「
樽の汁 足るを知るとも 垂れるあり 船底に水 入るも困り」、「アンフォラの 酒飲み尽くし バッカスは アンフェア煽り 馬鹿騒ぎ酔い」、「ぎりぎりに 義理を果たせよ キリギリス ギーの翅音 ギリシアは知らず」、「気がつけば 虫は鳴かずや 秋の暮れ 寒さ嫌でも それもまたよし」

先月21日に訪れた白沙村荘、今日を含めて後3回投稿する。一昨日載せた写真について少し説明しておく。美術館Ⅰの前やその2階のテラスからはまだ夏らしく、芙蓉や白い百日紅の花が見えた。筆者が着目したのは草花だ。特に美術館Ⅰの出入口脇のプランターに桔梗の花が咲いているのが目を引いた。写真からはその桔梗の青紫色は小さすぎて見えないかもしれない。また入ってすぐの突き当りにはオレンジ色の酸漿が数個置かれていて、客を迎える準備は万端であった。もっとも植物に関心のない人にはそれらは目に留まらない。ともかく、館内は撮影禁止であろうが、出入口から中を覗く写真は許されるだろう。そうして一昨日の写真を撮った。構図の中心に置いたのは奧の「橋本関雪記念館」と揮毫した縦長の額縁入りの書だ。達筆とは言い難く、署名は「藤井善三郎」とあった。なるほどと合点した。藤井は岡崎の有鄰館の創設者善助の孫だ。善助と関雪は同世代であり、交友があったのだろう。中国の美術品を個人的に見せてもらうために関雪は岡崎を何度も訪れたのではないか。筆者は昔から岡崎に行くたびに有鄰館について気になっているのに、非公開ないし不定期公開の私設美術館で、まだ展示品を見たことがない。それはさておき、美術館Ⅰに入って最初の展示物に驚愕した。古代ギリシア時代のアンフォラが行く手を塞ぐように1点中央に置かれていたからだ。関雪は中国趣味であるはずなのに、なぜギリシア時代の陶器があるのか。さらに驚いたのはその黒地の壺の胴体中央部にこちらを向く梟が一羽描かれていたことで、説明に「ベルリンの画家」とあった。まさか。関雪はその壺を業者から購入し、やがてその業者に売った欧州の業者から買い戻したいと言われた。学者によってその壺絵は「ベルリンの画家」の手になるという論文が発表され、日本に流出したことが許せないという声が研究家たちから上がったのだ。それでも戦後の50年代半ばにはもう何も言って来なくなったとのことで、おそらく日本で唯一の「ベルリンの画家」の作としてこの美術館に収まっている。帰宅後筆者は生誕百年記念の関雪展の図録を繙いた。そこに平成9年(1997)秋にこの美術館で開催された『ギリシャ陶器展』の見開の作品目録が挟まっていた。これをどこで入手したか記憶にないが、おそらく同じ図録に挟んであるチラシの『日展90年記念展』の会場となった心斎橋大丸のはずだ。同展は同じ時期に開催され、筆者は同展を見たからだ。なお同展のチラシの表紙に印刷される図版は「その4」で紹介した関雪の「香妃戎装」だ。

『ギリシャ陶器展』に載せられる橋本歸一の「御挨拶」から引く。「関雪のギリシャ陶器のコレクションは、二度目の渡欧である昭和二年に始まると考えられて居りますが、詳しいその事情等については何も判って居りません。ただ息子節哉の書き残した文章によると、「ウイ」とか「ノン」の二語を駆使して、パリ中の骨董店を歩きまわったと書かれていますが、帰国後も写真による売込みが在ったことは判っています。コレクション全体の中で、俗に「ふくろうの大壺」と呼ばれるアンフォーラのふくろうが極めて特異なものではないかと推察されます。日本のギリシャ陶器のコレクションとしては、関雪コレクションの他、天理参考館、ブリッジストン美術館等のコレクションが知られて居りますが、デュピロン式の幾何学から始まって、コリント式、黒絵式、赤絵式、植民地系と、各時代各種類に亘って、その点数の多さから言っても、関雪コレクションは他の追従を許さぬものと言えましょう。又関雪の帰国後、恩賜京都市博物館(現京都国立博物館)で展観も催され、また昭和六十三年に奈良の大和文華館で開催された特別展「古代ギリシャの壺絵」でも出品物の三分の一を占めるなど貴重なものと思われます」『ギリシャ陶器展』での展示数は16点で、うち4点のカラー図版が見開き上部に印刷され、残念ながら「ふくろうの大壺」はない。関雪がパリの骨董商を巡って「ふくろうの大壺」を見出したことはさすがと言うべきか、画家の眼差しをよく伝える。