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●『デミアン』
まらずに 戸惑い気づく 違う鍵 たまに考え 変えて試すや」、「餡半ば 煮ては迷うや 仕上げかな 粒を残すか 漉してしまうか」、「案ずれば 倦みやすしかな 楽天家 なるようになれ 熟れのやけくそ」、「したきこと 出来ぬは人の せいなりと 自他を殺めて したきことせず」●『デミアン』_d0053294_01341465.jpg 平井正の『ベルリン』第1巻を読んでいると、1919年8月の項目にヘッセの小説『デミアン』について2ページにわたる引用と言及があった。それを読む前に手元の『デミアン』を繙いた。この小説を筆者が初めて読んだのは10代の終わり頃であったと思う。どういう内容かすっかり忘れてしまったが、ちょうど台風があった記憶がある。そのことが世の中が大きな波乱、つまり戦争に見舞われる本書の結末に重なって、夜の空襲警報を経験したことはもちろんないが、それに似た胸騒ぎを筆者は覚えた。今回は3日で読み終え、最後の20ページほどはあえて台風14号が日本を縦断している13日に読んだ。半世紀ぶりに同じ荒れた天候の頃に読み終え、また胸騒ぎを新たに覚えたが、読後の感想は半世紀前と同じで、わかったようなわからないような奇妙な感じだ。これは20歳頃から筆者の読解力が全然進歩していていないことを示すと同時に、20歳前に本書を読んで一直線に筆者は本書の主人公の思いにしたがって生きて来たとも言える。訳者の高橋健二の巻末解説に、本書は1917年、ヘッセが40歳の頃に数か月で一気に書き上げられたとある。出版は2年後で、ヘッセは本書の主人公であるエーミール・シンクレールの偽名で出版したが、あちこちからヘッセの執筆ではないかとの声が上がり、ヘッセはそれを認めてシンクレールの精神の導き手として本書に描かれるデミアンという、2,3歳年長の男性の名前を題名とした。本書は『郷愁』の15年後、『荒野のおおかみ』の10年前の出版だ。なるほど内容はその中間と言ってよいもので、ヘッセの精神の遍歴がおおよそわかる。それと同時に小説としての面白さは過激になる一方で、本書の前半は『郷愁』に似ているが、後半は『荒野のおおかみ』を思わせる夢のようにどこか辻褄が合わず、本書がどういう意図で書かれたかと考えるのにいささか苦労する。それで前述したように筆者は半世紀経て再読したものの、同じようにどこか雲をつかむ感覚に囚われている。これはふたつの正反対のことが言える。筆者はシンクレールやデミアンとは全然違った環境に生きて来て彼らの思想が理解出来ないこと、あるいはその反対に筆者はシンクレールやデミアンのように生きて来たので理解も何も最初から彼らの思いがよくわかるということだ。どちらでもある気がしつつ、やはり筆者は後者に近く、本書で教えられたのかどうか、あるいは本書とは無関係に自覚したのかいずれかわからないが、遠い記憶をたどると本書の影響は小さくはなかった気がしている。
 つまり、簡単に言えば20歳になる直前の筆者は自分なりに戦場にいる気分で、数年間は自分が何をしたいかを考え続けた。筆者は小学1年生の頃から図画工作は担任から大いに褒められ、そのことは中学になって倍化したが、文章を書くことも小学生から好きで、中学生になって毎晩長い日記を書いていた。筆者の母方の親類に小説家がいたそうで、その血を引いているかもしれない。絵好きは突然変異みたいなもので、両親のどちらの親類にも美術好きはいない。それはいいとして、自分が何をしたいか、何をして生きて行きたいかについては誰も考えることで、その自分探しに関する本はいつの時代でも人気がある。生き甲斐など思わずにその日暮らしで生きて行くことも精神の安定上はいいと筆者は思っているし、大多数の人はおいしいものを食べて気持ちいいことをたくさんして過ごす人生を夢想する。ところがそれにはいわゆる社会的成功すなわち大いに金を稼ぐ必要がある。それが大多数の人にとっては無理なので、半ば仕方なしにやりたいことを諦めて人にこき使われる人生を歩む。それはそれであまり何も考えないのであれば幸福で、大多数の人が同じ境遇であるので、「まあこんなものか」と自分を納得させながら生きて行く。そしてわずかに空いた時間を好きなこと、つまり趣味に使うが、そのために用意されている芸能、芸術は無数にある。筆者が本書を読んだこともそのひとつと数えてよく、傍から見れば暇つぶしに過ぎず、実際筆者はそのことを否定しない。話は少し変わる。日本の元首相を銃撃した若い男性は恨みがあった。自分の望む人生が母による宗教団体への異様な献金で壊されたからだ。しかい、彼は本当に元首相を射殺したかったのだろうか。そのために生まれて来たと本気で思っていたのだろうか。そうだとすれば彼はただの殺人犯で厳格に罰せられねばならない。なぜかと言えば、甘えがあるからだ。