「
徴兵に 腸閉塞に 即なりて 成り手あらぬと あらぬこと言い」、「あらぬこと あるのがこの世 騒がしき あってほしきや 星のきらめき」、「きらめきを ラメで示すを 諦めて 地味な服着る 滋味な福来る」、「フクロウの 喫茶店消え 苦労する 次の癒しを 卑しく探し」

先月15日は京都市内の3つの美術館を訪れた。今日はそのふたつ目の京都市京セラ美術館での企画展について書く。明治の京都の美術は江戸時代に比べて人気は劣る。その理由のひとつはあまり紹介されないからだ。その理由はそもそも地味で人気がないということもなろうが、展示の機会が多ければ馴染みやすい。20年ほど前に清水に「清水三年坂美術館」が開館し、筆者はまだ訪れていない。それはあまり関心のない分野の明治の工芸品を展示するからだが、同館は本展開催の機運を作ったと言ってよい。10数年前、同館は若冲の水墨の人物画の双幅を競売で落札し、意外な気がした。明治に特化する収集であれば若冲まで食指を伸ばすのはどうかと思うからだ。だが京都の美術館となれば若冲画を所有していると宣伝になる。常設はしないとしても若冲画が見られる機会があれば清水に観光で訪れた美術ファンは立ち寄る気にもなる。それはともかく、明治政府が求めた工芸は殖産を目的に欧米人が喜ぶものであった。日本趣味が表現され、しかも曲芸的で空前の技術を誇示した作品を奨励したのだが、それらは外国に買われて日本ではほとんど残らなかった種類のものがあった。残っているとすれば多くは売れ残りで、外国に人気がなかったということになる。制作から百年ほど経つと海外の購入者の子孫らはあまり関心がないこともあって、美術館に収まったもの以外は日本から買い戻しやすくなった。それで清水三年坂美術館のような美術館が登場して来た。同館に触発されて個人で明治の特定の作家の作を海外から買う人は少なくないだろう。経済力をつけた中国が明治期に海外に流出した美術品を買い戻す動きが10数年前から急激に増化し、ついでに日本の鉄瓶や茶道具なども買われる事態となったが、日本の古美術商は中国の美術品販売で大儲けしたと聞く。その余波は続いていると思うが、日本が明治期に海外に売られた作品を買い戻すことも同じと考えてよく、また比較的買い戻しやすい価格なのだろう。これがさらに大ブームとなると売り手も値を吊り上げるはずで、清水三年坂美術館は目のつけどころとその時期がよかった。今なら同じ価格では買えないのではないか。それでもまだかなりの数が海外に眠っているはずで、明治の工芸品は今後さらに公的な美術館が紹介することになると思う。美術通の間では昔から明治の美術や美術工芸品の最上級の作家や作品は知っていたが、本展のように京都に因む作家19名の作品を紹介することは初めてだ。その多くは本などで知っていたが、後述するように今回筆者は意外な作品に出会えた。
現在の中国の金持ちが日本から買い戻す美術品や工芸品は清朝末期に流出したものだ。住友の泉屋博古館が所蔵する青銅器も明治に日本に入って来た。となれば発掘品も含めて中国美術の全時代の作品が日本に買われたのかとなれば、世界中に買われたのであって、絵画にしても世界のどの美術館にあるかの調査はまだ完全には終わっていないだろう。海外流出した中国絵画を網羅する作品集は発刊されてはいるが、所有者が知らずに保管している個人蔵まではわからない。同じことは工芸品にも言える。日本の古美術も事情は同じだ。いつどこから眠っていた国宝級の名品が出て来るかわからず、業者は血眼で探すが、自宅の蔵を業者には開けない人はいくらでもいる。また日本では戦争で失われた作品も多く、幸運にも写真が撮られていればそれでわずかに雰囲気はわかる作品も多々ある。それはさておき、先に明治の美術や工芸は地味と書いた。それは技術を誇示する必要上、隙間なく描き込むという思いが強く出ているからだ。商品とするからには高値で売るほうがよく、高値を目指すのであれば誰の目にも技が空前の規模で駆使されているほうがよい。そのため、作品は圧巻の言葉がふさわしいものになるが、それは息苦しくもある。日本美術は元来余白を多く取ったものであるのに、その伝統は外国人に売りつけることが目的となると、余白は手抜きと思われる。それで表面全体を埋め尽くす傾向が強かった。それは日本美術であっても、特に明治美術と呼ばれる特質になっている。中国の青銅器の饕餮文も同様に表面を微細な文様で埋め尽くしているので、それに似た味わいと言ってもいいが、呪術的な意味合いのあった饕餮文と明治時代の工芸品の緻密な文様は全然違う。明治にあるとすれば江戸時代からつながっている吉祥文で、一方で明治は西洋のジャポニズム・ブームからの影響で当時の日本人が日本らしさと思っていたものと海外の購入者の趣味が合致したところで文様が決められ、その和洋折衷主義に江戸時代の美術や工芸を見慣れた目には新鮮であるかたわら、無意味に手を尽くした国籍不明の作品に見えてしまう。