「
屑米を 多めに撒きて 空寒し 太れよ雀 冬乗り越えよ」、「素人は 知ろうとせぬや 詩の音を 苦労自慢の 玄人さらに」、「薔薇の実を 踏みつけ遊ぶ 子の無邪気 花咲く歳に なるはまだ先」、「玉堂の 句碑を探しに 法輪寺 見つけられずに 裏道たどり」

先月21日、白沙村荘に行く気になったのは泉屋博古館で本展のチラシを入手したからだ。それは少々厚手の紙を使った見開両面カラー印刷の凝ったもので、『玉堂琴士』と玉堂の隷書体の署名をそのまま展覧会名にする。「玉堂琴士」は玉堂が30半ばから使い始めた。絵画にもそのように署名することがあって、玉堂は画家よりも琴を弾くことを最大の楽しみにした。それゆえチラシの表紙には玉堂の絵画ではなく、玉堂が使用した琴の写真が採用された。玉堂が使った琴は中国のものに倣い、日本古来のものの半分ほどの長さだ。それゆえ全体に高い音が出るはずだ。玉堂は岡山の池田藩の武士であった。妻が亡くなった後、再婚せず、50歳で15歳と10歳の男子を抱えて脱藩し、九州から東北まで放浪する生活を送った。晩年は京都に暮らし、墓は本能寺にある。嵐山にはよく来たようで、後述するように本展には嵐山を画題にした水墨画の掛軸が展示された。筆者が玉堂の作品をある程度まとめて見たのは有名な名古屋の木村定三コレクションだ。そこには重文が含まれる。玉堂には他に5点の重文と、川端康成が所蔵した国宝もある。その国宝「東雲篩雪図」は10年ほど前か、模写している人の特集があった。南画好きにとって玉堂は最高の画家と思われているふしがある。四半世紀ほど前、京都のオークション会社の競売会に行くと、広島から毎回やって来るという当時60歳くらいの男性と話が弾んだ。その人は玉堂ファンで、予算が合う限り、また自分の目で見て本物と思える作はどうしてほしいと言った。また7,8年前、知り合いの日本画家の個展に行った際、その画家が玉堂ファンであることを知った。その時筆者は玉堂と聞いて川合玉堂を思った。それは素人同然と言ってよく、玉堂と言えば普通は浦上玉堂のことだ。両者の生き方は全く違い、それゆえ絵画も趣が正反対と言ってよい。川合の絵は温和で優しい人柄が滲み出ているのに対し、浦上の水墨の山水画は空想に遊び、ひりひりとした寂寥感が強い。そのため万人受けはしない。これは逆に言えば、わずかな熱烈なファンを得ることだ。筆者は玉堂の絵の実物をほとんど見た経験がないこともあって、たとえば柳沢淇園や祇園南海、蕪村や大雅、あるいは玉堂の後の米山人とは違って長年無視している。前述のように出会いの機会はなかったとは言えないが、わかりやすく、しかも楽しい絵ではなく、遠ざけて来たところがある。それでも隣家に置いている講談社の「水墨美術体系」から『玉堂・木米』の巻のみはここ数年、手を伸ばせば届くところにずっと立てかけ、気が向けば繙いて来ている。
玉堂はひとつの場所に長年定住せず、絵画は大部分が掛軸か画冊だ。蕪村は六曲一双屏風が多いが、そうした大画面は今や平均的な日本の家屋では広げられる場所がない。それに南画人気は凋落の一途のようで、大作は思ったほどの市場価格ではなく、普通のサラリーマンでもその気さえあれば充分買える。欧米の有名どころの画家の作であれば1億円ではもう購入不可能だが、日本の江戸時代の画家であれば、半切の掛軸は運がよければ数万円程度から手に入れられる。ところがそれを修復し、表装を新しくするのに最低30万、普通は50万円するから、古い絵そのものよりも現在生活している人の手間賃のほうが10倍ほど高くつく。表装代は絵巻では、そして国宝級であれば億単位の費用がかかるが、そのように紙に描かれた作品は扱いが難しいうえに修復費用が絵画そのものよりも高額である場合があって、絵画好きで購入を考える人はいかに無事に保存する覚悟があるかが問われもする。新米の学芸員は掛軸の扱い方に不慣れで、ちょっとした間違いで折れを作ってしまうことがあると聞く。そうなれば表具屋の出番で、よけいな出費がまた数十万円もかかる。ようやく憧れの画家の真作を入手し、表装を数十万円要して新たにし、そう何度も広げて楽しまないのに10年、20年はすぐに過ぎ、そして死んでしまう。そうなると遺族は価値がわからず、たいてい二束三文で売り、買った業者だけが儲かるというのが現実だが、保存がよくて表装を新しくし直す必要がない場合は、買った人は以前の所有者に感謝することになる。つまり江戸時代の絵を買うことは、自分の次の所有者のために作品をきれいにしておく役割を演じることを厭わない。そこにはお互い顔も名前も知らないが、絵を通じたつながりがある。たいていの人はそういうことをどうでもいいと思うかもしれないが、古着や古靴、古い食器や電気製品とは違って、絵画は1点限りの美術品で、見栄えもきれいであるべきだ。