが本音であったろう。日本公演では会場から若い女性2,3人の「テリー」という叫び声が頻繁に放たれた。そのことにテリーは気をよくしたろう。本作のブックレットにテリーは素敵な女性が演奏会場への通路で小豆色の絹のスカーフを与えてくれたことを書く。その後テリーは頻繁にそのスカーフを着用したというから、その女性への思い出が強かったようだ。ナポレオンのようにその女性と姿を消したことを書かないが、それはテリーの現在の妻である日本人女性のことを思いやってのことかもしれない。日本公演の演奏後に黄色い声を挙げていた女性とどう関係したかは、テリーや当の女性に訊いてみないことには、あるいは訊いても答えてもらえないが、プライヴェイトなことは当然そうだ。テリーは当時20代半ばで、接近して来る女性は少なくなかったであろうし、出会う女性に関心がないほうがおかしい。スカーフをもらった後にテリーは会場のことを書く。ザグレブではステージ上にクロス状にスポットライトが当てられ、ステージから客席を見るとタバコの煙が分厚い堤のように見えるほかは真っ暗で何も見えなかった。本作のジャケットやブックレットの写真、あるいはデザインはその客席の暗さを象徴するように黒が基調になっていて、客席はわからない。これは写すにも真っ暗で何も見えなかったからだろう。ザッパのステージでは客とのやり取りがひとつの大きな楽しみになっているが、本作でザッパはユーゴスラヴィアという国名を発しはしても、特別にユーゴスラヴィアに因む何かを歌い込まず、演奏もせず、アメリカで演奏するのと同じように同じ曲を演奏した。ところがアメリカとは異なる独特の雰囲気があったことをテリーは書く。会場はタバコに関して規則はなかったようだが、大きな競技場であるので換気装置もない。それでテリーはすぐにそれを皮肉に抗議する意味でタバコを1本もらって吸い始めたがたちまち吐いた。テリーには2本のスポットライトは当たっておらず、テリーが観客が見えないことは自分の姿は客から見えないことを知り、ザッパの音楽に意識を集中し始めた。ザッパはステージでタバコを吸うことはよくあるが、ユーゴスラヴィアの写真からはその姿は見えない。これは最後に書かれるが、ザグレグからリュブリャナに小さなバスで移動している間、ロイ・エストラーダは運転手が居眠りしていることを気づき、隣りに移動して運転手に語りかけながら目を覚ましさせていることを心がけたという。ロイはトラックを運転していた時期があって、バスの走り具合には敏感であったのだろうか。そういうツアー中の経験からザッパは歌詞のネタを得ることが少なくなかった。
ブックレットにテリーが書くことはザッパ曲の歌詞になるようなおかしみ、驚きがあるが、その思い出を分かち合えるザッパもアンドレもおらず、ロイは獄中で生きているのかどうか。ノーマ・ベルはユーゴスラヴィアでテリーと行動をともにし、社会主義国家特有の靴を買ったそうだ。彼女は数か月でくびになってその後消息はわからない。翌年加入したビアンカと同じく麻薬使用が理由だ。ザッパは73年から録音やライヴに黒人女性をほかにも使ったが、黒人女性メンバーにあまり縁がなかった。次に、デイヴもよく覚えていることだが、リュブリャナで演奏が終わった後、会場のアイス・ホッケー場で男が氷に頬をくっつけて眠っている様子をテリーは目撃し、ザグレブで最も印象深かったと書く。凍って死んでいると思ったところ男は生きていたというが、ロシア同様に大のウォッカ飲みが大勢いたのだろう。さて、今日の3枚目の写真のように、ブックレットの最後にテリーによるペン画がある。素人的なタッチが露わだが、説明を読むとテリーの視覚の記憶力に感心する。これと同じ場面をテリーはリュブリャナへの途上、小さな村で見かけた。北部イタリアに近い山岳地帯で、電線が一本もなく、TVのアンテナもなかった。枯れ木を山積みした二輪車を黒い服に身を包む老婆が腰を大きく曲げて引っ張る様子を、テリーはドラキュラかフランケンシュタインの映画でしか見なかったという。70年代半ばでも百年前と暮らしはほとんど大差なかったのかもしれない。テリーは右端に社寺によくある、絵馬や寄付者名を記す板を並べる屋根つきの構造物が描き添える。これはトウモロコシを干すためのものだ。その寒村の眺めを半世紀近く経ってもよく覚えているのは、貧困や文明の遅れへの憐みからではない。ザッパもテリーもそのような他者の生活を見下す思いはない。国や場所が違えばザッパもテリーも無名であり、しかも蔑まれることのほうが多いロック・ミュージシャンだ。ザグレブでの演奏後、ホテルに戻り、よい仕事を祝うためにホテル内の高級レストランに行った。そこには最上級の人種が集まり、生バンドによるダンス音楽が演奏されていた。テーブルに着いたザッパは客からの呆れた眼差しを意識し、ついに席を立った。そこは長髪の薄汚いロッカーが来る場所ではなかったのだ。これはザッパらがTPOを意識した見出し並みではなかったことと、ザッパはユーゴスラヴィアでは一部の若者が知るだけの存在であったことを示す。半世紀経ってザグレブやリュブリャナがどう発展したのかと言えば、ユーゴスラヴィアから指導者や国が変わり、庶民の暮らしは相変わらずではないか。そのことは日本も大差ない気がする。東京や大阪、京都は田舎ではないが、テリーなりに日本独自の奇妙なことを経験したかもしれない。ともかくユーゴスラヴィアでの経験を楽しく、懐かしく思っていて、テリーの自伝を読みたいものだ。
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