「
拷問を されても曲げぬ 信仰の 深きを知りて 心揺らぐや」、「信仰を 信じぬ人の 幸福を 神の差配と 信じぬ不埒」、「少しずつ 仕上がる作の 綾見つめ 無事にすべてを 終えるを祈り」、「することの なき日はなきに 目覚めよし 今日の一日 また根を詰め」

先月21日、京都市内を回って最後に見た展覧会について書く。久しぶりに京都高島屋7階のグランドホールで開催された展覧会で、刺繍絵画が約30点、ビロード友禅が7点、下絵15点、その他の資料で、大半は高島屋資料館が所蔵し、他に千總や清水三年坂美術館などから借りられた。個人蔵の5点の入手経路はわからないが、海外のオークションから入手した可能性はある。本展は何度もTVニュースで紹介されたこともあって見る気になった。内容は予想どおりで、芸術性が豊かなものではなく、職人芸を売りにするもので、主に明治大正期に海外に輸出された商品だ。当時は人件費が安く、また他の仕事が乏しかった時代ゆえに製造された作品群と言ってよい。刺繍は友禅染めでも最終の工程としてあしらわれることが多い。刺繍のみで絵模様を表現したキモノもあるが、手刺繍では膨大な手間を要し、安価な商品ではミシンを使う。それは日本が欧米並みの生活をするようになって人件費が高騰したためで、本展出品作を現在復元することは技術的に可能でも経済面では不可能だ。人件費だけでも数百万円から数千万円になる作があって、それでバブル期に呉服業界は刺繍を中国に外注することが一般化したが、今では中国も人件費が日本並みになり、豪華絢爛な手刺繍の作品は時代遅れとなった。あるいは大金持ちが制作を依頼するようなものになった。同じことは昔のベルギーの刺繍にも言える。10代半ばまでの手の小さい子どもを使って刺繍させたその作品は、安価な労働力でもあったので、現在では復元不能で骨董価値がきわめて高くなっている。明治大正の輸出用の刺繍絵画も同様で、その驚異的に根を詰めた点に人々は感心し、二度と生み出せないものと思うようになっている。その意味で美術骨董であっても美術品の側面より骨董品の扱いがふさわしい。言い換えれば、絵には芸術性はほとんどなく、原画の下絵は三流で無名の絵師が描いた。当時でもそう認識されていたはずで、芸術の見どころがわかる外国人もそのことを喝破していた。それゆえ流行を意識した消耗品の家具調度と同じであり、運よく残ったものが骨董市場に出て、日本が買い戻す気運が高まっている。日本の美術史に組み込まれる価値は乏しいが、制作から百年後の現在、欧米と同じ生活をしている日本は明治大正の外国向きに創作された刺繍絵画を逆輸入の形で楽しみ、そこから新たな潮流が生まれないとも限らない。それに日本が近年安い国になり、明治の安価な人件費並みになって手仕事に勤しむ人が増えることはあり得る。
手仕事が見直されるとして、時間給を計算するようではいい仕事は出来ず、寝食を忘れて愛情をもって打ち込めなければならない。筆者の友禅でもそうだ。人間国宝の作であればキモノ1点で1000万円以上と言われた時代があったが、同じように労力をかけても無名であれば無料でもほしいという人はない。それどころか下手な作家作品は染めずに白生地のままのほうがまだ使えると言われた。筆者のキモノも時間給千円の時代にたぶん百円にもならなかった。どのように生活して来たかと言えば、家内が給料を得る常勤をしていたからだ。ところで「風風の湯」がオープンした当初、筆者は嵯峨のOさんと知り合いになり、やがてコロナが始まってOさんは来なくなった。その前にOさんは高校時代の友人の刺繍職人が京都市内で個展を開くことを筆者に伝えた。筆者は同展を訪れ、作者とも会った。彼は長年キモノに刺繍を施す仕事で生計を立てて来た。呉服業界の凋落によって仕事をほとんど失い、創作に転換して初個展を開催したのだ。筆者は自分のことをほとんど言わなかったが、筆者は友禅界に入って1、2年後に自分の創作を初め、以降作品を公募展に出し続けた。Oさんはそのことを作家としては当然であって、職人としての賃仕事がなくなったので創作を始めるのは遅いと、やんわりと友人の刺繍作家を評した。創作は何歳から始めてもいいが、独自性を表現したい欲求は若い頃に芽生える。音楽では10代から20代がピーク、美術ではもう少し遅くて30代半ばだろう。つまりOさんの友人の刺繍職人は長年培った技術を見せる作品は表現出来ても、芸術性となれば40年遅い。世間には、好きな表現活動は金に余裕が出来てからでいいという意見がある。それは芸術を知らない人の言葉だ。以前書いたが、企業で定年まで働き、ようやく自由時間が出来たので高価なエレキギターを買った男性をNHKが数年前に紹介した。その人はギターを横に困惑した表情で、とてもロックをやるように見えなかった。高級ギターを買える金は得たが、それを思い通りに奏でる気力がもはやない。つまりその人はサラリーマンをしながら若い頃からギターを練習しておくべきであった。だがそれでは一流のサラリーマンにはなれなかったかもしれない。
