「
鮎釣りの 合間におやつ 思い出し 包み開けば 若鮎菓子や」、「スーパーで バナナカステラ まだ売られ 今はバナナが 安値なりしや」、「チラシ見て 行った気分の 企画展 古き世代は 興味少なし」、「足袋を履く そのたび思う 雪の宿 煎餅買って 旅の気分に」
今日から4回ほどに分けて15日に京都市内を回ったことについて書く。まずは京都府立堂本印象美術館。この美術館が府立になったのは手元にある平成4年(1992)4月の『きょうと府民だより』によって同年4月15日であったことがわかる。今年で30年だ。となれば建物は雨風でかなり汚れる。去年か2年前、建物の外観塗装が新たになされ、また一部黄色に着色されるなど、印象が明るく変わった。筆者が最初に同美術館を訪れたのは府立になる以前であった気がする。府立になって企画展が毎年4回開催され、当初はそのたびに訪れてチラシを入手した。それが手元に60枚集まっている。30年経つので120枚ほど製作された計算で、その半分を筆者は見て来たと言いたいところだが、チラシのみ他館で入手し、見ていない企画展もある。だが30回以上は見て来たはずだ。印象の作品を1700点ほど収蔵するので、企画展ごとに50点展示して34回の計算で、筆者はおおかたの作品を一度は見たはずで、残るは寺やキリスト教会にある作品だ。それでも数年ごとに知っている作品を見るのはまたいいものだ。見るたびに印象が違うことは多い。今回は旅をテーマにしていて、これはコロナ禍がようやく下火になり、京都に来る観光客の増加が見込まれること、あるいはコロナのために家に閉じこもり気味の美術好きに絵画で旅の気分を味わってほしいためだろう。チラシ裏面上部に「30代の中国絵画」、中央に「60代のヨーロッパ絵画」の大きな文字があって、本展はそのふたつの章で構成されている。印象は大正10年(1921)の30歳で最初の中国旅行、そしてヨーロッパには戦後の61歳で訪問した。特に還暦以降の作品からは時流を読むことに長けていたことがよくわかる。中国趣味は江戸時代の文人画家のつながりとして当然で、そのことは印象より8歳年長の橋本関雪が最右翼を担ったが、関雪は1945年に61歳で没した。当時の印象は仏画の大作を中心に活躍し、1952年に渡欧してからは西洋の抽象画の感化を受け、それを書の筆致で絵画風に駆使して独自の境地を拓く。関雪がそういう作品を見ればどう思ったであろう。印象は戦後日本が歩んだ歴史に応じた作品を遺したのであって、西洋を見聞して画風が大きく変わったにしても、日本の個性を忘れなかった。それはどういう意味かと言えば、戦後は森田子龍の墨象が興り、ヨーロッパの前衛に大きな影響を与えたが、印象はその墨象のブームを自分なりに解釈し、個性を大いに発揮した。つまり日本の前衛書道との関連が見える。
そういう印象の抽象作品を初期の緻密に描き込まれた作に比べるとかなり大味な感じがすると思う人は少なくないだろう。だが写実から抽象の流れは時代に応じただけで、印象は年齢を重ねるほどに手抜きしたのではない。以前に印象の書は下手だと書いたことがある。その思いは今も変わらないが、書の伝統を重んじず、印象は文字を絵画の一種とみなし、デザイン風を心がけたと言ってよい。その書の絵画化で最も大きな仕事をしたのは岡本太郎で、「太陽の塔」の脇腹の赤の稲妻模様も書の変形と言ってよい。それに岡本は漢字を誰でもその文字とわかる、つまり読めることを前提にひどく変形して絵画にし、そういう作品はテレフォンカードのデザインによく使われた。書であり絵である岡本の作品は彼の抽象絵画と密接につながっているのは当然で、岡本の作品を論じるのに西洋絵画だけでは不十分で、筆による書の影響を考えねばならない。若い頃にフランスに行き、当時の抽象絵画を目の当たりにし、その影響下でいかに日本らしい個性を発揮するか。