「
袢纏を 取り出し吊るす 九月末 落ち葉ちらほら 鰯雲満つ」、「出会いあり やがて疎遠に 気づく頃 新たな出会い 気づき忙し」、「物足りぬ ことを知りつつ 親しくす 愛想笑いも なくてはさびし」、「退屈を 描けと言われ 鯛に靴 なんもおもろね 他意を隠さず」

昨日の続き。シンクレールはデミアンとしばらく疎遠になり、その間に教会のオルガン奏者であるピストーリウスと親しくなる。シンクレールが街中をほっつき歩いていた時に教会から漏れ聞こえるオルガンの音に引き寄せられ、教会の椅子に座って聴き始めたことによる。ピストーリウスはデミアンとほぼ同じ年齢と思うが、シンクレールは彼の博学ぶりに魅せられ、彼の部屋を訪れ、暖炉の前で何度か過ごす。ところがシンクレールはある日、こう言う。「あなたが夜見たほんとの夢の話をしてください。あなたが話していることはひどく古本くさくていけませんよ!」 シンクレールはこの言葉を「だしぬけに、私自身にも意外な、ぎょっとさせるようないじわるさをもって言った」のだが、ピストーリウスとの出会いと別れは本書の5分の3を過ぎた辺りに描かれ、シンクレールがさまざまな人間に出会って精神的に成長して行くことを読者に知らせるための重要な箇所だ。ピストーリウスは本当は僧侶になりたいのだが、それが望みうすであることを知っていて、それで教会に関係した仕事としてオルガンを演奏している。本書でヘッセは次のようにシンクレールの思いを書く。「僧になり、新しい宗教を告げ知らせ、向上と愛と礼拝の新たな形を与え、新しい象徴を樹立することだった。しかしそれは彼の力の及ぶところでも、彼の任とするところでもなかった。彼はあまりにも熱心に過去に執着し、あまりにも精確に既往を知り、あまりにも多くエジプトやインドやミトラスやアブラクサスを知っていた。彼の愛は、これまでに地球が見たことのある形に束縛されていた。しかも彼は内心で、新たなものは新しく変わっていなければならないことを、また新鮮な地中からわき出さねばならず、収集物や文庫からくみ取られてはならないことを、よく知っていた。彼の役目はおそらく、私にたいしてなしたように、人間を各自自身に導く助けをすることだった。人間に、未聞なものを、新しい神々を与えるのは、彼の役目ではなかった。」この下りは本書で最も重要な箇所のひとつで、シンクレールとピストーリウスは一見同種の人間に見えながら、決定的に違うことを前者が気づき始めたことを書く。シンクレールにとって「未聞なもの、新しい神々」は、これまでの文献を漁っても獲得で出来ない。学者が論文を書くことは創造であるので、シンクレールの思いは正しくないと言ってよいが、本書での対話に限れば、ピストーリウスはブクステフーデのような古い教会音楽を奏でるだけで、「未聞なもの、新しい神々」を希求し、創造しようとの欲求はない。
ただし、楽譜に忠実に演奏することもひとつの創造たり得るので、シンクレールの思いを非難する人はあるだろう。ヘッセは自分の中から出て来るものを生きようと欲し、そして本書を書いた。それはこれまでにない創作を目指したと考えてよい。そういう欲求を持つ者からすれば僧の夢を断念して教会のオルガン奏者に甘んじる者は、人生の一時の導き手にはなってもそれ以上ではない。そしてシンクレールはデミアンとの再会を求め、それが実現して行くが、ふたりはあまり言葉を交わさずともわかり合え、魂が交歓しているからにはべたべたした交際でなくても全くかまわない。デミアンが具体的に何になるために努力しているかは描かれず、それゆえふたりの関係は神秘性、秘教性を帯び、そこが本書の謎めいた面白い味わいの原因になっている。シンクレールの「古本くさい」との言葉をピストーリウスは怒らずに受け入れるが、それは身のほどを知っているからだ。誰でもシンクレールとピストーリウスのような関係を人生で何度か経験するだろう。筆者も何度もあった。創造を目指す者は過去に学ぶことはもちろん大事だが、模倣だけではほとんど無意味だ。模倣は学習のひとつの過程に過ぎない。ところが模倣ですら満足に出来ない芸術希望者は大勢いて、本人は大いに自惚れてもいる。そういう人々がシンクレールとピストーリウスの先の言葉のやり取りの場面を読むとどう思うか。自分は創作者ではなく、模倣者に過ぎないと落胆するだろうか。あるいは模倣者であっても芸術の片鱗に携わっていて、それが本当に自分のしたいことと納得するだろうか。本書の扉の言葉「自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない」は、ピストーリウスにも言い得るのではないか。本当は僧になりたいが、それが無理ならば教会に接した別の仕事をしたいと思うことは、シンクレールの目指すものとは違っていてもひとつの人生だ。