「
致し方 なきこと仕方 なきことと 到って平気な 兵器なしでも」、「核兵器 持てば使うか 思い湧き 重いことでも 軽く考え」、「気にすれば 出会いあること 気づくのは 予知能力と 幼稚の力や」、「一瞬を 思い返して 歌を詠み 後は忘れて 次の意を待ち」
今日の最初の写真は6月11日、丸尾丸子さんらのライヴを見るのに市バスで出かけ、堀川丸太町西北の地下の会場前に着き、開演まで20分ほどあったので、千本丸太町近くの「飛び出しボーヤ」を撮影しに向かった途中、丸太町通り沿いの北側で見かけた。たまたまの出会いで、そういう時は得した気分になる。2枚目はその3日後で、雨天であった。同じ丸太町通り沿いの北側のある民家のガレージ前に置かれ、数か月前から存在に気づいていた。嵯峨の3,4軒のスーパーを回る際に見かけるが、車が入っていればその陰になってほとんど存在がわからない。幹がかなり長く、品種の違いかもしれないが、3、40年の樹齢はあるだろう。交差点の角に半ば忘れられたようにあるので、蘇鉄に興味のある人は車でさっと奪って行く気になるのではないか。最近嵯峨のスーパーへの途上で新たな蘇鉄の鉢植えを見つけた。毎週最低二回はその前の道を歩くのに気づかなかった。道から少し奧に入った玄関前であって、どういうわけかその家の玄関をちらりとでも覗く気にはなれなかった。それでスーパーに行くのにカメラを持参する気がないままになっている。その家の一種の陰気臭さをなぜ感じるのかについては考えない。インキがあれば容器も必要だ。陰気さをそう思わない人もある一方、陽気さを鬱陶しいと感じる人はいる。そういう人が陰気とは限らない。蘇鉄は陽気な植物と思うが、その刺々しい葉を嫌って陰気さを感じる人はあろう。結局何事も相性と言いたいところだが、実際はそんなものはほとんどなく、誰でも誰とでも合うものだ。これは話せばわかるということだが、話してもわかろうとしない人がいるのも確かで、高齢者、権力者、自惚れ屋はそれに該当しがちだ。プーチンの死を祈願して神社参りをしていた高齢者が確か逮捕されたが、その人は話せばわかる人ではないか。プーチンに死んでほしいとの考えはたいていの人が共有しているだろう。プーチンは不要な戦争を起こして大勢を死なせていて、話してもわかろうとしない。そういうのを馬鹿と言うのは正しい。だが何度も言うように、信念のある馬鹿ほど今は有名になって金儲けもうまい。そして多くの若馬鹿者から讃美もされる。ということは絶対に戦争はなくならない。話してもわからないと思える相手とも話さねばならないことは往々にあって、人間は疲れる。蘇鉄もそうだろう。そう思うと何となくまた活力が湧いて来るし、蘇鉄とは話が通ずる気もする。それは勝手な一方通行か。筆者は全然そうは思わない。話さなくても通ずる相手はある。ヴィヴィッドにビビッと来る出会いがあるので人生は面白い。
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