「
蒐集を 長年続け 修習す 収拾つかず いずれ散逸」、「気がかりが 奇遇が元で ひとつ減り 元気なうちに すぐ動くべし」、「度数見て 飲む量決める 夜の酒 気温体温 関係なしに」、「作庭に 人生捧げ 果報者 意図はすべて 後に伝わり」
昨日投稿した板谷波山展の感想は人柄の点で書き足りないことがあるが、図録を買っておらず、確認出来ないことがある。その気がかりは仕方ないとして、もうひとつ思い出したので書いておく。波山の作品は本館の青銅器室にも1点展示されていた。その理由は波山の「葆光彩磁双魚文皿」が同館所属の後漢時代の「双魚洗」を参考にしたようであるからだ。波山はその「双魚洗」を実際に、あるいは写真図版のどちらで見たのかは忘れたが、確か簡単な模写を波山は行なっていて、大正時代の東京で住友所蔵の青銅器を見る機会があったのだろう。それはともかく、昨日の最後に中国人が波山の作品をどう評価するかと書いたのは、波山の作品の完璧性は中国陶磁に通ずるからだ。それに先の「双魚文」を含む吉祥文様は中国に原点がある。それで波山の作品は初期のアール・ヌーヴォー風とその後の中国陶磁風の双方の要素を持っていて、最先端でしかも学べるものはすべて吸収して国際的であろうとした。それは波山に限らず、名が伝わる明治生まれの作家には共通していた。ここから本題。泉屋博古館に他館の展覧会のチラシが20種類ほど置いてあった。筆者は所有しておらず、しかも興味のある展覧会のものは1部ずつもらって帰るのが癖になっていて、同館でしかおそらく置いていない見開き両面カラー刷りの豪華なものが目を引いた。浦上玉堂展だ。しかも橋本関雪が住んでいた白沙村荘で開催中ではないか。玉堂展は筆者の知る、限り関西で開催されたことはない。この画家は昔から気になっているが、何しろ実物を見る機会がほとんどない。それで筆者は世間での高い評価を保留したままにしている。日本の美術に関心がある人はたいてい玉堂を激賞する。その様子は筆者にはグレン・グールド・ファンに似たところがあるように思える。筆者はグールドのCDを何枚か持っているが、あまり好きになれない。前にも書いたことがあるが、楽譜をどう解釈して演奏しようが演奏家の勝手としても、その気持ちが大きいのであれば作曲家になればいいではないか。話を戻す。チラシを見た途端、筆者は予定を変えて白沙村荘に行くことにした。うまい具合に市バスでは泉屋博古館前から10分ほど北に走ったとこにある。めったにその路線の市バスには乗らないので、車窓の風景は珍しい。そう言えばこれは7,8年前、その銀閣寺から少々南の浄土寺のバス停辺りを家内と歩き、その姿をすぐ近所の人に見られ、後日そのことを告げられた。京都市内は狭い。これも前に書いたが、筆者は知り会いによく市中で見かけられ、そのことを後で告げられる。
白沙村荘は若い頃から知っていた。息子が2、3歳のことであるので、もう35年以上前になるが、DJの若宮テイ子さんが何度かわが家に遊びに来た。その時の雑談で彼女が白沙村荘を訪れたことを聞いた。感想を聞かなかったが、筆者は立派な庭園や大きな画室の建物があることは知っていた。彼女は当時KBS京都ラジオで歌番組を担当していて、御所近くのパレスサイド・ホテルに常宿にしていた。放送関係か何かで白沙村荘に行く必要があったのかもしれない。そう言えば京都で有名なラーメン店「天下一品」の社長から先斗町の料亭に食事に誘われていると言い、わが家から直行したこともあった。当時同ラーメン店がラジオ番組のスポンサーになっていて、人気の若い女性DJと一度話したいと社長は思ったのだろう。それはともかく、白沙村荘には筆者はいつでも行けるのに、その気がなかった。ところが先月21日、ついにその機会が突如やって来た。前述の浦上玉堂展のチラシを手にしたからだ。それで今日からしばらくは白沙村荘を訪れた感想を写真とともに書く。筆者は橋本関雪の生誕百年展を見ている。1984年5月、京都高島屋で開催された。手元にその図録がある。それには没後50年展として1995年に京都大丸で開催された際のチラシも挟んであるが、関西では以上の二展以外に大規模展は開催されていないだろう。もっとも生誕や没後の区切りのいい年に開催されるのが普通であるのだ。