「
芽が出ても 間引かれ消える 命あり なぜに自ら 死に急ぎたる」、「嵯峨菊を 探して訊くや 嵯峨の里 花屋で売らず 民家にもなし」、「割引の おはぎ買わずに 気にならず 夢中を絶ちて 心騒がず」、「我先に 走り競うを 嫌う子の 優しさ知らぬ 大人が威張り」

先月15日に京都市京セラ美術館の中庭に初めて入り、清水九兵衛の彫刻があることを知った。当時、向かいにある京都国立近代美術館で生誕百年記念の『清水九兵衛/六兵衛』展が開催中であった。九兵衛の彫刻作品は京都市内各地の街角にあるので、同展に行く必要はないかと思っていたが、6日後の21日、白沙村荘を訪れた後に見た。図録は買わなかったが、同館1階で両面カラー刷りの見開きチラシと「“京の街角てくてく”九兵衛さんマップ」と題するA3のカラー印刷されたものを入手した。同マップによれば
京都市京セラ美術館の中庭は「天の中庭」と呼び、そこに置かれる九兵衛の彫刻は1990年の「朱態」とあって、同館の玄関横にあったものを移設したことが書かれる。道理で同作はどこかで見た記憶があった。九兵衛は2006年に亡くなっているので、同作はその12年前、68歳の作品だ。九兵衛が同美術館の中庭に彫刻を置くことを知っていれば同作とは別のものを作ったかもしれない。そう思うのは、九兵衛が自作彫刻を展示する場所を熟考して作品を考えたと思うからだが、常にそうであったかどうかが筆者にはわからない。街中に彫刻作品を置くのは、たとえば大阪御堂筋に並ぶ数多い作品のように、個人の家に置いていいほどの比較的小型である場合はさほど問題はないが、周囲の空気を大きく支配するほどの大きなものを恒久的に据えるとなると、環境問題に関係することから多くの人の賛同が得られるとは限らない。やがて飽きられた時、撤去費用をどうするかという問題が起こるし、またそもそも目障りで街の雰囲気に馴染まないと思う人もいる。百年ほど経っても多くの人に愛され、街のシンボルとして人気が定着すればいいが、日本ではまだ大型の野外彫刻の歴史は浅く、そんな先のことは誰にもわからない。そこであまり目立たず、意識の中で無視することも出来るような作品が求められるだろう。これは極論すればあってもなくてもいいもので、存在を知る人にとってはなくてはそれなりにさびしいが、すぐにそのことも忘れるといった作品だ。九兵衛の彫刻はそのようなものに思える。というのは、前述したように「朱態」が改装前の京都市美術館玄関脇にあったことを思い出しはするが、その場所から消えても気にならないからだ。そのことを九兵衛は悲しむだろうか。あるいはもとよりそのようなものとして、つまり一時的な存在として達観していたであろうか。日本の公共的な建物が欧米の模倣であれば、その建物前の大型彫刻も欧米を真似したものになるが、京都市内を飾るにふさわしい彫刻となれば京都らしさが求められる。

先日は岡崎にある九兵衛の赤い金属の彫刻は平安神宮の大鳥居を思わせる朱色であることを書いた。筆者が知る九兵衛の彫刻はみなその色だが、塗装しない銀色のままのものがあることを本展で知った。今日の写真がそれだ。会場では撮影可能な作品がいくつかあったのに、筆者の調子の悪いカメラで写ったのは1点のみだ。上下の写真は同じ作品を別角度から撮った。チラシによればこれは千葉市美術館蔵の「FIGURE 16」で、1988年の作だ。汚れていないので、野外に設置されていないかもしれない。チラシに印刷される写真は写真上と同じ角度で、それが正式な鑑賞立ち位置なのだろうが、立ちはだかる壁部分があまりに目立ち、写真下の曲面部分のみでもいい気にさせる。だが、その部分を地面から浮かして支えるために壁は必要だ。上の写真を撮ったのは壁の裏側に見えるボルトだ。九兵衛はそのボルトの頭に円形の金属製のキャップを被せて工場製品になるべく見えない配慮をした。それでも金属の無機質ぶりが際立ち、恒久的な保存にはきわめてつごうがよいが、冷たさは否めない。九兵衛は名古屋に生まれ、陶芸家として日展で特選を受賞するなどし、その才能を清水六兵衛の六代目に買われ、跡継ぎの養子になった。ところが1968年から九兵衛を名乗り、アルミニウムを素材とする彫刻を作るようになった。晩年の六代から名前を継いでほしいと言われていたことを昔何かで読んだように思うが、チラシの説明によれば六代が1980年に急逝し、それで七代を襲名した。ところが七代六兵衛としての作品は87年から制作し、筆者は本展で初めてその時期の陶芸作品をまとめて見た。本展の題名は『九兵衛/六兵衛』とややこしいが、もちろんこれは同一人物で、また前者が大がかりな金属彫刻、後者が六代の仕事を継ぐいわば伝統的な陶芸家としての仕事を意味し、また両者は厳密に分けられないことを示しもする。