「
瓢箪の くびれひとつの トルソかな へちまきゅうりの ずん胴もよし」、「蘇鉄園 生きる彫刻 眺めよし 世話を尽くすも 大風に負け」、「成長の 遅き蘇鉄の 逞しさ いつも緑葉 人より生きて」、「吾死なば 蘇鉄委ねし 広き庭 狭き場所出て 大きく育て」

今日の投稿も13日の府立植物園で撮った写真の続き。園内の薔薇園の近くに蘇鉄があることは知っていた。同薔薇園には昔の春、何度か出かけて写生し、それを図案にしてキモノを2,3点作った。蘇鉄は江戸時代によく描かれたが、キモノ図案になったことはたぶんないと思う。留袖には使えそうだが、着る女性は限られる。蘇鉄は葉に特徴があって、一度見れば誰でも記憶する。国連の旗の地球を支える二手に分かれた葉は蘇鉄のようだが、これはオリーヴとされる。文様としての描き方ははるかに蘇鉄に近いが、オリーヴは西洋では歴史的にさまざまな物語に取り上げられて来て平和の意味づけが定着している。それに蘇鉄は南方の植物で、西洋からすれば馴染みの植物ではない。ただし蘇鉄は恐竜時代の1億年以上前から現在と同じ形で存在していたことが化石から確認され、国連を象徴するにはオリーヴよりもふさわしい植物ではないか。人間は相変わらず繰り返す戦争からして、今後1億年も生存するはずがなく、人間の絶滅後、また蘇鉄がゆっくりじっくりと繁茂することを想像すると悠久な気分になれる。これは人間に絶望しながらも生命に賛辞を贈ることであって、筆者は今日の冒頭の歌のように、現在所有する樹齢30数年の蘇鉄の2鉢を、筆者の死後に誰に大事にしてもらえるか心配している。それはペットを飼う気持ちと同じだろう。ずぼらな筆者はもらっためだかを小さな2槽で育てているが、犬猫の世話はとても出来ない。ほとんど放ったらかしでよい蘇鉄は筆者向きなのだ。放置状態でも嫌でも目につくし、また何となく勢いがわずかに増している様子が葉の伸び具合からわかることが楽しい。先日嵯峨のホームセンターに行くと、花売り場で目の高さ以上の棚に小さな蘇鉄の鉢が5,6個並べられ、最大の樹齢20年ほどのものが7500円の値札がついていた。わが家のものよりはるかに見劣りするが、長年身近にあれば愛着が湧く。一生育てても鉢植えでは人の背丈ほどに生長せず、このあまりに生長の遅さがとても愉快で、教えられることがある気がする。それに都会に住む無名の庶民としては成長の速い樹木を育てる贅沢は許されない。高さ1メートルほどの蘇鉄ひとつで陽当たりのよい1坪の土地は優に必要であるから、成長が遅いことは慰めにもなる。筆者は所有する空き家の隣家の裏庭に鉢植えの蘇鉄を地植えしてやろうと発作的に思うことがしばしばあるものの、陽当たりがあまりよくない。それに筆者の死後は世話する人がない。どこで悠々と過ごさせようかと心配している。だが他の所有物とともになるようになる。

今日の写真は府立植物園の薔薇園近くで、この堂々たる眺めは京都市内では最大の部類だ。伏見の
御香宮の蘇鉄より規模はやや大きいと思うが、広大な土地にあるので眺めははるかによい。最初の写真を撮りながら、左端ぎりぎりに奧の銅像、右端に奧の蘇鉄を写し込み、また写真中央左寄りの煙突状の蘇鉄の幹に着目した。そのてっぺんに葉があったはずで、たぶん台風で折れたのだろう。成長点がなくなったのであればもうその頂点の高さ以上に成長しないが、幹の途中から新たな株が出て来る。途切れた幹の高さは4メートル近く、植物園造成時にそれなりに大きなものを移植したのだろう。これほどの蘇鉄を個人で所有するのは、土地が安価な田舎は別として京都市内では大会社の社長にしか無理だ。それほどの大きな蘇鉄が府立植物園にあることは庶民にはありがたい。入園料は200円の安価で、筆者のような70歳以上の市民は無料であるので毎日でも散策したいが、近くの下鴨や北山の地価は昔から庶民には手の出ない高額だ。つまり蘇鉄のことを考えると経済力に思いが行き着く。田舎暮らしの経験のない筆者は田舎で暮らす発想がない。そこで筆者が所有するガレージに隣接する50坪ほどの畑をその所有者が筆者に買い取ってほしいと昔から言っていることを思い起こすが、その価格が捻出出来たとして、50坪は広過ぎて71歳の筆者には世話し切れない。人生は短い。これから急速に体力が失せて行くことを考えると、新たに入手することより持っているものを手放して行かねばならず、巨大な蘇鉄はたまに見るだけで満足し、手元にある2鉢をせめて大事にせねばならない。それこそ無名の庶民に許されるささやかな満足で、蘇鉄は身分の応じてその大きさが決まっている。今日の2,3枚目の写真は最初の写真の蘇鉄を囲む形で点在している別品種の蘇鉄で、昨日の2枚目の写真の蘇鉄とも違う品種かもしれない。世界にどれほどの種類の蘇鉄があるのか知らないが、幹が割合高く成長しやすいものがあるだろう。わが家の蘇鉄は幹が全く伸びずにずんぐりしたままだが、普通は30年も育てるともっと幹らしくなるのではないか。そうならないのはもちろん生育条件として、品種の違いが大きな理由だろう。写真の蘇鉄は見比べると別品種であることはわかるが、個別に見ればどれも「蘇鉄」で違いがわからない。葉が爆発状態で八方に開き、その単純な力強さが面白い。「芸術は爆発だ!」の岡本太郎に倣えば、「爆発蘇鉄は芸術だ!」ということになる。そして恐竜時代から生きていることは恐竜も芸術を知っていたことになるが、人間は芸術を理解せずに筋肉自慢の者が多々いて、彼らが権力を持つと平気で兵器で人殺しをし、街に爆弾の雨を降らせる。彼らはそれがまるでジャクソン・ポロックのドリッピング絵画のように芸術的であるとでも思っているのだろう。話は逆でポロックは絨毯爆撃から自作を思いついたか。

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