浦上玉堂も若い頃から武士に馴染まず、気ままに好きなことをして生きたかった。そのことが30半ばで踏ん切りがつき、そして脱藩した。先の刺繍職人は金になる職人仕事が舞い込んでいる時に一方で創作をしているべきで、そうでなければ個性ある美術品と呼べるものは作れない。ところが彼は自信満々の様子で、京展に自信作を出品して平入選であったことを専門家の見る目がないと憮然とした顔で語った。作品は抽象で、大変根を詰めたものだが、その抽象表現に至る道筋は見えなかった。若い頃の作品があれば話は違ったろう。
今後創作を続ければ遅咲きの才能が開花するかもしれないが、売れる見込みのない作品を多大な日数と経費を費やして作り続ける覚悟が70代で持てるだろうか。1歳でも若い頃から始め、また寝食を二の次にしてでも続ける覚悟を持ち続けねば無理だ。ところが世間では金持ちの道楽として絵を描いたりする人があって、しかも交友がつきあいでその作品を買うから、作者本人は自分がいっぱしの芸術家であると自惚れ、錯覚する。それはさておき、工芸品は手仕事の妙を示すものだ。一見して根気の集積が明らかなもの、つまり本展で展示された刺繍作品のようなものは、人件費が換算しやすく、妥当な販売価格が決められやすい。ただしそういうものは美術的価値が低くみなされる。手仕事好きであれば誰でも根気を尽くせるからだ。たとえば作品1点に線が1万本引かれているとして、その線引きの時間を金額に換算することは困難ではない。ところがそのどの線も素人丸出しでは誰がほしがるだろう。作品1点に線が1本しかないものがあって、しかもその線を引くのに作家が数百万本の線を練習していたとすれば、1本の線しかない作品は数百万本引く時間を勘案したものでなければ本当は経済性は割りに合わない。芸術とはそういうもので、作品の陰に費やされている努力に見合う技術力が問題とされ、作品に直接目に見える形で表されている仕事量はあまり問題にならない。ところが1点の作品に1本だけ線が引かれているのであれば、その線を常人がとうてい引けないことに想像が及ばない人は、その作品の作者を詐欺師のように思う。そしてそういう人ほど作品に盛られた制作時間が明らかな、たとえば本展の刺繍絵画のようなものをありがたがる。作品の陰にある練習的努力の多さが作品の質を高める。名作の陰には当の作者の人生丸ごとの努力がある。逆に言えば日々練習を欠かさなければ名作、名人芸はあり得ない。それゆえサラリーマンが定年後にギターを弾き始めても自分を慰めるものにしかならない。もっと言えば先の刺繍職人は、職人仕事を日々こなす一方で自己の創作を若い頃から始めていなければならなかった。芸術は片手間で出来るものではない。人生のすべてを費やしてなお無名のまま終わる人がほとんどと言ってよい。もうひとつ例を挙げる。ある若い女性切り絵作家が自作1点をTVで六百万円と公言していた。筆者は千円でもほしくないと思ったが、彼女にすれば多大な時間を要していることと、また1点限りの創作という自負がある。だが彼女の作を模倣することは手先の器用な人ならたやすく、芸術としての味わいどころはない。ほとんどの切り絵作家の作はそうだ。根を詰めたことを売りにする限り、芸術にはなり難い。多くの時間を費やしただけのことで、切り絵のある個所を拡大すれば線は厳密ではない。また絵もほぼ写真の再現に過ぎず、変更していてもその工夫はつまらない。
それは結局絵画の才能がないことを意味する。刺繍にも同じようなことが言える。刺繍作家はもちろんいるが、肝心の絵の才能が画家に劣るのであれば、仕上がる刺繍絵画も絵画の下位に甘んじるしかない。それで刺繍は友禅でも最終工程の添え物扱いとされて来た。筆者も自作に刺繍を施してもらったことがよくあったが、ごくわずかな刺繍で高額を請求され、刺繍なしで友禅染だけで創作するようになった。京友禅は染めや縫い、箔などさまざまな技法を集合させるところに特徴があると言われる。それは各職人の技術の粋を集めるという表向きの言葉とは別に、それぞれの職人の技術が最高とは言い難く、集合して見栄えのよいものを求めたからでもある。友禅を発明した宮崎友禅斎は水に濡れても色落ちしない絵画表現を求めて染料を使うことで友禅絵画の技法を発明した。それは刺繍や箔押しを施さない、生地の表面が平板な「染物絵画」であった。