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●「IH AVARGUUD」
碌を 嫌って死ぬや 午後六時 残りの夜は 寝たと思えば」、「出稼ぎで でかくなる者 デカおらず サツに追われて 札束手にし」、「目立つには 目のつけどころ 目玉なり 目を大きくし かわいく化けて」、「調子者 お銚子ひさげ 蝶の舞い がっつり稼ぎ すっかり太り」



●「IH AVARGUUD」_d0053294_00205309.jpg
5月29日に万博公園内の国立民族学博物館にひとりで出かけ、企画展『邂逅する写真たち モンゴルの100年前と今』を見た。午後遅く家を出たので、見る時間は閉館までの1時間しかなかった。円形の館内は2階建ての吹き抜けで、2階は1階を見下ろす形の回廊になっている。1階をじっくり見れば、疲れも手伝って2階は時計回りに飛ばし気味に一周することになるが、2階の展示が1階よりつまらないというものではない。『邂逅する写真たち』は百年前にヨーロッパ各国人が撮った写真と現在活躍中のモンゴルを代表する若手男性写真家の作品を展示し、写真主体の地味な展覧会であったが、2階のある部屋からはヒップホップの音楽が流れていた。暗いその部屋に入ると当の音楽の映像が大きなスクリーンで映し出されていた。繰り返し主体の短調のメロディで、歌詞の意味は全く不明ながら、懐かしさ、切なさを感じた。閉館まで10分もない頃で、駆け足で2階を回る必要上、映像は20秒ほど見た。出入口付近にそのコーナーで繰り返し上映されているらしいYouTube映像についての無料パンフレットが置かれていて、それを1部手提げ袋に入れたからでもある。『モンゴルヒップホップPVコーナー・解説パンフレット』と題し、表紙を含めて12ページだ。その最初の文章に『本コーナーでは、実行委員会の島村が独断と偏見で選んだモンゴルヒップホップの代表的な曲14曲がループで流されています。……」とあって、以下YouTubeで検索出来るように各曲の題名、演奏者が記される。筆者は14組の音楽をざっとパソコンで視聴したが、やはり会場で耳にした「IceTop」というグループが現在のところ最もよく聴く。また先月取り上げた「The Hu」はモンゴルのヒップホップ曲を聴く過程で知った。パンフレットを作成したのは民族学博物館に所属する島村一平で、筆者は初めてその名を知り、また同パンフレットに書かれる彼の著作『ヒップホップ・モンゴリア―韻がつむぐ人類学』を早速購入し、現在ちょうど半分を読み終えている。今日の投稿のために全部読み終えたかったが、筆者は常に数冊を並行して読んでいて、また今は他のことに気を取られていることもあって読む時間を見つけられない。数冊を同時に読むと記憶がこんがらがるようだが、筆者の場合それはなく、どこまで読んだかをよく覚えていて、また他の全然関係ない本を読むことで意外なつながりを見出す。そのことはこのブログに反映していると思う。ブログの投稿題名に関係のないことを書くことが多く、特にそのことに他の投稿との関係を張り巡らしている。
 『ヒップホップ・モンゴリア』はおおよそ想像していたことが書かれ、意外な発見はない。モンゴルのヒップホップの歴史を多角的に紹介しつつ、本の題名にあるように、韻について実際の曲の歌詞を例に詳しい説明を施す。本の半ばがそれで、これはモンゴル語のわかる人ならば理解しやすく、また楽しいだろう。ところがモンゴル語は今日の題名の曲のようにアルファベットで記述してもどう読んでいいかわからない。そのため、モンゴル語に韻を踏みやすい発音の仕組みがあるとして、またそのことをヒップホップの作詞者が他のミュージシャンにない工夫としてひねり出すとして、そのことがどれほど詩として優れているのかどうかはわかりにくい。そこで日本のヒップホップを思うことになるが、筆者はその知識がほぼ皆無だ。去年だったか、TVで在日韓国人の男性ヒップホップ・ミュージシャンのドキュメント番組があって途中から見て、かなりの人気者であることがわかった。ただし、今世紀に入って特に著しくなって来たように思うが、大衆音楽は棲み分けが著しく、人気があると言ってもそれはごく内輪のグループだけのことだ。