「
釣り人を つられて見るや 海は凪 気長に見えて 短気を秘めて」、「早く寝て 早く起きるや 高齢者 深夜に眠る 恒例の吾」、「育てても 思いどおりに ならぬゆえ いいことのみを 見つめ謗らず」、「よきことの さしてなきこと よしとして 高望みせず 落胆もなし」
わが家の鶏頭、立派に咲いたとは言い難いが、去年、一昨年に比べればまともに写生も出来て、本気になった甲斐はある。写生をどう使って友禅屏風の図案にするかをしばしば考えているのに、別の場所で見慣れない鶏頭の咲き具合を見るにつけ、また新たな構図が目に浮かぶ。鶏頭の花の種類についての研究書があるのかどうか、同じ種子から育っても全然違う花が咲くようで、その予想のつかないところがこの花の面白さだ。現在のところ、たぶん球体状の花を咲かせる久留米鶏頭は最も進化した形で、その品種の育ちの悪いものが鶏冠鶏頭になるのではないか。また別に言えることは、鶏冠鶏頭にもならない花は蒲の穂のような尖がり状の花になるようで、生育条件によって形がどう著しく異なるのかは興味深い問題だ。つまり、当初鶏冠鶏頭に興味を持っていたのに、鶏冠状以外の形状の花との境界は厳密ではなさそうで、となれば鶏頭全般を視野に入れ、それらすべてをある程度写生したい気持ちが芽生えた。それが今年の収穫だ。今年は葉鶏頭の美しさにも気づき、絵にするとなるとそれも含めたい気持ちが湧いた。そうなれば葉鶏頭も自分で育てたい。その一方、屏風だけではなく、キモノの訪問着も鶏頭を画題に染めたい気持ちを今年は抱いた。そのおおよその雰囲気は脳裏に芽生えている。それに似合う帯も購入済みで、それは大鶏頭文を織り出したものだ。そのように自分のやりたいことを夢想するのは楽しい。実現させるにはいくつものハードルを越える必要があって、そのことも楽しめねばならず、あるいは実際に楽しいのだが、やりたいことが常に多くあることは退屈せずによい。さて今日の最初の2枚の写真は先月6日の撮影で、3枚目は順序が逆だが8月29日で、撮影後に隣家とのブロック塀から地面に下ろした。2,3枚目の縦長写真はわが家で今年咲いた鶏冠鶏頭の10の花すべてを真上から捉えた。この迷路状に入り組んだ花を正確に写生することは難しい。筆者はどういう方式でこのように入り組んだ形になるのかを調べる思いもあって自分で育てた。最初の写真の5枚目のように、最小単位の花の頂部が縮れていて、その単位の花の集合が鶏冠状に形成している。その鶏冠が360度方向に広がれば久留米鶏頭になり、それ以上の進化はおそらくない。となれば久留米鶏頭を育てればその生育のあまりよくないものが鶏冠鶏頭になって、わざわざ鶏冠鶏頭を育てる必要はなさそうだが、やはり久留米と鶏冠ではどこか違いがあるのではないか。そのところがよくわからないので鶏頭の専門家の本があれば知りたい。
そのように謎めいているところが鶏頭の面白みだ。神秘性をないものはつまらない。女性で言えば性器、セックスの想像が容易であるものは男性の興味を長らく引き留めることは難しいだろう。そのことを女性は知っているはずだが、女性も男性と同じく性に振り回される本能を持ち、性器を男性に晒したい欲求はある。その相手が理想的な、あるいは結婚という形に到達可能な男性であればいいが、それは案外確率としては少ないかもしれない。それで女性が異性経験豊富になるのはいいとして、結婚の契機を逃し、ほしいと思っていた子どもも得られないことになりかねない。その点、男は精液がひとまず高齢になっても生産され、子孫を残すことにかけては女性ほどに切羽詰まっておらず、それをいいことに若い女性の焦りを無視して遊びたい者がいる。そういう男の本性を女性は見抜くべきと思うが、若い頃はそんなことは考えない。いつまでも若さがあると錯覚するからだ。まだ若い、まだ若いと自分を騙しつつ年齢を重ねる。実際死ぬまで若いと思っている者ほど長生きする。話を戻す。今日の最初の2枚の写真は鶏頭の花の迷路状を記録するために撮った。どの花も女性の小陰唇のようで、改めて鶏頭の花がエロティックであることを思う。そのエロさに男は女性の迷路のような神秘性を認め、振り回されるのだが、先に書いたように複雑に見えて実は小単位の集まりゆえにそう感じられるだけのことだ。人物の神秘性も一枚ずつその覆いを剥がして行くことが出来るのではないか。そして案外その先には玉ねぎのように中身は何もないかもしれない。そのように女性を捉えると途端に女性という存在に魅力を感じなくなる。それでは男としては生きていてつまらないので、なるべく幻想を抱くようにし、好みの女性を絞って内心崇める。だがその当の女性は密かに思われているとしてもそのことを知らない。それでは女性はつまらないので、やはりある程度積極的に接近してくれる男性に関心を寄せる。その距離感の測定を男性は誤りやすく、ストーカーと勘違いされることにもなる。それで男性は臆病になるが、筆者のような高齢になると連絡を密にして嫌われたくないので、遠くから見つめる、いや見つめることは出来ないので思うだけになる。そしてそのことを当の女性は想像すらしない。それでいいのであって、そのかすかな男性側の思いは何らかの効果を生むと筆者は信じている。それは筆者が作品で表現する仕事を長年して来ているからだ。筆者が鶏頭を画題に屏風やキモノを染めたいと思うのは、特定の女性に対する思いが仮に出発点になっていても、それを越えてその思いを純化させて作品に反映させたいからだ。そこには当然その女性の安寧に対する祈りのような気持ちもある。ただしそれが相手に通じるかどうかは筆者にはわかりようがなく、またそれでいいと思っている。
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