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●『生誕一五〇年記念 板谷波山の陶芸』
らく すべて辛くは あるべしと 術は図らず 辛子滑らせ」、「厳密に 幻滅したと 現に言い さらばばさらや スラバヤジョニー」、「こんなもん ただの粉もん 安もんじゃ もんじゃお好み たこ明石焼き」、「板打ちて 谷と山あり 波あるは 生の痛みと 喜びの様」●『生誕一五〇年記念 板谷波山の陶芸』_d0053294_00110981.jpg 今日から1週間ほどは先月15日に家内と一緒に京都市内で見た展覧会について投稿する。その最初は泉屋博古館での板谷波山展だ。波山は明治5年(1872)に茨城に生まれ、陶芸家として初の文化勲章を受章した。先日の投稿『綺羅めく京の明治美術』展で触れた帝室技芸員にも選ばれ、関東を代表する陶芸家だ。そのためか京都ではあまり人気がないようで、作品を見る機会がとても少なく、これまで大規模な個人展は開催されたことがないと思う。筆者は古本で入手した図録を所有していると思って先ほど隣家も調べたが、見当たらない。波山が京都生まれであれば『綺羅めく京の明治美術』で紹介されたかと言えば、同展は明治の美術を扱い、波山の本格的な活躍からしてぎりぎり明治に含められるが、同展で紹介された4人の陶芸家より一、二世代年下であるのでやや場違いなところがある。それに波山の作は明らかに新感覚の香りが強く、そのことは新世代であることと京都に一時期でも出て学ばなかったからと言ってよい。帝室技芸員の陶芸家は先の京都で活躍した4人に波山を含めた5人で、さすが京都の陶芸界の歴史の長さと広がりがわかる。だが、それら4人はみな代々京都で陶芸に携わっていたかどうかは知らない。戦後もそうだが、日本中から才能のある者が京都に集まって文化を担って来ているからだ。その意味で、波山も伝手があれば京都で学び、京焼で名を成したかもしれない。筆者は波山の作品は京都岡崎に住んだ楠部彌弌の作風を思わせる。品のよい文様をパステル・カラーを使用して薄浮彫りで白地に表現するからだが、25歳年下の楠部の作はもっと自由で軽やかな空気が流れている。それを言えば波山は前述の京焼の4人よりも最大30歳、最小で19歳年下で、同じように明治の厳めしさは支配的だが、色彩はうんと柔らかい。やはり作品は10年単位で明白に時代性を刻印するもので、波山の作は朱色や黄緑のような黄色系をほとんど目立たせず、赤にしても青みがかった色合いを好んだので、現在の若者にも古さを感じさせない。蛇足ながら、筆者が友禅を学び始めた頃、キモノの赤と言えば朱色で、ローズ色はほぼ全く使われなかった。そういう染料がなかったからではない。あってもわざと黄色を混ぜて橙の色味に近づけた。そして筆者は最初の自作から朱色を使わず、赤はローズ系を用いたが、そうしたキモノは京都ではゲテモノとみなされた。ところが20年ほど前から風向きが変わり、今では朱色を目立たせる振袖は激減している。波山は明治生まれであるのに赤はローズ系を好んだ。
 『綺羅めく京の明治美術』での陶芸家4名は欧米に作品がたくさん所属され、名声は国際的に轟いたが、波山の作はそうではなかったろう。その意味で帝室技芸員の終末に位置した工芸家であったと言える。だが、先の4名よりも日本では名声は大きくなり、したがって本展のような企画がたびたび催される。『綺羅めく京の明治美術』はそれゆえ4名の陶芸家を再評価するための企画であった。4名のうち初代の宮川香山は池大雅も住んだ東山の真葛が原で制作し、作品は「マクズ」と呼ばれて国際的に評価が高いとされるが、彼の作は器に本物と見紛う蟹や鳩、猫の立体をくっつけたもので、「用の美」から隔絶して装飾をきわめている。当然鑑賞者によって好き嫌いはあるが、度肝を抜くような前衛さは顕著で、また1点作るのにどれほど多大な時間を費やしているのかと思わせる凝りぶりで、そのことは陶芸に詳しくない者でもよくわかる。それゆえ外国で人気があったのだろうが、仁清、乾山などの京焼の伝統のうえに斬新な造形となると、そうした写実的立体性を器に持ち込む考えに至ったことは理解出来る。それは西洋の彫刻からの感化であろう。香山のその作風はその後誰も受け継いでいないと思うが、香山のそうした過激で前衛的な、また男性的な作風からすれば、30歳若い波山の作品はかなりおとなしく、上品に徹し、女性的だ。当然波山は香山の作品をよく知っていたはずで、また京都には先の4名も巨匠がいるとなれば、頭角を現わすには京都に出ないほうがいいと考えたかもしれない。しかし京焼の伝統があったので、波山の独特な作品も生まれたと見るべきだろう。それはまた陶芸に留まるだけの話ではない。だいたい先の4名の3人は初代であり、絵付けの基礎になる四条円山派の絵の技法をひととおり学んだはずだ。それは写生を基礎とすることであり、画家や彫刻家になれるほどの才能を持っていたであろう。