この問題は今なおどの表現者について回る。江戸時代の文人画家が中国絵画を模倣し、やがて独自の絵画を生んだように、日本は常に外国から影響を受け、それを独自のものに咀嚼する歴史を歩んで来た。岡本がそのことを考えて縄文を発見し、書道の筆致を使った文様的絵画すなわち新たな抽象絵画を描いたのは日本の強みだ。岡本の世代の画家や芸術家であればたいていの人は個性的で見事な書を書いたと言いたいところだが、案外そうでもない。実際岡本は池大雅や蕪村のような個性的で見事な書は書けなかったであろう。その点は堂本印象も同じで、彼らの世代がそうであればその後は言わずもがなで、現在まともな書を書く有名人は皆無と言ってよい。若い世代で目新しそうな書を書く書道家が次々と登場しているが、どれも単に目立ちたがり屋でろくな書ではない。堂本印象も書を若い頃に学校を含めて学んだはずだが、絵のほうが金になった。それに書は絵ほど自由ではなく、また絵が上手であれば書はそれなりにどうにかなると考え、それで伝統的な書風を無視したデザイン風の書となった。そのことは岡本にも言え、また絵画の根本的で重要な要素になった。印象に書の影響が現われるのは渡欧して以降のことであり、漢字を主題に岡本のように独特の個性で描きはせず、墨象の即興的力強さを模倣し、大画面に一気呵成に墨で描く技法を生み出した。そうした作品はモンドリアンの厳格な構成を即興で崩したようなところがある一方、還暦以前の写生を元にした作品との関連も感じられる。それは装飾性、意匠性だ。ところがモンドリアンの絵画のように写実から始まってあらゆるものを削ぎ落して行き、単純な要素だけで緻密な構成を見せるという方法ではなく、楽しさが支配的だ。もちろん絵画がそういう感覚を鑑賞者に与えて悪いことはない。
印象が抽象画を描く時、ヨーロッパの最新の絵画の流行を見つつ、一方で宗達や光琳の琳派を意識したであろう。京都の画家であるのでそれは自分に課せられた役割とも思ったのではないか。関雪はそういう境地までは至らなかった。関雪も渡欧したが、印象ほどに西洋絵画の影響を見せた作品を筆者は知らない。チラシの裏面には縦書きで次の言葉もある。「一人の画家とは思えない表現の幅広さ 具象から抽象まで」これはたとえば本展で初めて印象の絵を知った人が感じることだが、「思えない」は筆者のように30年前から何度も見て来ている者にとっては「思える」と言い換えるべきであって、その理由が装飾性、意匠性で、これは初期から最晩年まで共通して見られるが、写生風が強調されるほどによりわかりにくい。ただし、日本の写生画も応挙であれば生の写生は別として、それを利用した本画となると、より少ない線描や色合いで描くのであるから、意匠性が自ずと現われる。それが誇張されると装飾的により傾く。昨日書いたように写真はレンズを通して見えるものがすべて写る。撮影者が意識しないものまでそこに混じり、絵画行為とは全然別物だ。スケッチすればわかるが、対象のどれをどう描くかという取捨選択が常に迫られ、対象の一部しか描けない。そうして対象の完璧な写しではなく、大幅に間引いた絵が芸術となるが、それは対象を自分がどう見てどう選んだかという個性が宿るからだ。写真でも個性が出るが、それは同じ対象を同じ角度から撮ったとして、フレームに収める角度や部分が異なるからで、そこに撮影者の芸術観が反映する。絵画の場合はそれがもっと無限に近く方法があるが、写実のリアリズムを追求して来た西洋と違い、日本では物の影にほとんど注目せず、平明は画面をよしとして来たので意匠性を持ちやすかった。その伝統を印象は明らかに保持している。それゆえかなり写実的に見える作品でも省く箇所は大幅にその処理をし、何をどうわかりやすく描くかの思いによって個々の事物の意匠化が明らかだ。