本書はシンクレールによる青春回顧録で、ヘッセの最も重要な考えを架空の物語に託したものだ。その最も重要な考えは博学ではあるが創作者ではないピストーリウスとは違う人生を自分は目指していて、その確たる証拠が本書であるという形を取っている。となれば創作を成し得る能力のない人物は本書から得られるものは何もないのかという話に進むが、本書を若い頃に読めば、先の人生を考える参考や指針にはなる。昨日書いたように筆者はそうであった。ただし創作は古典への博学ぶりを基礎としつつ、今を見続けねばならず、「未聞なもの、新しい神々」はそう簡単に見つかるものではない。見つけたと思っても、やがて模倣であることや古臭いことに気づく。そう考えると本書はきわめて苦み走った内容で、若者は一時的に鼓舞されてもやがて大半は落伍するだろう。ところがシンクレールは芸術家にならねば無意味と思っているかと言えば、そうではない。
本書は間接的にヘッセの考えを伝える創作物だが、シンクレールやデミアンはまだ何をしたいのかよくわからない青年だ。しかも本書の最後は戦争が勃発し、ただちに兵士になることを望み、そして負傷する。その点が読者に誤解を与えやすい、あるいはわかりにくい展開で、若者が自分の中からひとりで出てこようとしたところのものをいかに生きられるのか、そして未聞なものや新しい神々を発見出来るのかという具体的なことについては何も書かれない。さて、ここで第一段落における長い引用の次にヘッセはシンクレールに託して次のことを書く。「ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。――各人にそれぞれ一つの役割が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない、ということを悟ったのだった。新しい神々を欲するのは誤りだった。世界になんらかあるものを与えようと欲するのは完全に誤りだった。目ざめた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、という一事意外にぜんぜんなんらの義務も存しなかった。――そのことは私の心を深く揺り動かした。それが私にとってのこの体験の結実だった。しばしば私は未来の幻想をもてあそび、詩人としてか預言者としてか画家としてか、あるいはなんらかのものとして、自分に定められているかもしれない役割を夢想しいたことがあったが、それらすべてはむなしかった。私は、詩作するために、説教するために、絵をかくために、存在しているのではなかった。私もほかの人もそのためには存在してはいなかった。それらのことはすべて不随的に生ずるにすぎなかった。各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。詩人として、あるいは気ちがいとして終わろうと、予言者として、あるいは犯罪者として終わろうと――それは肝要事ではなかった。……肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生き抜くことだった。ほかのことはすべて中途半端であり、逃げる試みであり、大衆の理想への退却であり、順応であり、自己の内心にたいする不安であった。」この引用文からは、自己の運命を見出すのは僧を諦めてオルガン奏者になっているピトリーウスもではないかとの疑問が湧く。ではどう理解すべきか。ヘッセは本書を40歳で書き上げ、「青春の物語」との副題を付していることからして、詩人ないし小説家、そして画家の側面も持って活動し続けて来た。それらの仕事は任意ではなく、自己の運命と見定めた結果だ。孤独に沈潜し続けて自分自身に達すると同時に天職としての文筆家になった。漫然と暇つぶし的すなわち中途半端に書くのではなく、自己に到達することを目指す手段が書くことで、自己発見と執筆は不即不離の関係にある。
それは作品優先の考えではなく、まず自己の運命を見出すことだが、それが出来れば何になってもよい。となれば元首相を狙撃した若者は、自分の運命を認識し、そうせざるを得なかったということも出来る。他人を殺すことに執念を燃やし、そのことを実行するヴェルトルは本書のシンクレールとは正反対にあるが、本書は末尾において兵役志願し、デミアンとともに負傷するのであるから、形は違うが殺人には加担している。平井正の『ベルリン』が本書から引用するのはデミアンの言葉で、本書の5分の4辺りだ。部分的に以下書く。「団体というのは美しいものだ。しかし現在いたるところに繫盛しているやつは、ぜんぜん団体ではない。個人個人の相互理解から新たに団体が成立しなければならない、それはしばらくの間、世界を改造するだろう。いま存在している団体は衆愚人の団体にすぎない。……人は自分自身の腹がきまっていない場合にかぎって不安を持つ。