確かに彼が得るべき両親の財産、遺産があったのだろうが、筆者のようにそれが1円もない者もいる。それどころか筆者はサラリーマンになってから始末して貯めた金を妹の結婚式に全部与えた。それで無一文で京都に出てひとり暮らしを始め、友禅の師に就いて猛烈に学んだ。甘えてくれる存在はなく、どうにか自分で人生を切り開く覚悟のあった筆者だが、誰も恨んだことはない。そんなことをしても自分が惨めなだけで、幸運は逃げて行く。他者を殺めるなど想像の埒外だ。そんな想像をする根本に甘えがある。甘えがあって悪いかと言われそうだが、成人すればそれは無様で格好悪い。誰でも運命の中で最大限やりたいことを見つけ、自分らしさを獲得して行く。その自分らしさが人を殺めることで、それを実行して境遇が理解されるという世間は、甘えが大きく支配していて筆者には気味が悪い。ホームレスでも元首相を死ねと怨んでも、撃ち殺そうと思わないだろう。
 誰しも恨みを抱くが、そのことが殺人につながるのは精神異常だ。そういう者はしかるべき施設で隔離せねばならない。ところが戦争がある。これが厄介だ。本書の最後は戦争に従軍する話だ。ヘッセは第1次世界大戦に参加し、戦争反対者となって『荒野のおおかみ』を書いた頃はドイツがまた戦争を始めることを心配する気持ちがあった。日本では太平洋戦争以降は戦争に参加して大勢に死者を出すことはないが、アメリカは違い、60年代に戦争反対を唱えてヴェトナムに行かなかった者がいた。ボクサーのカシアス・クレイはその代表で、世間から大いに叩かれ、弱虫と罵られた。同じことはロシアにも起こっている。ロシアがウクライナ相手に始めた戦争になぜ駆り出されるのかとロシアの一部の青年が考える背景にはアメリカに先例があって、民主主義の国では戦争の忌避表明が出来る。ところがロシアでは囚人から兵士を募り、脱走すれば銃殺というから、国の命令に逆らうことはほとんど死を意味する。富士正晴は赤紙にしがたい、中国に送られて2,3年過ごし、そのさまざまな経験を戦後になって小説に書いた。また戦後の日本人よりも中国人が好きだと何度も書いたが、そこには戦争で迷惑をかけたという思い以上の理由があるだろう。つまり、素朴な中国人に対し、戦後の日本人は醜くなったとの考えだ。もちろんそういう国民性は常に変化し続け、裕福になった中国人はバブル期の日本人のようになるのは明白だ。話を戻そう。平井正の『ベルリン』は本書についてこんなことを書く。「伝統的な市民意識にしがみつく旧世代に対し、前線世代は精神的に宿無し状態であり、そうした不安定な心の支えを求めて揺れ動いた。……『デーミアン』も、そうした世代の心をとらえた時代のドキュメントの一つである。トーマス・マンは「この作品はうす気味悪いほど正確に時代の神経を打ち、若い全世代から感謝と狂喜を呼び起こした。かれらは自分たちのいちばん内部の生活の解釈者が自分たちのなかから生まれたと思ったのだ」とのべている。……確かに『デーミアン』は喪失世代の若者の心情にぴったりだった。……敗戦によって精神的な拠り所を失ったドイツの青年たちの意識は、分裂し、彷徨した。『デーミアン』が青年層に異常な感銘を与えたのは、そうした精神状態に受ける表現様式を持っていたからである。しかし彷徨する精神はムードに弱い。陶酔させるものにすぐにとびつく。」この平井の意見は本書を当時の若者を誤った方向に煽動し、危険なものと見ていたかのような印象を与える。本書の最後でデミアンはドイツのロシアが攻め込んで来たので中尉となって従軍することをシンクレールに伝え、彼もそれにしたがう。国防のために兵士になることは当然で、その思想をシンクレールも共有している。ロシアが攻め込んで来たとの設定はロシアは悪なので、その戦争に参加することは当然だろう。
 これが前述のようにアメリカがヴェトナムに爆弾と落としたり、ロシアがウクライナに対して同じことをしている戦いであったりすれば、戦争忌避者が出て来ることも当然だ。そういうことを考えると、百年前に出版された本書は戦争当時国のどちらが悪いかという複雑な問題には一切踏み込まず、戦争が災禍として青年に降りかかって来たならば、疑うことをせずに従軍すべき愛国心と言うべきものが書かれる。そこを戦後世代の平井は冷静に見るのだろう。第1次世界大戦時、徴兵を避けて他国に飛んだ若者がいなかったのかどうか、それは筆者にはわからないが、ヘッセは本書の後は戦争反対者となってドイツからは睨まれた。ところで、筆者は開高健が金子光晴と対談した記事を昔週刊誌で読んだ記憶がある。金子は戦争反対論者で、息子に赤紙が来た時はさまざまな理由をつけてそれを拒否し、従軍させなかった。日本がアメリカに仕掛けた戦争であることを知っていたのだろう。徴兵拒否の生き方を息子にさせるほどに国家を信じていなかったのは、若い頃に西洋を見て回り、個人主義の意識が徹底していたからだ。