今回展示された作品のうち特に目を引いたのは1952年の渡欧とその後に描かれた作品で、「美の跫音(あしおと)挿絵原画」の30点のペン画だ。これは1冊の本として後に出版され、印象の弟子は渡欧する際、その本を携えたという。イタリアとフランスで写生したものをホテルに帰って墨を入れた作であろうが、その墨入れの際に明暗を顕著にし、おそらく省略や極端な意匠化も行なっている。あるいは写生の段階でその完成図が見えていて、その意匠化の著しい絵にしたがって写生の段階で大幅に対象を取捨選択した。これは眼前に広がる風景の何をどう選ぶかということにおいて最小限の物だけで充分と考えたことによる。それゆえイラストや漫画のようだが、写真と同様の時の瞬間を切り取った情緒があって、さすが印象という手慣れた技術が横溢している。
チラシ裏面に1点印刷される「オペラ通り」は画面上部に「METRO」の横長の看板が目立ち、画面中央やや左寄りにこちらを振り返る少年、その向こうに対話する男女3人が描かれ、また彼らの足元は影と短い斜線が点々と引かれる。そのことによって歩道が濡れていることを伝えるが、振り向く少年は生々しく、写真を撮ってそれを元に描いたことを感じさせもする。そうであるとしても、よけいなものを徹底的に省き、それでいてオペラ座通りであることを見る者に伝える役割を忘れていない。ただしどの絵もこの絵のように動きがあるのではない。また白黒の対比とその分量がよく計算され、木版画にしてもよさそうな味わいに富むが、こうした白黒のペン画を描いたのは現地の美術館で新しい絵画や版画を見たからではないか。ある新しい絵画に触れてそれを自分のものとして消化する才能は印象には並み外れてあった。還暦以降の風景画にはベン・シャーンや松本竣介を思わせる画風の作もあって、おそらく画集などで時代を画するそうした画家の作品はよく知っていたであろう。また印象の場合はベン・シャーンや松本のような思想が裏打ちされているような作ではなく、その点は物足りないと言うべきかもしれないが、豊かな色彩と構図の交響があって、幸福に満ちている。そこが印象の作の持ち味で、深みがないと言えばそれまでだが、類稀な職人芸と何でも来いの鷹揚さ、健康さ、明るさがあって、歪んだ精神というものがない。もちろんそういう絵を好むかどうかは人によりけりだが、繰り返すといかにも琳派の伝統を受け継ぐ京都らしい。印象の目に訴える事物の要領を把握するセンスは要領よく生きることにつながっていて、自分個人の美術館を建てるほどに描きまくって莫大な収入も得た。それは時代のよさもあったかもしれない。あるいは金儲けすることは今のほうがやり方によってはたやすいか。筆者のような70を超えた年齢になると、ある画家、芸術家が自力で一生の間にいくら金を稼いだかということを時に考える。芸能人では50億円ほど持っている者は珍しくないようだが、印象の蓄財は現在のその額に匹敵するほどであったのではないか。さて、還暦以降の抽象画、あるいは具象であってもかなり抽象に近い作では画面の華美を意識し、琳派風の意匠主義が見える。つまり印象は中国も西洋も飲み込んで、具象でも抽象でも日本的であった。この芸術性が文学や音楽ではどう表現され、これまで誰が代表的に担ったであろう。抽象画に至った印象は画家としての仕事はすべてやり尽くしたと思ったのではないか。印象以降も日本画は描かれ、装飾性、意匠性は相変わらず保持されているが、印象ほどの多作で多面的な大物はもう出て来ないのでないか。若い画家が写実から始めるとして、その後の画風の変遷はもう百年前から多くの画家があらゆる形で行なって来た。
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