そのことが地味であると筆者には思えるのだが、江戸時代にはなかった新しい工芸を生もうとし、それは実際成功しているが、どことなく息苦しい閉塞感のようなものを感じる。清時代の工芸品は人間技としては空前の境地に至ったものと言われ、また見慣れるとどれも独特の味わいがあって楽しい。明治の工芸は技術の頂点を示すことをどの作家も強く意識し、今ではおそらく再現不可能な作品が作られたことは清と同じだが、清の工芸のような明るさは少ないように思う。代わりに厳めしさが支配的でどことなく近寄り難い。それは明治政府が富国強兵を掲げたからでもあろう。欧米に負けじと背伸びしているところが美術品にも表現されたと言ってよい。
国家は戦争するが、美術作家は自分の仕事に邁進するのみで、前人未踏の表現を目指す。しかし画家も工芸家も時流と全く隔絶した状態で生活し、作品づくりをすることは出来ない。江戸時代と同じ文様を使いながら、明治政府が求めている気風を反映させる、あるいは無意識に反映するのは当然で、完璧な造形をものにしても、そこにどことなく空疎な空気が入り込む。それは作家個人がすべて好き勝手に造形してはいても、どこかで国を背負っている、背負わねばならないという義務感を抱いていたからだ。それゆえきわめて個性的でありながらどこか没個性的でもあって、それゆえ筆者はごく簡単に地味という言葉を使った。これはもはや江戸時代の作を模倣することは出来ず、かと言って欧米の思想をほとんど咀嚼しておらず、作品が根なし草のようなところが必然的に混じったからだ。その根を富国強兵思想に求めると、作品は自ずと饕餮文とは全く違った意味で厳めしくなり、鑑賞者は驚きはするが素直に楽しめない。さて以上は明治の工芸に対する筆者の大ざっぱな感想で、同じ作品を見るなら江戸時代のもののほうがよい。その先入観で本展を見るとやはりこれまでの考えを改める必要を感じた作家や作品はない。ただし意外な発見はあった。本展で画家は森寛斎、幸野楳嶺、川端玉章、岸竹堂、望月玉泉、今尾景年、熊谷直彦、野口小蘋、竹内栖鳳、富岡鉄斎、山本春挙の11名が取り上げられた。川端玉章は東京に移住したので京都で大作が展示される機会はほとんどない。忘れ去られた画家と言ってもいいが、それは市場に小品はたくさん出ても大作の代表作があまりない、あるいは見る機会が乏しいからでもある。本展では縦横4,5メートルの大きな着色の風景画の掛軸があって、筆者は初めてこの画家の技術の凄みを知った。だが画題の基本は呉春譲りだ。それを明治らしく緻密に描き込み、写真ではあり得ない意匠化された写実主義となって、円山四条派の終点としてはこういう絵しか望めないだろうという気にさせた。それが面白いかどうかだが、筆者はこの絵の前で川端の明るい苦悩のようなものを思って最も長く時間を費やした。川端玉章展はこれまで開催されたことがないと思うが、本展によって再評価が始まることを期待し、京都で大規模展を見たいものだ。もうひとり驚いた画家は野口小蘋だ。彼女も小品は市場によく出るが、筆者は大作を見たことがない。南画家としては鉄斎があまりに有名で、野口は大家ではあっても小粒と見られているだろう。鉄斎のような破天荒さに欠けるからでもあるが、本展に並べられた屏風の風景画はどことなく女性らしさを感じさせつつも堂々たる気風で、筆者は初めて彼女の優れた才能を目の当たりにした。熊谷直彦は今回初めて意識した。他の画家はみなよく知られ、ここで取り上げるまでもない。幸野や今尾は友禅の下絵画家としても有名で、本展に選ばれるのは当然だ。
上記11名の画家の作品が明治政府の殖産興業に直接関与したことはなく、外国に買われたこともほとんどないだろう。幸野や今尾は友禅以外の染織の分野で下絵を描き、それらの染織品が大いに外国向きに製造されたので、11名の中では最も工芸品の輸出に関与した。さて本展の後半の展示は工芸だ。五世の伊達弥助(西陣織)、加納夏雄(刀剣装工)、三代の清風與平(陶磁)、初代の宮川香山(陶磁)、並河靖之(七宝)、二代の川島甚兵衛(西陣織)、初代の伊東陶山(陶磁)、初代の諏訪蘇山の8名が取り上げられた。織物以外は作品は掌サイズからひとりで抱えられる大きさまでで、清水三年坂美術館が集めるのはそうした比較的小さな作品が中心だ。これは点眼鏡を使わねば細部が見えないほどの緻密な文様を見せるものが多く、職人芸として空前絶後のものばかりと言ってよい。並河の家は京都市京セラ美術館の近くにあって、10数年前か、改修が施されて小美術館として作品を見せるようにもなった。