「
馳走には 及ばぬことと 出前呼び 不足気にせず 冷凍あるや」、「お茶漬けを 出されてさらに 話し込み 終電乗れず 寝床借りたし」、「面白さ 期待しなくて 出会いあり 重き腰上げ 出かけるがよし」、「石に草 建物に人 水に空 庭は見立ての ひとつの宇宙」

案内図には庭園の平面図が印刷され、明日はその画像を載せる。その平面図を見なければこうして説明しても要領を得にくいだろうが、ともかく撮って来た写真の説明を兼ねて今日も庭について書く。今日の最初の写真上は、芙蓉池に架かる橋を西にわたり、存古楼の南端に立って西向きだ。奧に見えるのは「夕佳(せっか)門」で、この門が庭園の東西を分ける位置にある。案内図で庭園のほぼ中央に位置するのが今日の写真の3枚目下の奧に少し見える持仏堂で、1年に8日間のみ開帳が行なわれる。平面図によればこの建物の東と存古楼の北西辺りがおそらく通路のようなものでつながっていることがわかる。関雪は毎日この御堂に入って拝んだのではないか。最初の写真下は存古楼の南辺に立って中を覗いた。開け放たれているので入館者は木製の階段から自由に入ってもよかったのかもしれないが、ヴァイオリン奏者が演奏中では邪魔する気分になった。その写真を撮った理由は漢詩を篆書で書いた柱聯で、これは対であるのが普通だが、写真からわかるように1枚しかない。関雪が詠み、また彫ったものと思うが、漢詩の下にある二行が読み取れる場所まで近づかなかった。詩は「一百八鐘聲幾場春〇夕陽外」で、写真が不鮮明で一文字がわからない。百八の鐘というからには大晦日で、その音が今は何回鳴っているのか、存古楼の外に照る夕陽はもう間もなく春をもたらすといった意味だろう。東山であるので寺の鐘はあちこちにあり、また戦前では車も少なく、鐘の音はよく聞こえたはずだ。大晦日でなくても、存古楼に入って絵の想を練る、あるいは創作に入る時にはいつも新春を迎えるような新鮮な気持ちであったのだろう。この漢詩は存古楼から真西の夕佳門の名前と呼応している。夕佳門の向こうに夕陽が沈み、夕焼けが映える。2枚目の写真は上下とも存古楼で、上は南東角から北向きで、昨日書いた「国東燈籠型石幢」が見える。下の写真は歩を少し西に進めて建物の南辺を捉えた。立て看板が見えるが、それを読まなかった。内部でのヴァイオリン演奏について書かれていたかもしれない。3枚目上の写真も存古楼で、建物の西側を写している。右下に別の立て看板があって、内容を確認すればよかったのに庭を見た後は展示物もあり、さらには別の展覧会を見に行く予定もあったので先を急ぐ気持ちが強かった。ガラス越しに見える人影がヴァイオリン奏者だ。存古楼の1階は三方から出入り出来るので、冬はとても冷えるのではないか。ただし雪が積もればその眺めはまた格別で、画題にする気にもなったであろう。