先の在日のヒップホッパーもTVでドキュメンタリーが紹介されなければ、またそれを見なければ大多数の音楽ファンは存在すら知らない。それはTVの音楽番組向けの音楽では決してないからだ。またそういうものを求めている人にとっては彼の音楽はカリスマの塊に見えるが、若者が求めているものは実にさまざまで、TVの音楽番組に登場しなくても万単位の観衆を集めるミュージシャンもいる。たとえばどこかの野外会場でびっしりと観衆が埋まり、全員ペンライトを持って同じ振りをしながら演奏に聴き入っている映像がよくTVで映るが、筆者はその演奏者の名前も音楽も知らず、またわずかに聴いての感想だが、じっくり聴く気になれず、したがって言葉は悪いが、数千の若者が真面目に感動して聴き入る姿に一種不気味さを思う。一方では日本のグループ・アイドル歌手を好む人々が大量に存在し、また一方ではK-POPを歓迎する若者も同じほどにいるようで、音楽をやりさえすれば必ずファンがつくと言ってよい時代だ。またその音楽の価値はファンの数で決まらず、ファンは自分が好きであれば同じ思いを抱くファンが少なくてもかまわない。そして自分こそは当の音楽家に対する最大の理解者であるという全く根拠のないミーハーぶりを主張して恥じないが、そういうおめでたい幸福な人がいるのでミュージシャンになればどこかで誰かがファンになってくれる。またその甘い幻想があるので、ミュージシャンになりたがる者が絶えない。いずれにせよ、音楽を通じて表現者と聴き手がつながり、双方に生きる希望が生ずるのはよいことだ。そして人がさまざまであることに応じて音楽も存在し、音楽ファンは好きな曲、ミュージシャンを見つける。
 ヒップホップはアメリカの貧しい黒人が生んだもので、ラヴ・ソング以外では社会の矛盾を歌詞にすることは想像がつく。前述の在日韓国人の曲も出自ゆえの差別をテーマにし、それを現在の若者の生きにくさに広げているところが、熱烈なファンを獲得する理由になっていたが、確かそのミュージシャンは活動を辞めた。その理由はさまざまだろう。歌うべきことは全部歌ったというやり遂げ感や、反対に表現に行き詰まり、生活が成り立ちにくくなったということもある。それはいいとして、日本のヒップホップは日本語ゆえの韻の踏み方に限界があって英語より表現の幅が狭いかと言えば、それは断定出来ない。韻が揃っていると耳に馴染みやすく、歌いやすいが、ヒップホップでは目立つ極端な字余りのぎこちなさも若者は面白さとして受け入れ、歌詞に込められる意味のほうが大事だろう。ロックもそうだが、ヒップホップは特にそうだと思う。何を主張するかが最も重要で、韻だけが面白いのであればユーモアを持った遊びとなる。そうしたヒップホップの曲として数年前に世界的に大ヒットした日本のピコ太郎の例があって、ヒップホップが社会の矛盾を突くといった内容のものばかりでないことは容易に想像がつく。つまり、ヒップホップ以前のポップスのすべてを包含している。筆者は知らないが、日本で地道な活動を続け、固定ファンを得ているヒップホッパーがそれなりにたくさんいるのだろう。かつてヒップホップを演奏していた人物がライヴハウスの経営者になっている場合もあるはずで、それなりにヒップホップ文化が根づいていると想像する。そこで彼らの世界では誰が歌詞が特に巧みであるかの評判は立っているはずで、韻についてもさまざまな可能性が追求されて来ていると思う。その歌詞が日本の詩ないし歌詞の系譜とどうつながるのかという研究もあるのだろうが、語るように歌うヒップホップはメロディが際立つ曲よりも詩に近く、その意味でより文学的な位置を確保しやすい。だがヒップホッパーが日本の高踏的な詩を知悉しているとは考えにくく、彼らはファンを獲得しやすいように平易な言葉で卑近なことを歌うだろう。アメリカのヒップホップの影響を受けたからにはそうなるしかない。そこでモンゴルのヒップホップがどういうものであるかはおおよそ想像がつく。それはアメリカあるいは日本が実践した音楽性をひとまずざっと模倣吸収しながら、モンゴルの言葉特有のリズム、韻を踏んだものになる。ウランバートルは急速な近代化のため、ひどく貧しい人たちもいるので、社会の矛盾という題材においても引けを取らない。そういう人の中から、あるいはそういう人に同情する人がヒップホップ界を牽引して行くが、外国のあらゆる大衆音楽を学び、他者が鑑賞出来る形に作り上げるには経済力が必要で、ドン底の貧困からヒップホッパーが生まれる傍ら、経済的に恵まれた者からも出て来る。