今回筆者は初めて入ったが、並河の作品を展示するために大展示室をつなぐ回廊の中間にごく狭い部屋が開けられた。そこはこの美術館が建った頃からあったものだが、京セラが命名権を買ってからの利用ではないか。清時代の七宝の伝統を継ぐ並河の七宝は、糸目友禅になぞらえる得る有線の技法で、その多大な根気と集中力を要する仕事は今の人はもうしたがらないだろう。有線で表現する必要なく、無線で自由に好きな絵を表わせばいいのではないかと考え、おそらくそういう作品が主流になっている気がする。それはよく言えば常識に囚われず風通しのよい表現だが、有線七宝の厳密な色分けの仕事を見慣れた目からすれば誰でもすぐに出来る下手のものということになる。七宝が有線であったのは、その極細の銀で区切らねば、ガラス釉薬が混じって望む色が得られなかったからだろう。釉薬の新たな開発によって有線にこだわり必要がなくなったとして、では有線七宝は無意味かと言えばそうではない。有線でしか表現し得ない味わいがあって、その技術の極致を目指せば、清時代の宮中に献ぜられたものや並河のような作品になる。そのことは他の工芸作品にも言える。庶民が日常に使うものとは全く違って、それらは美術品で、したがって高値で取り引きされる。そこに柳宗悦の民藝を持ち出し、庶民が使うものが健康的で、上記の工芸家の作は不健康かと言えば、その問答を通り越して有無を言わせぬ貫禄、凄みが名を挙げた作家の作品にはある。庶民の使い捨て同然の雑器でも、そうした頂点に立つ作家のある部分を拙く模した場合が多々あり、双方の作を見比べると誰の目にも安物と美術品の差はわかる。だがこの問題はここではこれ以上深入りしない。柳が言うように、そこには宗教が絡むからでもあるからだ。また柳の民藝は有名作家の三、四流の模造品ではない。
さて本展の19名の作家は帝室技芸員から選ばれた。これは明治23(1890)年に出来た制度で、皇室が優れた美術工芸家を顕彰、保護した。本展見開きのチラシには「制度発足の背景には、美術の奨励に加え、明治維新によって幕府や諸藩の庇護を失い、窮地に立たされた画家や工芸家を救い、優れた技術を保持する目的がありました」と説明がある。本展でその代表格は加納夏雄だ。彼は刀剣の装工、言い換えれば金工の作家で、銅版画で言えばビュランで金属板を彫る技術に長けていた。明治になって刀剣がほぼ不要になり、彼は明治の金貨のデザインをし、本展ではその現物の10倍ほどに拡大した墨による下絵も展示された。また表面を彫って花鳥を表現した金属製の壺など、材料と道具、技法を知り尽くした才能がわかった。帝室技芸員についてチラシの続きの文章に「昭和19(1944)年まで続くなかで、京都にゆかりのある美術家も多く選出されています」ともある。WIKIPEDIAによれば79名が任命されたとある。最後は梅原龍三郎で、洋画家もいた。幕府や諸藩の庇護を失った云々は昭和になれば意味をなさない。それで制度がなくなったことは妥当と言えるが、代わって重要無形文化財(人間国宝)や文化勲章の制度が出来たので、優れた才能の顕彰は今に続いている。帝室技芸員の任命は終身で、会場にパネル説明があったように、毎年百円が支給された。これは現在の百万円程度で、これだけでは生活出来ないが、名誉であり、断る作家はいなかったろう。またその指定を受ければ作品は高く売れたはずで、画家であれば当時出来たばかりの美術学校の教師にもなれた。また帝室技芸員は制作の指示を断ることが出来ず、材料費込みで作品はしかるべき価格で買い上げされた。皇室に入ったそうした美術品は当時の市民に見る機会はなかったはずだが、今は三の丸尚三蔵館の企画展で取り上げられる機会はある。本展は同館以外に有名な美術館から作品が借りられ、上記19名の作は古典として評価が確立している。ただし、まだ全貌が紹介されていない作家が目立つ。陶磁の作家については別の機会に改めるとして、西陣織では二代川島甚兵衛の若冲原画の「紫陽花双鶏図」が目を引いた。筆者はたぶんこの織物を初めて目にした。若冲が原画を描いたのではなく、若冲の絵を明治の画家が模写をし、それを元に織物が作られた。今はキモノの帯に盛んに若冲画が利用されるが、その発端が川島甚兵衛であった。若冲はまさか自作がそっくりそのまま精密な織物になるとは思わなったはずだが、明治には技術の発明と進歩があった。その意味で言えば江戸時代と明治はつながっていて、そのことを京都を例に示す本展は意義深い。任命された79名は上記19人以外にも京都で活躍した作家がいるが、ざっと見ると3分の2は東京を中心とした関東勢のようで、明治に天皇が東京に移ったことを示す。
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