そうでなければ無名の職人になっていたはずで、陶芸の巨匠として有名になるからには絵画や彫刻の才能もある程度持ち合わせていなければならない。簡単に言えば、基礎は絵が上手であるかどうかだ。香山の作はそのことを如実に語る。彼は陶芸では息苦しかったのではないか。だが彫刻の才能では当時は食べて行くことは無理であったろう。波山も最初から陶芸の道に進もうとは考えなかった。天心の東京藝大の彫刻科に学び、その才能は光雲の目に留まったほどとされる。本展では若い頃の絵画も展示され、日本画家や彫刻家として立つことを目指してもよかったと思える。卒業後は金沢の工業高校の彫刻科の教師として赴任し、翌年その科が廃止されてから陶芸科で教えることになった。それが転機となった。今でも美大を出れば収入のために教師になることは普通で、そこからいかに作家として独立出来るかとなれば、ほんの一握りにしか許されず、本格的に制作となれば片手間では無理だ。
 それはさておき、本展は会場が狭いこともあって波山の全貌展は無理で、あまり期待していなかったが、会期中に展示替えがあり、波山の全貌を知るには充分な展示数だ。波山の新発見作を探している人はいて、TVの骨董番組でもたまに波山の作が出品されるが、近年新発見の作品もいくか展示されていた。個人蔵が3割ほど占め、他の多くは波山の出身地である下館、築西市の美術館、板谷波山記念館、茨城県陶芸美術館から借りられたものだ。そして東京と京都の泉屋博古館の蔵品は8点で、同館が本展を開催するひとつの意図はそれらの蔵品の紹介がある。個人蔵も大半は茨城や関東の人と思うが、そうであれば京都の陶芸家は茨城ではたぶん人気があまりないのではないか。明治生まれで戦前に活躍したのであれば、郷土の作家として地元にファンが多いのはあたりまえだろう。そうであれば転々と各地で暮らして制作すればより多くの人気が得られそうだ。また3,40年前からか、陶芸の粘土は小口でも日本中から宅配便で取り寄せられると聞いたので、窯をどこに持っても同じと考える作家もある。それは薪ではなく電気やガス窯を使うからでもあるが、郷土に根差した特質が作品に表われにくくなって来ていることでもあって、より日本全国的にはなっても根なし草のような作家や作品が増えて来ていると言える。気が向けば気軽に外国で暮らす人がもっと増えれば、日本のある地域の特質を持っている作品にこだわりはなくなるだろう。わが家の近くに筆者と同世代の熊本出身の夫婦がいて、20年ほど前に彼らがディズニーのシルクスクリーン版画を購入したことを聞いた。それなりに高額で、入手をとても喜んでいたが、そういう作品に全く関心のない筆者は見たいと思わなかった。つまり美術や版画の話になっても話題に共通性がない。だが彼らのように部屋を飾るために絵画を買う人はたぶん千人にひとりほどの割合で、しかもその人はたとえば筆者が中山高陽の作品を探していると聞くときょとんとする可能性が大きい。ところで、筆者は茨城県や同県人についてほとんど知らないので、板谷波山の人柄や作品が茨城に根差したものであるかどうかはわからない。京都であれば仁清のような京都らしい陶芸作品が今もそれなりに作られ、一方ではそれに対抗して前衛陶磁も生まれやすい。ところが茨城には仁清や乾山のような江戸時代に遡る陶芸作家はおらず、波山の登場は突然変異のようなところがある。そのことから思うのは、全国的かつ根なし草という先の言葉だ。波山の作品は日本的で、またたとえば中国の陶磁に比べると、根なし草のような存在を筆者は思う。これは悪口とは限らない。『綺羅めく京の明治美術』で取り上げられた4名の陶芸家は京都の伝統のうえに西洋を意識し、また中国陶器のよさもよく知っていて、それらいわば世界中の美術を参考に国、京都を背負って立つ意識が強かった。
 そのことが結果的に国際性、斬新性を獲得することに至っても、どの国の美の様式が支配的であるかわからないといった根なし草的なものになりかねない。繰り返すと、そのことが悪いとかいいとかは断言出来ない。時代に応じての表現しか出て来ないのであって、百年少々前の日本を代表する神業はそのように外国の刺激を大いに受けたものにならざるを得なかった。またそのことは明治だけに限らず、日本は大昔から周辺国の新しい文化を導入し続けて来た。そのときどきで模倣に終わらない日本的なものが生まれたのであって、今では初代の宮川香山の作も日本でしかあり得ない作品と認識されているだろう。そのことは波山も同じだ。では海外の要素を摂取するとして、ネット時代の現在、それはほとんど即時に自由自在で、その手軽さのあまり、多国籍風こそが日本の個性と思われることになっている、あるいは今後なるのは確実だ。それでも新たな美術史は書かれ続けるだろう。ただしそれは末永く遺して行くべき作品をどう見定めるかにかかっていて、超絶技巧が評価されることはおそらく永遠に変わらないのではないか。