「
皸(あかぎれ)の 手の甲取りて 師は涙 暮らし貧しき 春まだ遠し」、「寒さ増し 色褪せ進む 鶏頭の 浅き朱色は 黄昏の空」、「過ぎ去って 眩しさわかる 若さかな 生き物すべて 移る陽宿し」、「夏の陽を 浴びて炎の 花姿 鶏頭どれも パンクファッション」
今日の写真は8月1日の撮影。
先月15日に投稿した「その7」の写真から3日後で、花の色や形に変化はないが、根元に近い葉が枯れ始めている。これは炎天下であるので水やり不足が原因とも言えそうだが、毎夕たっぷりと与えていたので、自然な劣化と見たほうがよい。この写真から2か月ほど経った現在、葉は9割以上が落ちているのに、花は深紅から橙色に褪色しつつ、また一部は垂れ下がりながら全体として形はまだかなりそのままの状態だ。赤色が庭に彩を添えているので種子を得た今でもそのままにしているが、すっかり枯れるのは1か月ほど先として、どのように処分するか思案中だ。今年は本気で育てたので立派に咲いたが、10本では写生の材料としてはさびしく、来年はさらに本気になるつもりでいる。それに鶏冠鶏頭は各地で見かけるとどれも品種がわずかずつ違うのか、あるいは同じ品種でも環境によって大きく形を変え、どの花を見ても意表を突かれる気になる。言い変えればこの花の本当の姿が筆者にはまだわからない。それは来年も同じ品種を育てるのであれば同じように思うことであるに違いなく、育てるにしても一品種では具合悪いことを今年は感得した。とはいえわが家の裏庭は狭い。そこで嵯峨その他各地をうろついて目に留まる、そして描きたい花を探せばいいが、他人の玄関脇で数日通って1,2時間も描くのは事情が許さない場合が多い。それで写真くらいは撮っておく気になるが、写真と写生とでは全く別のことで、素早いスケッチであっても現場で描かねばならない。描くことは実物をしげしげと見ることだ。そこには選択が必ず働くから、写生はそのままで作品になる、あるいは作品の下準備として大いに役立つ。ただし先に書いたように、鶏冠鶏頭の花の形があまりにも多様で、またそれらが集まって咲いている状態の一部の構成がそのままで絵になりそうな場合がよくあって、まだまだ観察と写真の足りなさを思う。だが、今後何年着目して描いても満足行かないかもしれない。それほど花の形が変化に富み、2,3本まとまって咲く場合にまたそれなりの面白さがある。しかも別の面白さもある。それは同じ1本の花でも最盛期を迎える前、そしてとっくにそれが過ぎた後でも花の姿に変化があることだ。薔薇やカンナではそういうことはない。鶏頭の花は枯れ始めてからも見応えがある。つまり花期がとても長い。中年、初老になってもそれなりに美しい女性はごくたまにいる。そういう女性にたとえてよい花だ。友禅屏風を考えているが、訪問着もいい。そうして構想している時が楽しい。
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