……彼らはみな自分らの生活の法則がもはや適しないこと、自分たちが古いおきての表に従って暮らしていること、宗教も道徳もなにひとつ、われわれの必要とするものに適応していないことを感じている。……一つの学生のクラブをのぞいてみたまえ! あるいは金持ち連のやっている娯楽場を! 絶望的だ! ……おびえながら集まっているこれらの人々は、不安と邪心にみたされており、だれもほかを信じない。彼らは、もはや理想ではない理想にたよっている。新しい理想をたてるものがあると、だれでもかまわず石をぶつけて殺す。清算の来ること、まもなく来ることを信じていい! むろんそれが世界を<改善>しはしない。労働者が工場主を殺すか、あるいはロシアとドイツがたがいに砲撃しあうかしても、所有主が変わるだけだ。だが、それもむだじゃないだろう。それは今日の理想の無価値を示し、石器時代の神々を取り除くことになるだろう。今日あるような世界は、死ぬことを、滅びることを欲している。実際それは死滅するだろう」平井は以上の引用の後、本書の10数頁後、続いて20頁ほど後からも引用するが、次に上記の引用文に対してシンクレールが自分たちはどうなるのかと質問した直後のデミアンの応答を引く。「ぼくたちもいっしょに滅びるだろう。ぼくたちも殺されるかもしれない。ただぼくたちはそんなことではかたづけられないのだ。ぼくたちの遺物と、生き残ったものたちとのまわりに未来の意志が集まるだろう。……自然が人間にたいして欲していることは、個々の人間の中に、きみやぼくの中に書かれている。それはイエスの中に、ニーチェの中に書かれていた。これらの重要な潮流は――むろん毎日違った姿を呈するが、今日の共同体が崩壊すれば、時を得るだろう」これは百年前のヨーロッパに幻滅した意見だ。ドイツはその後ヒトラー政権を生む。
ということは戦後も本書が読まれるべきであったし、現在もそう言えるが、「今日の共同体の崩壊」は日本も含めて主要先進国にはなく、ヘッセの時代よりも事情はさらに深刻化している。となればデミアンやシンクレールのような考えを持つ人は不要で役立たずなのかという疑問が湧く。ふたりは知識人の卵で、醒めた目で世間の人々を見ていて、人数的にはごく少数派だ。先の引用のように、大多数の人はろくでもない団体を結成し、衆愚となって政治を支えている。それでヒトラーが登場した。それはいつでもどの国でも起こり得ることで、そういう現実を前にデミアンはシンクレールに教える。自然が人間に対して望んでいることは本来人間に遺伝子的に宿っているとの考えだ。イエスやニーチェは殺人をよしとはしなかった。それは自然に反するからだ。「自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きようと欲する」は簡単に言えば自省が欠かせず、それには孤独が必要だ。デミアンはシンクレールに魂の不滅を教えた。その魂は誰もが持っているのにその真の姿に気づかない人は多い。青年期に気づけば、それを内心の羅針盤として残りの人生を生きて行く。デミアンのように若くして死んだとしても思いを共有しているシンクレールのような者がいれば、デミアンの考えは継がれて行く。本書でヘッセは若者が戦争に行くべきとは書いてはいないが、迷わずに真っ先に志願するデミアンの姿からは、一種の国粋主義が見え透く。しかし先の引用のように、自分が死んだところで、自分の魂を受け継ぐ者がいる限り、未来に希望は残り続ける。この魂の伝達は選ばれし者に限るのであって、本書はそういう選良のために書かれている。大多数の書物はただの娯楽で、売れればそれでよしとし、本書のような高潔な内容は一般受けしない。したがって本書を鼻持ちならぬと謗る者は多いはずだが、ではそういう人々に人類の未来に対する希望の言葉があるだろうか。本書のデミアンとシンクレールの関係はたとえばやくざの親分と子分との間で成立するが、やくざの組織は衆愚団体として退けられる。そこにナチを含めてもよい。本書が出版当時の若者にどう読まれ、理解あるいは誤解されたか。誤解は低次元の理解と言い替えてもよい。平井は「彷徨する精神はムードの弱い。陶酔させるものにすぐにとびつく」と書き、本書を歓迎した若者に誤解が多かったような口ぶりだ。10数年後のヒトラー政権誕生を思えばそうだろう。また筆者の話をすると、筆者は本書に教えられたことが大きかったのかそうでなかったのかわからないが、デミアンの年齢の頃から自分のやりたいことを見つめ、そのためにはどうすべきかを探って来た。天職に巡り会えたかどうかはよくわからないが、したくないことを自分に無理強いせずにやって来たので、精神を病むことにはならなかった。
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