3枚目上の写真を撮った理由は2階の壁面に大きな木製の額がかけてあるからだ。これは明らかに関雪の書だ。何と書いてあるかは写真が小さくて読み取れない。関雪は能書家で、明治以降の日本画家では最も書の作品が多いと思う。筆者も関雪の大きな横長の額装の書を所有している。ところで、関雪より5歳若い村上華岳も書は有名だ。それは悪筆ぎりぎりの強烈な個性で、模倣はたやすいようだが、おそらく関雪の書より難しい。模倣する人の下衆な品性がたちまち露わになるからだ。そのことは華岳の絵画ではもっと明らかになる。ネット・オークションではある出品者が華岳の贋作をたびたび出品している。よく似せているようでいて、華岳の真作の真髄を把握すると、その贋作のあまりの愚劣ぶりは一瞬でわかる。華岳は関雪とは逆に京都から神戸に住んで死んだが、現在の評価では華岳が圧倒しているだろう。その理由は宗教性だ。関雪は技術的には超人で、作品に透明感がみなぎってはいるが、華岳の作品には顕著である存在や精神の謎めきのようなものは感じにくい。もっともこれは両者を比べた場合だ。また華岳は漢詩を作り、その書を彫るといったことに関心はなく、文学的なことは関雪ほどには興味がなかった。関雪は古い文人画家の伝統を受け継いだのに対し、華岳は意識だけ継ぎ、そのことが後の時代の好みに適合した。しかも華岳の画業は誰も発展させようのないもので、その一回限り性が人気の理由にもなっている。ただし前述したように華岳の作は華岳がわずかでも気を緩めれば下手(げて)になるようなもので、うまいのかへたなのか判断が微妙な作もある。それゆえ関雪は華岳を全く評価しなかったと思う。それほどに明治生まれの画家は多彩で、超絶技巧を誇る一方、それにこだわらない個性派も生んだ。そして大正時代になると前者は廃れ始め、後者が春を謳歌することになる。そこから「へたうま」が持て囃される昭和に至るが、その最初に村上華岳がいる。ただし、やはり華岳は「うまい」のであって、「へた」では全くない。へたのように見えて実際は抜群にうまいというのが最も難しい道だろう。技術を磨いて誰からもうまいと思われることは、器用な人であればある程度は誰でもそういう力量を得られる。言い換えればそれは職人的技術で、知性は必要ない。関雪の作は職人芸と言ってよいが、職人では真似の出来ない知性があった。贋作者は技術巧みになれても知性はどうにもならず、それで馬脚を現わす。ところがいつの世でも芸術に対して眼力があって、しかも知性の優れた人はきわめて少ない。それで俗物が人気者になり、贋作が流通する。話がかなり脱線した。仮に現在の関雪の評価が華岳よりも低いとして、今後もそうであるとは限らない。中国との関係が現在よりはるかによくなれば、つまり中国ブームが起こってそれが百年以上続けば、「関雪に戻れ」という動きが出て来る可能性はある。

関雪はよほどの庭好きであったが、それは広い庭が絵画制作に必要であったからとして、直接の画題を得るためではなく、思索するための空間として意味をなしたのであろう。京都には有名寺院の庭園はたくさんあり、その写生に困ることはない。それゆえ関雪にとって作画と作庭が同じほど重要であったと考えるべきで、また庭の手入れやその中の散策は肉体を動かすためにもよかった。作庭の趣味を持つ人はさほど珍しくはない。家内の妹の夫の兄は寿司店の主で、大いに店が賑わったこともあって、儲けた金で大きな庭石を次々と購入した。還暦になって死んだので庭は理想的なものにはならなかったと思うが、小市民の住宅では大きな石を買い集めても高槻市内では限度がある。それで作庭趣味というより、庭石好きであったのだが、関雪は庭石だけではなく、それを点景として石造美術品、それに建物、池、さまざまな草木と、思いを入れる対象が数多かった。それでは絵をひたすら描くというよりも、庭の気になる箇所をどうすべきかに思いが向き、画家兼書家に加えて作庭家の呼称も必要であった。改めて関雪の絵画については書くつもりでいるが、関雪の代表作は華岳のそれほどに強烈ではない。手抜きと言うのではない。どことなく存在感が希薄で、たとえはよくないが、心ここにあらずといったような雰囲気もある。それが庭作りに心が奪われていたためと言えばあまりに簡単に物事を見ていることになるが、よく言えば作庭や庭の散策など、庭という自然であり人工物に関雪の絵画が大きく関連していると考えることは関雪の作を理解する手がかりになるだろう。華岳も同様に自然と人間が作るものに魅せられてはいたが、目に見えるものの奧にあって、心に映ずるものを探り続けた。そのため、眼前の対象を克明に写生することから離れ、人が作った庭には関心はなく、自然を見てもその表面の様相を写そうとはしなかった。華岳の宗教性は主に仏教だが、そのルーツとなるとインドであり、また華岳は同地に行って釈迦の足跡を見たいとも思わなかった。それで自宅に庭は必要なく、主に市場で買って来た花や野菜などで画題は間に合い、菩薩像はモデルなしにほとんど定型化したものを繰り返し描いた。華岳が白沙村荘を訪れたとしても、さほど感心しなかったのではないか。関雪には華岳に濃厚な仏教趣味はない。インドよりも中国に魅せられたからで、やまと絵にも関心は強かった。そして宗教の神秘性といったものはない。持仏堂を建てるほどであったので信仰心はあったはずだが、宗教画はほとんど描かなかったのではないだろうか。4枚目の写真は上下とも持仏堂の西で、庭園の西端だ。上の写真は相変わらず岩に石燈籠、下は何となくさびしい眺めで、竹藪が背後の眺めを遮っているが、これが個人の庭の一画には思えない眺めを呈している。

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