話がかなり脱線した。『玉堂・木米』の解説を読むと、玉堂がいかに収入を得ていたかについて書かれていて、その推察が正しいかどうか、ともかく人の間をわたって行くことに関して玉堂は上手であったと言える。人間嫌いでは今で言うホームレスになるしかない。そのホームレスもそれなりの人間関係がなければ食事にありつけず、住む場所の縄張りからも弾かれる。中村真一郎の『木村蒹葭堂のサロン』にも蒹葭堂がいかにして膨大な文物を蒐集したかに対しての疑問が書かれる。造酒屋を経営はしていたが、その収入だけではとうてい無理なほどの日本でも最大級のコレクションだ。中村は蒹葭堂が入手した文物を好事家に転売して利益を得ていたのではないかと推察する。それはあり得る。蒹葭堂に珍しいものが集まり始めれば、そういう物は自ずと蒹葭堂のもとに寄って来る。コレクターはそのように加速度的に収集品の数が増える。
玉堂は蒹葭堂と親しく、何度も訪れる。一大サロンを形成していた蒹葭堂と懇意になれば知り合いは全国に広がる。ただし玉堂が各地の有名人を訪ね歩いたとして、逗留が許されるのは年単位ではあり得ないだろう。玉堂は朝酒が大好きで、絵は酔った勢いで描くことが多かったとされるが、その絵の代金で酒を飲んでいたというから、生活費をどのように得ていたのか。『玉堂・木米』は、玉堂は医術があったのでそれで食い扶持を稼いでいたのではないかとする。それはともかく、中村真一郎が蒹葭堂の生きていた時代の知識人のつながりを羨ましがったことは、玉堂の生き方に絞っても言える。武士を辞めて自由人になり、朝から酒を飲んで好きな時に琴を弾き、請われれば絵を描く。そういう暮らしを四半世紀続けて76歳の長命で死ぬというのは、定年を迎えてすることがない、あるいは金のためにさらに働かねばならない現代人からすればただの放蕩者に映るかもしれないが、そういう玉堂の作品が国宝に指定されているからには、誰しも自分の人生をどうすべきかと一度真剣に考えたほうがいいのではないか。ところが中村真一郎が江戸時代の知識人のネットワークを羨ましいと感じたのであれば、今の知識人にはそういう交際がもはやなくなっていることでもあり、玉堂的な生き方を選べば、本物のホームレスになるしかないだろう。大学がたくさん出来て大卒の知識人が急増したかに見えて、今の知識人は本当の知識人と言えるか。蒹葭堂や玉堂は漢詩が作れて絵もうまかった。以前書いたが、筆者は大学で数学を教えている人が若冲の名前を知らないことに驚いたことがある。そういう人は知識人であっても底が浅い。何度も書くように、江戸時代の知識人は漢詩や和歌を詠んだのに対し、戦後日本が欧米化して外国語で詩を作ることが常識になっているかと言えば全くそんな人はひとりもいない。それどころかバイロンやキーツの詩のひとつも覚えていない。そういう自称知識人が欧米の本物の知識人の間にあって対等に話が出来るかどうか。出来たように見えて、相手から内心侮られているはずで、程度を低くし、話を合わしてもらっているだけのことだ。話を戻す。玉堂は琴も絵も書も何事においても自分を専門家とは思わず、自己流でこなした。それもあってか、絵画の人気が出たのは没後のことで、交友のあった田能村竹田が評価したからだ。そこには文人のつながりの重みがある。玉堂のような生き方は現代でも出来るが、ほとんど人は同好の士とつながりをそれなりに持っても、そのグループ自体が無名であれば、その中で埋没してしまう。玉堂は生前からそれなり有名で、それで各地を旅してもすぐに打ち解けられる人々がいた。これは今の顔の知られる有名芸能人が各地に行って一般人からもてなされることと同じかと言えば、そうではない。そもそも交際する人種が違う。
蒹葭堂のサロンに出入りしていた人々はみなそれなりに当時はよく知られていた。そういう人のつながりがあったので脱藩しても玉堂はどうにか生きて行くことが出来た。そうした相互補助の人のつながりは今はSNSで形成され得るのだろうか。そうであったとしてもそこには文学や芸術を介しての濃密な関係は生まれにくい。ただ有名であるだけで何の芸もない者ばかりが大金を稼いで自惚れる醜悪な時代で、かくて玉堂の絵をしみじみ眺め入りたいと思う人は絵画ファンの中でもごく少数だ。さて、本展は『玉堂琴士』と題するからには、玉堂が奏でた曲や歌が披露されるのが理想だが、展示物の琴がどういう音が鳴るのかの紹介もなかった。漢詩を与えられると玉堂は即興でそれを歌い、琴を奏でたそうで、玉堂は今で言うシンガー・ソングライターであった。画業は琴に比べれば余技で、没後に絵画で有名になるとは想像しなかったのではないか。関雪がなぜ玉堂に関心を抱いたか。関雪と玉堂の作品は全く似ておらず、正反対だ。