「
浜か山 どこに住んでも 危険あり 無事は尊く 平安重視」、「台風が 逸れて安堵の 凡人は いつか遭遇 自然災害」、「千成の 瓢箪ならぬ いちじくを 干して味増し ほしい人増し」、「いちじくの 青き小粒を もぎし跡 白き汁出て におい鼻つき」
19日に超大型台風が日本列島を襲来するとの予報があった。京都の上空は通過せず、日本海に逸れた。それはそれで安堵したが、ひどい被害に遭った県があって、まだ新しそうな家が壊れたり、家の中が泥だらけになったりした映像がニュースで紹介され、9月の災害の多さを改めて思う。日本は地震も多くてどこに住むのもリスクがあり、「漠とした不安」は芥川龍之介に限らない。平安無事祈願は何となく弱虫で不甲斐なく思われがちだが、飢饉も多かった江戸時代ではそれが最も人々の願うところで、まあそのうえに出来ればわずかに贅沢したいというのが人間の本性であった。ところが狡猾な者はいつの時代でもいて、調子よく権力者のお気に入りになって、名を売り、財を蓄えることに執心し、普通に暮らせば一生使い切れない莫大な資産を得てなおほしがる。彼らは地獄に落ちるのでどうでもいいが、TVをつけると必ず奴らのこれ以上醜いものはない顔が現われるので筆者は最近即座にチャンネルを変える。筆者は自分の人生が残り少ないとはまだ思っていないが、少しでも美しいものを見たい、感じたい。世の中はきれいなものがある一方、汚物はその何倍もあって、人々はよく目につく汚物を歓迎する。汚物もそれを喜ぶ人もすぐに歴史から消えて真に価値あるものだけが残って行くが、そう考えると人間は本能として美しいものを重視していることを知るが、残念ながら常に大量の汚物が世間に氾濫し、嫌でもそれらは目につく。そこで仏教は泥の中で咲く蓮を讃えるが、これは汚物に囲まれながら美を守ることであって、それが可能な人間は3歳までの子どもと、よほどの強靭な精神力を持ち、自己を律する大人だけで、しかも優しさがあらねばならない。そんな人はめったにいないようだが、知識欲とは無縁の人にも優しい人はよくいる。つまりIQには無関係で、むしろIQ自慢はすべてろくでなしと言ってよい。さて19日は風がたいしたことがないので嵯峨の遠方のスーパーに家内と出かけ、筆者が最初に籠に入れたのが今日のいちじくで、今年二度目の購入。筆者なりのプチ贅沢。見切り品ではなく、税込みで420円程度で、1パック当たりの数が最多のものを選んだ。1個当たりかなり大きい3個入りもあったが、数の多いものを選ぶところに筆者の性格が現われている。にぎやかなのがよく、また小粒はかわいらしい。いちじくはアダムとイヴがその葉で陰部を隠しているように聖なる植物の代表だ。今日の冒頭の最後の歌は筆者の小学生時代の思い出。真夏のまだ小さないちじくの実は幹からもぎ取ると白い乳液が滲み出た。それは内部の花を受粉させる精液なのだろう。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→