富士正晴はそこまでの思いはなかったが、絶対に生きて帰国する、そして婦女を陵辱しないことを内心誓って兵士となった。その確たる覚悟は本書のシンクレールやデミアンに通じる。さて、本書の最後は負傷して病院のベッドに横たわっている時にシンクレールは目覚め、同じく負傷したはずのデミアンの姿がなく、代わりの男がベッドに寝ていることを知る。そこにデミアンの負傷が悪化し、死んだことが暗示されるが、それでもシンクレールはデミアンとの出会いによって真の自我に目覚め、思えば常にデミアンが自分の中に生きていることを知る。本書は人生を決定する重要な人との出会いを描くが、そういう人物と出会っても結局は自分を見出すことが大事であるということだ。デミアンやその母はシンクレールの導き手にはなったが、シンクレールは充分大人になった段階でそうした精神の指導者は現実にいなくてもかまわない。ということは本書との出会いで目覚める人があることも匂わせ、実際そのことは正しい。それゆえ1冊の書物が人生を変える価値があると言われるし、前述のように1919年のドイツの青年は本書によって鼓舞されることが多かった。またそのことには読書という書き手と読み手の一対一の関係で育まれる秘教性があって、若者に決定的な影響を及ぼしやすい。ところが一方では正反対にヒトラーのような声を大にする扇動者に一気に靡く人も多い。それは読書と違って安易で、しかも周囲に飲み込まれやすく、その集団の状態に同朋意識を持ちやすい。新興宗教はみなそういう人間の特性を巧みに利用して洗脳する。元首相銃殺犯はそういう弱い人間の心を知っていたが、人殺しのために銃の入手を渇望したことは別の意味で弱さがあった。その弱さを母から受け継いだ。
 本書を読む人が無学ではさっぱり面白みがわからないだろう。もっと言えば、ヘッセは読者を大いに獲得するために安易には描いていておらず、その逆だ。シンクレールもデミアンも精神の選良を意識し、自覚している。したがって本書の読者はそれと同類である錯覚を与えられる。あるいは実際に選良であるような人しか本書の意図はわからない。そこが本書が古典になっている理由でもある。俗受けを狙う小説とは全然異なり、売れようが売れまいが、とにかく焦燥にかられて書かずにはおられない。本書はそういうものだ。それで最初は偽名で出版されたこともわかる。売名目的ではないのだ。筆者は今の日本のTVないし芸能界を見て反吐が出そうな気がするのは、すべて売名目的で、その卑しさが顔に表われているからだ。そういう連中は本書を読みもせず、本書をひとりで読み、大いに納得している人を「選良ぶっていて鼻もちならない」とでも言うだろう。だが、読んで自分で考えない意見はみなクソで関わり合わないことだ。本書の扉に本文からのわずかな引用がある。本書が最も言いたいことだ。「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」この「ひとりで出てこようとするもの」とは、真に自分がして満足することだ。それはシンクレールがそうであったように、またデミアンやその母との出会いが必要であったように、他人の手助けがまま必要だ。それは経済的なことではない。青年が経済的に貧しいのはあたりまえで、生活苦の中で自己を見出して行く。金が貯まって中年になってからではもう遅い。ヘッセは『郷愁』において猛烈に勉学に励んだことを書き、本書で自分探しに戸惑い、『荒野のおおかみ』ではまた街を放浪し続ける。本書でヘッセが「ひとりで出てこようとするもの」を探し当てたとして、それは真の出発に過ぎず、そこからまた新たな苦難が始まる。それゆえヘッセは小説を書き続けるごとに新たな自己を発見し、同時に多くを経験した。その一作ごとの脱皮は、芸術家であれば誰しも目指すべきであるし、大家と呼ばれる人はみなその経歴を持つ。そういう大家を敬愛し、「ひとりで出てこようとするもの」を見つけてそれに人生を賭ける人は、本書に倣えば自分も日々次の脱皮を目指して励む必要がある。だが、「ひとりで出てこようとするもの」を見つけられない人はいる。筆者はこのブログは誰かに求められているのではなく、自分が好きで毎日書いている。おおげさかもしれないが、それは「ひとりで出てこようとするもの」だ。筆者の本職の友禅やそれに関係する写生その他の準備などもほとんど全部そうで、金に替える術を知らないので一生貧乏暮らしだが、そのことを気にしたことが全くない。これは妻帯者としては無責任きわまるが、家内は家内の家族の誰よりも幸福な人生だと言われている。
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by uuuzen | 2022-09-24 23:59 | ●本当の当たり本
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