そういう時に常に眼前に立ちはだかるのが、宮川香山や板谷波山の作品であるのは間違いがない。とはいえ、あらゆる造形、釉薬が開発され尽くし、どういう技術の粋を駆使した陶芸が可能かとなれば、形の向こうに見える作家の精神があたりまえのことながら問われ、やり尽くされたかに見える陶芸の世界もまた新たな視野が開け続けて行く。同じ人間はおらず、真理に到達方法は個人によって違いがあるからだ。そして日本の作品に必然的に入り込む和洋折衷のハイブリッド性が根なし草に見えると考えるのであれば、陶芸であれば仁清や乾山の模倣から始めて新たな何かを見出せばよいし、そういうことを目指している作家は今も大勢いるだろう。さて、波山の作品はどれも「ハイカラ」で、民藝の田舎じみたところは絶無だ。また左右対称でしかも厳密かつ緻密な絵付けやその色合いに国粋主義、権威主義がちらつくかと言えば、優しい人柄もあってそれを免れている点に彼の作品の持ち味の理由がある。波山の「ハイカラ」は初期の陶磁のアール・ヌーヴォーの影響が濃いことからすでに言える。青と赤を中心とした淡いパステル・カラーの色合いを好み、やがて大正に年号が変わる頃には器の表面全体に紗がかかったような「葆光彩磁」を編み出し、文様も中国で吉祥とされた果実や獣をもっぱらとする。それらは一見して波山の作とわかり、どれも完璧という言葉の代名詞になるほどで、一か所も手の狂いを見せない。それは当然と言えばそうなのだが、一万本の線を引くとして、二、三流の作家はそのうち一、二本は失敗する。プロであればどうにか修正して見せようとするが、技法的にそれが不可能な場合もある。
 友禅の人間国宝であった森口華弘は、商品として収める量産作品は弟子に糸目を引かせていたのか、たまに正視出来ない拙い線があった。華弘本人は許すべきではなかったはずだが、監督が行き届かなかったのだろう。バブル時代はそういうキモノでも一千万円以上したと聞く。そこに景気に翻弄された作家の悲しさも見え透く。それはどの時代のどのような作家も似たようなもので、作品を金に換えることなしに作家活動を続けることは出来ない。したがって作家は素人が絶対に真似の出来ない技術を駆使しようとする。それは波山の作のようにミスがどこにもないことにも立ち現われる。ところが焼き物は窯の中で運を天に任せねばならない。そのことからしても波山の作はほとんど奇蹟と言ってよい。それは銘の重さを自覚したからだ。波山は妻帯し、子どもがたくさん生まれた。妻も陶芸家で、絵付けを専門とした。波山が30代前半のことと思うが、釉薬をかけ終わった作品を全部窯に入れ、焼き上がりを待っていると、地震があった。それで窯の中の作品は触れ合って思惑どおりに仕上がらないことになった。妻は接触箇所を削って上絵すれば商品になると主張したが、波山はすべて壊した。収入を考えて妻は必死であったが、波山は自分の意に沿わない作を世に出すことを拒んだ。そこに名前を示す作家ぶりがある。妥協を許さないその態度は終生保たれ、重文指定される作品を後に生む。先のエピソードは作家の頑固さが家族を不幸にする一例として、おそらく当時も今も非難する人が少なくないだろう。夫婦で意見が分かれる場合はあって、妻が夫の仕事を理解しなければさっさと離婚もする。夫への尊敬はなく、夫の幸福は自分の幸福とは思えないからだ。波山の妻は結局波山に似合っていた。波山にとって理想に沿わない作は失敗であり、それをごまかして世間に売ることは恥であった。その武士のような精神は明治一桁生まれならばなおさらであろう。波山のようなごくわずかな瑕疵でも目立つ焼き物であれば、半分は運任せで、望みの作は得られる確率はきわめて少なかった。30代半ば以降、次々と公募展で受賞し、名声が高まって行き、それによって力作はしかるべき価格で売れるようになったのだろう。波山はほとんど亡くなるまで器の成型師を雇っていた。器の成型を他人に任せてもその形は波山が指示したのであろう。白く出来上がった器の表面に彫刻刀で浅浮彫の文様を全体に施し、さらに文様ごとに釉薬を色違いでかけて焼成した。会場では文化勲章を受章した時の白黒フィルム映像が流されていた。成型師とともに高級車に乗って受賞会場に向かう姿があった。もちろん勲章はひとつしか与えられないが、その晴れの舞台に陰の功労者を同伴するところに波山の正直さと温かい思いやりの心がある。波山はなかなかの男前で、作品と同様によく目立つ。中国の現代の陶芸家が波山の作をどう思うかを知りたい。
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by uuuzen | 2022-10-05 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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