したがって糸目友禅の技法のみで作品は成立し、その根幹に絵の才能がまずあった。筆者の友禅作品は糸目友禅の高度で複雑な技法に、写生を多くこなした図案を用いることだ。これには下絵を描けるかどうかが問題になる。京友禅の世界ではその下絵にも職人があり、彼らは伝統的な文様をただひたすら写して使用するだけで、写生から始めて独自の文様を案出する考えはほとんどない。そんな割りの合わないことをしなくても、時間給に換算した賃金で充分生活出来るからだ。筆者は写生に膨大な時間を費やして来たが、そのことは作品に直接関係しない場合がほとんどだ。しかしその陰の努力が作品に反映すると信じている。ピアニストが毎日8時間練習するのはあたりまえのことで、その日々の積み重ねが人前で演奏する本番の出来を左右する。ところがライヴハウスで演奏するミュージシャンはたいてい練習不足で、ザッパのように多作で血のにじむ努力を続ける者はいない。話を戻して、大半の京友禅のキモノに芸術性はないと言ってよいが、職人芸の粋を芸術とみなす向きはあるから、問題はそう簡単に片づかない。本展はそういうことを考えさせる。これは昨日書いた清水九兵衛の彫刻と同じく、日本に芸術家がいるのかという問いにも関係する。それゆえ九兵衛の朱色の金属彫刻は人々の間でちょっとしたロゴマーク的なものという認識に留まり、設置場所が変えられてもさほど気づかない。強烈にそこに立っているという自己主張の乏しさは日本向きなのだ。そのことを明治大正の欧米人も気づいていたろう。西洋で言う芸術家はおらず、いるのは手先の器用な工芸家のみと極論すれば、日本の美術の特質がよくわかる。和をもって尊しの考えが今なお当然のように言われる日本では、誰の作にも似ていない孤高の作品というものがそもそも歓迎されにくいが、百年以上の風雪に耐える作品はみな孤高性を持っている。
明治の欧米人にすれば日本は遅れている国ではあるが、エキゾシチズムは豊かであり、それを工芸品を通じて自宅にほしいと思った時、壁面を飾る刺繍絵画は格好のものであった。明治の陶芸品はまだ作家名で区別化され得たものがあったが、刺繍絵画は下絵を描いた人たちもほとんどが職人で、作品は無名の職人による商品とならざるを得ない。そういう職人は名前が出ることを求めず、時間給に見合った賃金さえ支払われればよかった。また自己主張は他の職人よりも優れた技術を示すことで充分であって、そのことはそれなりに作品に反映された。ここで
先日書いた古代ギリシアの「ベルリンの画家」を思い出すと、彼の作品は誰が見ても一瞬でわかる個性がある。それは独自の表現様式と技術を持っていたからだ。それでも作品は無名として今に伝わった。作者名は後世の人にはどうでもよい。名前よりも作品の個性が大事だ。そのことで後世の人が「ベルリンの画家」と命名出来ることになった。その意味で言えば本展の出品作はおそらくどれも様式の区別化が出来ない二三流の作で、繰り返せば芸術ではない骨董品だ。これは一流の画家が本格的に下絵を作らなかったからだ。作ったとしても本業の画家の仕事で充分経済的に潤った時代であった。そしてそうした画家は刺繍独特の効果に関心はさほどなく、あっても刺繍職人に任せるしかなかった。また彼らは深い芸術性はわからず、ただ絹糸を写実に沿うように駆使したに過ぎない。何度も繰り返すように作品の見どころはいかに多大な根を詰めたかという制作時間の多さにあった。それゆえ筆者は本展を見ながら、下絵がもっとましなものであれば優れた作品になったのにという残念さを感じることがほとんどであった。出来のさほどよくない下絵に沿って、数人が数年要して1点の大作の刺繍絵画を作り上げたとすれば、そこには悲しさ、虚しさが前面に出て来る。下絵も刺繍作業と同じほどの多大な時間を費やされればよかったのに、当時の商人は下絵に大金を支払う考えはなかったろう。それは労働とみなされにくかったし、今もそう言える。芸術性よりも労苦の多さがわかりやすいほど商品になりやすく、儲かるからだ。その考えは今も健在だが、SNSの利用によって中身がないのに名前だけ売ることの熱心な者が急増し、かくて「ゆるキャラ」のようにぶくぶく膨れて中身の人間が見えない作品が大手を振るうようになった。努力を嫌い、いかに要領よく人を欺くかが名声を得る近道になっている。TVやネットの有名人はほぼすべてはそういう人種と言ってよい。それで出現も一気だが、消えるのも早い。世間は案外常識的に動いている。それゆえ、口だけではなく、手先を動かすことに根を詰め、手抜きをせずに膨大な時間を費やした作品を見ればまだ救いがあるように感じられる。
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