ところが堂本印象美術館は府立になって企画展が年に4、5回は開催されるのに、白沙村荘の関雪記念館は、企画展のチラシが撒かれても、どうも地味だ。今回もそうで、筆者は泉屋博古館を訪れなければ相変わらず白沙村荘に縁がなかった。入場料は大人1300円で、これは訪れて初めての感想だが、倍の値段でもいい。それほどに意外で見どころが多い。もっとTVで紹介されるなどすれば、コロナ後の海外からの観光客も訪れるようになるのではないか。あるいはコロナ以前はそうであったかもしれない。哲学の道や銀閣寺を訪れるついでにぜひこの施設を巡るべきで、来場者が増えると関雪の認知度も深まり、作品展を期待する声も増えるのではないか。ただしそのように思う一方、この施設が美術を本当に愛する人たちだけのものにしておきたい。管理の目が行き届かないところで悪戯される心配があるからだ。人が大勢訪れると施設は荒れやすい。コロナ直前の京都はインバウンドで市バスに乗るにも超満員で2,3本は乗せてもらえない状況であった。それでコロナになって京都が静かになり、ほっとしている市民は多い。それと同じで、経営が問題ないのであれば施設は満員でないほうがよい。だが、堂本印象美術館が私設から府立に変わったことを思うと、白沙村荘は限られた入場者でどのようにして庭や建物の維持管理費が捻出出来るのだろう。
さて、今日から3回に分けて白沙村荘の庭園の写真を載せるが、前述の図録にはたぶん同展開催時に入手した四つ折りで白黒印刷のリーフレットも挟んである。「登録博物館 橋本関雪記念館」と題し、 その脇に小さな活字で「名勝 白沙村荘庭園」が併記される。入館料は一般が700円だ。現在の1300円は、生誕100年展が500円であったことからすれば安い。それはともかく、入館料700円当時の橋本関雪記念財団理事長の橋本歸一の「御挨拶」から引く。「今度、国の博物館法に基づく、博物館として登録が認められましたことは、先年の館内白沙村荘庭園が、京都市の文化財保護条例に基づき、名勝として指定されたことに続き、我々の活動を大きく前進させるものであると考えられます。橋本関雪記念館の意味は、単に関雪の遺業をしのぶばかりではなく、現在、すでにほぼ失われてしまっている、かつての京都画壇の面影を、どうにかでき得る限り保存していこうとするところにあります」。今回入場時にもらえた施設案内書には「この邸宅はいわば、3次元の山水画として構成されている画家がその美意識で作り上げた稀有な作庭である事から2008年に国の名勝に指定された」とある。維持管理費は国や京都市から幾分は賄えるのだろう。関雪は昭和20年(1945)61歳で白沙村荘で亡くなり、その後横山大観、鏑木清方、梅原龍三郎、菊池契月、福田平八郎、井上靖らが発起人となって、橋本家を中心に保存事業が進められて来たとも書かれ、やはり保存に大変な費用がかかることがわかる。「かつての京都画壇の面影」の建物は、加藤一雄の『京都画壇の周辺』には割合豊富に描かれ、筆者は現在の地図と照らしながら、その文章からかつての様子を想像するが、堂本印象や関雪は例外中の例外で、それほどに京都の画家の家は残っていない。また申し訳程度の顕彰として、応挙や幸野楳嶺などの有名画家は建て変わった家の前に小さな石碑があるが、それはまだいいほうで、生前のまま保存されているところはなきに等しい。冨田渓仙の家は残っているが、それも桂川に面した部分はなくなり、北半分のみだ。そして現在の画家は作庭の趣味はないであろうし、あっても京都市内ではもはや白沙村荘規模はとうてい無理で、国の名勝に指定されるのは当然だ。白沙村荘を造成するのに関雪がどれほどの費用を投じたのか知らないが、明治生まれでしかも帝室技芸員になった画家は、堂本印象にしてもそうだが、途轍もない財力を得たようだ。没後はその遺した不動産は今は誰でも鑑賞出来る施設になった。銃で殺された元首相は都内に大豪邸があるそうだが、そこは当然関係者以外は立ち入ることは許されない。現首相は息子に跡を継がせたいようで、戦後の政治家はちまちまして私利私欲のみか。写真の説明は明日にする。
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