九兵衛の彫刻は陶芸家からの転身であるので、陶芸から展開したものと考えてよい。ということは最初から抽象表現だ。ロダンにしてもヘンリー・ムーアにしても彫刻家でありながら、人体の素描でも特徴ある作品を遺した。九兵衛にはそれがない。先日紹介した『板谷波山展』では若い頃の波山の絵画作品が展示されたが、本展にはそれがなく、九兵衛は具象には関心がなかったようだ。日展で特選を得た作品は壺という容器であり、その仕事は晩年に六兵衛を襲名してからふたたび手掛けるが、彫刻では容器的な用を考える必要はなく、立体としての造形に腐心するだけでよかった。しかも人体表現ではないから、ある意味自由であり、また自由であるゆえの不自由も感じていたかもしれない。ムーアの彫刻は人体に出発しながら独自の抽象の境地に至り、またその過程は多くの作品で有機的にたどることが出来る。一方、九兵衛の彫刻は京都にあるものだけでも表現の変遷をたどることは出来ない。
筆者は九兵衛の彫刻の全部が設置場所にふさわしいとは思わない。たとえば京都文化博物館前の「朱装」は建物の前の歩道が狭く、彫刻がとても窮屈そうで、もっと小さくてよかった。逆に京都市立美術館の「朱態」は美術館前がとても広いのに小さく、それで中庭に移動してからもさほど目立たない。九兵衛の彫刻の工場で作る費用が1点当たりどれほどするのかは作品の大きさによるので愚問だが、それでも最低でも数百万円はするはずで、そうであれば九兵衛は売り先がないのに置き場所に困る作品を作るはずがなく、やはりどれも最初から置き場所と予算はわかっていたであろう。ある建物の前のどこに設置するかの問題は、その建物だけではなく、隣り合った建物や通りの向かい側の家といった周辺の環境も考慮すべきで、九兵衛がそうしたこと、つまり街中にどう馴染むか、あるいは逆に馴染ませないかのこだわりがあったかどうかはやはり筆者にはわからない。また強いて言えばあまり環境を考えず、いくつも作っていた模型の中からかなり適当に選んでそれを工場で作らせたのではないかという気がする。そうであれば九兵衛が作って手元に置いていた小さな模型をすべて年代順に並べれば、九兵衛の彫刻にかけた思いがもっとはっきりわかるのではないか。本展では1階にその模型(マケット)が10数点展示された。それらを見ただけではたとえばムーアのようには、九兵衛の彫刻の変遷はわからなかった。これは様式の発展が明確にたどれないという意味だ。自分で最後まで仕上げられる陶芸作品とは違って、ひとりでは持ち上げることも運ぶことも出来ない大がかりな金属彫刻は、いかに有名な九兵衛であっても生涯に百や二百を受注して制作することは出来なかった。それほど受注があったとして、九兵衛の作品だらけになることがいいかとなれば反対者もいたであろう。筆者は京都市内に九兵衛の作品が目立つようになった頃、つまり80年代から90年代にかけて、さすが名家を継いだ人物にふさわしく、作品の公的な設置場所に恵まれていると思ったものだ。九兵衛のみそのような金属彫刻を目指していたのではないだろうが、似たような抽象作品であれば有名な作家に注文が舞い込むのは仕方がない。九兵衛は元陶芸家であるので、最初から彫刻を目指している人からは暗に批判もあったと思うが、京都は工芸の王国で、そこに工芸から出発した彫刻家の大規模な作品が公的空間を飾ることはそれなりに意義がある。筆者が考えたいのはその工芸的彫刻という点なのだが、机上に乗る小さな模型と設計図のみ作って後は工場任せという手法も工芸的と言えばそう言える点において、たとえば緞帳の原図を描くような染織作家を思い浮かべる。そう考えると、九兵衛の彫刻は「用の美」を目指したものと言ってよいだろう。工芸の基本は「用いる」で、そのうえに欲を言えば「飾り」の側面を持つ。
平安神宮の大鳥居は用途の役割がありつつ、岡崎を飾る最大の象徴になっている。鳥居は日本が生んだ最高の徴であろう。九兵衛がそのことをどう思っていたかわからないが、自作彫刻を朱色としたところに京都らしさ、日本らしさを考えたことは間違いない。ただし形態はどうか。筆者は本展を見た後、同じ美術館の別の階で菅井汲の作品を見て九兵衛と比べた。菅井の作品も抽象で、またそれは単純な徴を出発として平面的な色合いと幾何学模様の構成を組み合わせたものであった。鳥居に比肩する単純明快な徴を九兵衛がどこまで意識したかとなれば、九兵衛の作品を設置する場所は神社前でなく、形も用途もさまざまな現代のビルディングで、それぞれにふさわしいシンボルとなる作品が求められる。それは施設のロゴマークに似たものとも言える。前述の「マップ」には京都の9か所の作品がイラストで描かれ、その大半をしばしば見る筆者にはどれもロゴマークに見えつつ、朱色であるところに作家のこだわりも感じる。