ただし筆者は同作を目の当たりにしながら、「ベルリンの画家」の冴えた技術はあまり見られないと思った。彼の様式すなわち黒地の胴体に描く対象を孤立させる点は「ベルリンの画家」と考えて差支えないが、現在この壺絵が本当に「ベルリンの画家」として同定されているかどうかは研究書を確認しなければならない。WIKIPEDIAによれば「ベルリンの画家」の作は300点ほど確認されていて、5年前に大部の図版本がイギリスのニュー・ヘイヴン社から出版された。早速同書を注文したので、届けば「ふくろうの大壺」が含まれているかどうかを報告する。話が前後するが、「ベルリンの画家」はドイツのベルリンにその代表作があるところから命名された。ギリシア時代の壺絵は無記名で、職人技とされた。壺はほとんど消耗品で、絵のないものが大半であったはずだが、たとえば「ベルリンの画家」が絵を描いた作はギリシア本土にはあまり残っておらず、エトルリアなどの地下墳墓から出土し、副葬品として外国に大いに売られた。19世紀のパリでギリシア時代の壺が売られていたことは、百年後の現在では考えられないことだが不思議ではない。先日書いたように、後期印象派の絵画でも1950年代までは安価であった。眼力と資産があれば、将来国宝に指定されるような名品でも入手は困難ではない。そのどちらも関雪にはあった。
今から2500年ほど前に活動した「ベルリンの画家」の作はギリシア時代の壺絵を代表する画家と言ってよい。当時のギリシア神殿の壁画は存在せず、そういた大作がどのような様式で描かれていたかはわからないが、壺絵から想像出来る。「ベルリンの画家」を特定したのはイギリスのジョン・ビーズリー卿で、彼はギリシア時代の壺絵の研究に生涯を捧げた。彼が模写した「ベルリンの画家」の壺絵集が1983年に出版された。古書で数万円の価格ゆえ筆者は手が出ないが、その本の表紙は今日の2枚目の図版の「竪琴を弾く男」の模写絵で、実によく出来ている。壺絵を自分で模写し、画法の研究を通じて、無銘の壺絵の作者を彼は分類して行った。そして最初に分類したのが「ベルリンの画家」だ。これは前述のように漆黒の空間にぽつんとひとりの人物のみが満月のように明るく浮かぶので、区別化は容易だ。ただしやはり問題とすべきはその絵が高度な美術であるかどうかだ。今日の最初の図版「ヘラクレス」もそうだが、「ベルリンの画家」の絵は古代ギリシアの美術がどういうものであったかを端的かつ正確に伝える。さて今日の2点の壺絵の図版を筆者は1974年10月10日に本を入手して知った。難波の天牛書店で当時刊行中であった新潮社版の『人類の美術』全巻を10万円ほどで買い、そのうちの1冊『ギリシア・アルカイック美術』にその「ベルリンの画家」の2点の図版が1ページ大で紹介されていたのだ。筆者は2点とも水彩絵具で大型のスケッチブックに二度模写し、二度目のものはタクシーに置き忘れて紛失したが、70年代の終わり頃まで「ベルリンの画家」は筆者最大の憧れであった。それで『ギリシア・アルカイク美術』の巻末にある「ベルリンの画家」に関する参考論文がオーストラリアにあることを知り、そこに手紙を送ったほどだ。ネット時代になり、洋書がいとも簡単に探せて買えることになった。もうしばらく待てば半世紀前に夢にまで見た「ベルリンの画家」の画集が届く。それはさておき、かつて筆者は大阪市内の設計会社を辞め、次の仕事を探している時、上六のとあるデザイン事務所に面接に行った。その時応対してくれた40歳くらいの社長は、筆者が室内の壁面に立てかけてある浮世絵の大きな模写を見ていることに気づき、「これくらいの絵は描けると思ってるんやろうけど、そう簡単ではないで」と言った。そして筆者が持参した「ベルリンの画家」の2点の模写を見ながら一言も感想を言わなかった。その後筆者は京都で友禅師に就いた。薄給にもかかわらず、写生を猛烈にし、休みのたびに京阪神の美術館を駆け回り、そしてその電車やバスの中では読書した。その生活を今も続けている。それにしても「ベルリンの画家」の作が白沙村荘にあったとは知らなかった。知らないことばかり増える一方の人生だ。
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