「
措いたまま 老いたままなる 半世紀 反省気分 沸き立ち読破」、「生前の 本を手に取り いとおしき 父母読まず 吾が代わりて」、「そっと手を つけし蘇鉄の 葉は痛し 致し方なく 泣く子に添いて」、「耄碌し もう楽したい 漏らしたし もらいし齢 半ば用なし」

今日も撮りためた写真の消化。最初と2枚目は去年の5月25日、嵯峨のスーパーへの途上、3枚目は去年6月2日で、梅津の筆者が京都に出て来た頃に住んだ下宿アパートの近く。当時この鉢から溢れて憐れな状態になっている蘇鉄をどこで見かけたか忘れしまい、向日市かと思って自転車で何度か走って探し回ったがわからなかった。思い出せないことがあれば気持ちが悪い。それでどうにか思い出そうと必死かつ冷静に考えてもさっぱり見当がつかない。そういうことは本を読んでいる時によくあるが、10分ほど読み直せば必ずわかる。見かけた蘇鉄が気になってから2,3か月後、息子と西京極の温泉に行った帰り、めったに通らない道を自転車でたまたま走ってついに発見した。筆者が通る道はごく限られているのに、その道を思い出せなかったのは、思い入れがないからだろう。その倉庫上の木造アパートにはきっかり2年住んだ。またこのことは以前に書いたが、家主の40代半ばの男性はあまり温かみがなく、家賃を毎月支払う以外は話したことはなかったが、小学生の子どもを3人ほど育てていた奧さんもよく覚えている。やや豊満な肉体の丸顔の美人だが、ぶっきら棒であった。その夫の母親は筆者を見かけると常に笑顔で話しかけて来て、しまいにはお嫁さんの悪口を言い出し、筆者は応対に困った。旧四条通り沿いの旧家であることを自慢していた家主であったのに、10数年前に家は売られ、小さな家が4,5軒建った。家主が死んで財産分与されたのだろう。旧家でもはかないものだ。名を残さない普通の人は死ねばすぐに忘れ去られる。旧家前の古い店もなくなったが、細い道はそのままで、筆者は西京極に行く時にその裏通りを通ることが多い。道が細くて曲がりくねっているので印象深くはあるが、どこか陰鬱で、筆者はめったにその道を利用しない。その道に3枚目の写真の蘇鉄があって、植木鉢は割れているのに蘇鉄は限界状態で元気だ。もういい加減に植え替えればいいものを、その措置にも困るほどに大きいので放置しているのだろう。それにしてもどこで見かけたのか忘れていたこの蘇鉄が、ふたたび急に現われて狂喜した。予測のつかない時に思い患っていることが解決するもので、忘れて困っている時は一度その困り事を気にせずに忘れることだ。すると向こうから気づいてほしくて寄って来る。女性の心もそれと同じとは言わないが、追いかけるのを止めて素知らぬ顔をすると先方はさびしく感じて何か打診して来る。とはいえ、そういう恋の駆け引きに巧みであることよりも、女性にさほど関心がないほうが心穏やかでいられる。

これはひとまずいいかと棚上げしている事柄は誰しもあるが、そのまま忘れてしまうことがたぶん多い。罪悪感がなければそうなる。罪悪感と言えばおおげさだが、読みかけて途中で放り出した本を筆者はほとんどどれもよく覚えている。読書三昧で日々を過ごすほどの暇を得るには年金暮らしにでもなった頃でなければ無理だが、年金がわずかであれば金の心配はそれなりにせねばならず、本ばかり読んでいる気にはなれない。それに本代も場合によっては月に数万円は費やす。そして1冊読み終えれば10冊はほしい本が出現するから、読書時間はますます減少する。そこでまた罪悪感が生じる。これは困ったことで、はたと何を目的で生きているのかと考えることがある。そこでつまらないことに時間を費やすことは極力避け、充実した時を過ごすことが何よりも肝心と至極あたりまえのことを思い返すが、その充実した時間は読書以外にただぼんやりとしている時にも感じられ、結局日々常に充実していると思うことにする。前述の罪悪感もさっさと本を読み終えれば即座に解消するし、次に湧いて来る罪悪感はそれはその時に対処する。一度思ったのに成し遂げられぬことに罪悪感を抱くとして、実らなかった恋をいつまでも残念に思う人はいるだろうか。筆者にはそれはない。むしろかつて大いに熱を上げたのに、老いて一変した姿を見て幻滅することのほうが多い。美しく老いる女性はもちろんいて、それは男もだが、珍しい存在だろう。その美しさは肉体ではなく、全身から発せられるオーラだ。老いてそれを輝かせるにはそうとうな努力が欠かせない。あるいは女性の場合はいかに夫に大事にされているかで決まる。もっとも、夫が残念な心持ちであれば妻もそれに準じる。そこで前述の旧家の夫婦に話を戻すと、夫婦はとても釣り合いが取れていた。夫の母親の顔は息子には全然似ず、屋敷の離れでひとりで住んでいたが、その離れの暗い土間の台所で毎朝筆者が歯を磨く時、その老女は顔中に笑みを作って筆者をよく迎えた。筆者は彼女の孫にすれば年配で、子どもにすれば幼なく、彼女は憐憫も手伝って筆者を温かく見つめていたといった感じだ。そのことは筆者によく伝わった。ところで、当時筆者は蘇鉄には無関心であったが、年齢を重ねると好みの植物が絞られて来る。蘇鉄のような女は想像がつかないが、カンナの花ならイメージがある。ただしそういう女性と話したことはない。再会すれば昔と変わらぬ状態で親しく話せると思う女性は何人かいるが、老いても輝いているのでなければ会いたくはない。同様のことは先方も思っているはずだが、筆者は若い頃の罪悪感を少しでも消すために最近は特に日々努めている。そうそう、
コスモスの一鉢を育てていたのに、強風で鉢が倒れ、中心の茎の半ばからすっかり切断されてしまった。小さな蕾が3,4個ついていて、それはほんのり赤かったので、赤の花が咲く予定であった。

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