そしてたとえば海外の有名彫刻家の作品を代わりに置いてもしっくりしないことを思う。国立国際美術館は万博公園内にあった時にムーアの高さ6,7メートルの彫刻を野外展示していた。それが中之島の地下に美術館が移転してからは屋内に置かれたが、美術館に展示されて意味がある作品であることをつくづく思う。九兵衛も自作をそのように展示してほしかったであろうが、鳥居と同じく道行く人の目に触れるような公共のものとして機能しているのであるから、それでいいではないか。これは鑑賞の観点からはムーアやロダンのような作より劣るという意味だが、九兵衛は作品とその設置空間との関係を念頭に制作したのであろうから、建物ないし設置場所が変化すれば、ある程度は自作の役割は終えると思っていたかもしれない。これは以前に書いたことがあるが、日本の工芸の中ではヒエラルキーを意識する人がいて、金属が頂上、次に陶芸、そして木工、最下位に染織を置く。これは作品そのものの風化の度合いによる考えで、金属であればたとえば中国古代の青銅器のように長持ちするのに対し、染織品はすぐに朽ち果てるからだ。この考えを染織家は当然否定するが、現状はやはり染織は工芸の中で最も地位が低いとみなされている。陶芸家も作品が脆いことを自覚している。九兵衛はそれで金属の彫刻に向かったかもしれない。ものとして強固で動かしがたい作品を目指し、しかも多くの人の目に留まって意識の中に生きる。その夢をかなえた九兵衛はまた陶芸作品を作るが、インスタレーションと言ってよい方向に関心があったようで、和紙にガラス、あるいは陶と金属を併用した作品を手掛ける。それらも1階に展示され、本展ではどことなく余技扱いであったが、九兵衛がかつて若い頃の「モノ派」に関心を寄せ、自らの方法を提示したく思い続けていたことがうかがえる気がする。
陶芸家であっても彫刻的に公的空間を飾る作品を作る例はあった。辻晋堂がそうだ。その作品を彫陶と呼ぶが、九兵衛はその伝統を継がなかった。そして入れ物ではないが、器のように単純な形態の彫刻にこだわった。人間は血と内臓の詰まった容器と言ってよいので、広く見ればムーアの彫刻と九兵衛のそれはさほど遠くないかもしれないが、人体から発想した彫刻はないように思う。「マップ」に載る9点の作品名を時代順に列挙すると、「CONNECTION」(81年)、「湧峯塔」(84)、「寿冠」(89)、「朱甲面」(89)、「朱装」(90)、「朱態」(90)、「朱鳥舞」(96)、「祭甲」(96)、「朱甲舞」(97)で、「冠」や「面」、「甲」は工芸とのつながりを示す。「祭」や「舞」は神社とのつながり、日本的なものを思っていたことがわかる。さて、そういう九兵衛が襲名した後の陶芸作品は金属の彫刻が薄い板を曲げて組み合わせ、あるいは組み立てた技法に連なるものだ。厚さ数ミリの粘土板で茶碗を練り上げ、そのごく一部に切れ込みを入れて重ね合わせ、それと同時にそのわずかな重なりの箇所に直径2センチほどの円形を刳り抜く様式が中心になっていた。その穴空きは茶を飲む際に向こう側に来るようにするのでそこからこぼれることはないが、危うさを感じさせる。それが狙いか、あるいは茶の湯に風穴を開けたい諧謔趣味だろうか。器の表面は金属彫刻と同じく、装飾と呼べるものはなくてつるりとしている。黒や白、褐色などどれも無機質な単色で上絵はない。装飾は丸い穴と切れ込みを入れそれを重ね合わせた箇所のみで、この切れ込みと丸い穴の同居はペン先を連想させる。もっともそのような思いを抱くのは万年筆やペンを盛んに使用した筆者くらいの世代までだろう。当代の楽吉左衛門の茶碗とは対極にある作で、また彫刻を手掛けて来た果ての境地としては妥当だが、その景色のきわめて乏しいあまりのあっけらかんとしたたずまいは、割れやすい陶器でもあるので、きれいでしかも女性らしいぬるりとした様子はあっても、それゆえの脆弱さを感じさせる。だが茶碗は使い込まねば味は深まらず、最初から鑑賞用にしかもごてごてとこだわり過ぎの当代の楽茶碗よりはさっぱりして潔いかもしれない。九兵衛は八代目の六兵衛に後を託したので、先代の願いをかなえ、また彫刻と陶芸の両方で自己表現出来たので満足の行く人生であったろう。八代目は二代目の九兵衛となることがあるのかどうか。また筆者はその陶芸作品を知らないが、父の仕事を受けてとなればどういう新時代の陶芸が可能なのか、その苦悶は家柄の重みを思えば常人には想像を絶する。今日は枕に八木一夫の作品に対する中村真一郎の思いを書くつもりであったのにすっかり忘れてしまった。その出始めであれば今日の文章はまた全然違ったものになった。
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