玉堂の絵は技術を誇示せず、そういう絵を目指しもしなかった。酒に酔って筆を執ったからには当然そうだ。技術重視、技術誇示の立場の関雪が玉堂に大きな関心を抱いたのは、絵画の奧深さというものを常々考えていたからだろう。それは技術はなくても絵画は成立し得るし、また実際国宝にもなり得る不思議だ。玉堂の絵は技術を見てほしいというものではなく、絵が訴えるものを味わってほしいとの思いによる。そしてそれは漂泊のわびしさが支配的で、凝視していると玉堂の内面にあった自然に対する眼差しと自然そのものが同時に心に浮かぶ。応挙のように対象をじっくり写生することをおそらく玉堂はしたことがない。南画の初歩は他人の絵や本から学んだが、その最初に取得した約束事を守りながら自由に描いた。それゆえ南画の山水画をあまり知らない人は玉堂の作は古い因習の範囲を出ていないように見え、味わいどころがわからないだろう。そういう人が圧倒的多数にますますなりつつある昨今、玉堂の価値を知ろうとしない人は昔以上に増えて行くかもしれない。となれば公立の美術館も南画ないし玉堂の作をほしがらず、有名な欧米の画家の絵を購入する。そういう時代にあって本展が開催された。白沙村荘始まって以来のことだ。関雪がどういう美術品を購入していたかの全貌はまだ紹介されておらず、昨日紹介した古代ギリシア陶器と玉堂関連の作以外に今後少しずつ整理されて企画展が開催されるといった説明が館内にあった。そして本展は関雪が集めた玉堂の絵画の最初のまとまった紹介で、それもあってか、見開きのチラシ内部には展示された19点すべての図版が載せられた。ただし、絵画はサムネイルと言うにふさわしく、どれも幅3センチほどの小さな図版だ。それでも何もないよりましで、図録代わりに役立つ。
さて美術館Ⅰは縦長の展示室で、その両脇のガラス張りの陳列壁に掛軸を中心に画冊を含めて15点並んだ。絵巻「山水図 甲巻」と「同 乙巻」は2階の広い展示室の台に剥き出しのまま広げられていた。わずかに破損個所もあったが、驚いたのは誰もいないので手で触れられることだ。少し陰になった奧の売店に若い女性がひとり座っていたものの、彼女は展示室にはほとんど無関心のようであった。訪れる人が少ないからでもある。ともかく、盗もうと思えば簡単にそれが出来そうで、あまりの無警戒ぶりに大いに心配になった。ということは玉堂の描いた様子を生でひとり占め出来たことであって、筆者が記憶する限り、それは美術館で初めての経験であった。出品作はどれも初公開で、当然前述の『玉堂・木米』にも紹介されてない。1924年から秘蔵されていた作品がおよそ百年後に展示されたのは、玉堂ファンにとっては大ニュースだが、どれほどの人が本展を見たのだろう。どこかの家の蔵にあってほとんど忘れ去られている作品が、その作者の代表作であることは大いにあり得る。個人コレクションは長年秘蔵され、人の目に触れない。したがって本格的な研究は何代にもわたって続けられ、大げさに言えば全貌はいつまで経っても見えない。それはさておき、本展を見た後に2階に行き、帰りがけにもう一度じっくり鑑賞したが、掛軸には心動かされず、画冊に描かれる山水がよいと思った。玉堂は大画面を持て余したのではないか。『玉堂・木米』の作品図版は現物とは大きさが違うので実感が湧かないが、画集に収まる寸法は画冊中の作と同じほどの大きさと言ってよく、玉堂の作品は縮小した画集の図版で見るほうが味わい深いかもしれない。本展に展示された掛軸は多くが70代のものだろう。寂寥感はあまりなく、どれも活力旺盛で力強さを感じさせた。濃墨が多用されるためかもしれない。それに画面内にうまく収まっている山水を意識せず、動きがあって紙幅からはみ出て行こうと気力が伝わる。その画面に収まり切らないものは旅を好んだせいもあるだろう。わるく言えば大雑把で、酒の勢いに任せ過ぎか。「嵐山訪春」と題した山水図は縦長画面であるので嵐山を極端に縦長にデフォルメするのは仕方がないとして、中ノ島や渡月橋は題名がなければ全くそうとは見えない。これは玉堂がたとえば法輪寺を訪れながら、特定の場所の眺めにこだわらず、日本各地を歩いて見入った山や樹木を独自の様式に置き換え、そして並べ換えたものであって、玉堂にすればどこの土地の山河もほとんど同じものに思えたのであろう。玉堂は特に米法を好んだようで、短い斜線を横や斜めに数多く連ねるハッチングに特徴がある。それをていねいかつ緻密に尽くすのであれば画冊程度の小品が疲れなくてよい。玉堂のように没後になって絵がよく知られるようになる画家はいつの時代もいるだろう。好きなように生きるべし。
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