 格好いい映像を作るのも資本が必要で、ギター1本と歌で一発録りでシングル盤を1枚作るという半世紀前の手法では今や成功者にはなれない。『ヒップホップ・モンゴリア』はヒップホップ文化のなかったモンゴルがアメリカや日本に遅れながら、モンゴル全土で多くのミュージシャンを輩出していることの理由を詳しく書くが、それは簡単に言えば筆記文化ではなく、口述文化が古くから発達し、韻を踏むことが自然と生活の中で行なわれて来たからで、ヒップホップはモンゴルでこそ大いに花開いたと主張する。それは日本語と違ってモンゴル語が頭韻も押韻もしやすい母音と子音の組み合わせであることも大きな理由で、この点は言葉の意味はわからないものの、YouTubeで何度も同じ曲を耳にし、その言葉のリズミカルな様子は感得出来る。ただし、モンゴル語はわからないので興味はそこまでに留まる。それを言えば英語がほとんどわからないのに英語の曲を楽しむ日本人をどう説明すればいいかということになるが、そこは戦争で負けた日本のアメリカ崇拝から説明出来るだろう。モンゴルは300万人の人口で経済的にも日本とは比較にならない小さな国だ。そこで生まれるロックやヒップホップに関心を抱く理由は、急速に欧米化している小さな国がロックやヒップホップをどう受け入れ、自国独特の要素を盛っているかというプリコラージュ的面白さを思うからだろう。近年は日本の70年代のニューミュージックが欧米で人気が出て来ているというが、それと同じことと言える。つまり、モンゴルはロックやヒップホップを大いに受け入れ、実験中の段階にある。その果てに、あるいはすでに獲得されているかもしれないが、世界に誇る独創性が表現され得るかもしれない。これを書きながら筆者はザッパやビーフハートの音楽を思っている。60年代のアメリカやイギリスのあらゆる大衆音楽が今やネットで自由に参照可能で、モンゴルのザッパやビーフハートと呼べるような才能があるのか、今後登場するのか、そういう関心を筆者が抱くのは、人口比の圧倒的な劣位にあるモンゴルではまず無理と否定的に見るからだが、その観点からモンゴルのヒップホップの底の浅さも言えてしまう気がする。『ヒップホップ・モンゴリア』に書かれているが、モンゴルのヒップホッパーたちは俗受けすることを否定しながら、売れないことには意味はないというジレンマを抱えている。その葛藤の度合いに応じてモンゴルの大衆音楽の色合いの差、面白味の違いもあるが、その葛藤はどの国の正直なミュージシャンでも抱えている。また経済発展途上にあるモンゴルでは、ロックやヒップホップのミュージシャンは世界的人気を得るところまで夢見ているであろう。チンギス・カンを尊敬するならなおさらだ。そして彼らのYouTubeの視聴回数は大半がモンゴル人によるものかどうかだが、この点はわからない。
 『ヒップホップ・モンゴリア』にはモンゴルの伝統とされるホーミーや馬頭琴が恣意的に近代に作られたものであることを書き、たとえば「The Hu」のロックはモンゴルの伝統的要素を前面に押し出しているように見えて、その伝統は新しいことを読者に伝える。となれば受容そして表現が多彩化しているヒップホップもいずれはモンゴルの伝統とみなされる時代が来る。この文化の混じり合いはどの国のどの時代でも起こっている。その国独自のものと思っているものが、他国から持って来られたものということは珍しくなく、またそれは恥でもない。移植された途端、その地で新たに根づき、新たな花を咲かせるからだ。その視点に立ってモンゴルのヒップホップを楽しめばいいということだ。さて、筆者が民族学博物館の企画展でわずかに見聞きしたIceTopの曲は2013年の「友の絆に栄光あれ(NUHURLUL MANDTUGAI)」だ。150万回の視聴数で、彼らの曲では最高数ではないだろうか。メンバーは刺青を入れ、アウトローの雰囲気を発散している。この点はいかにもヒップホップらしいが、モンゴルで若者の刺青が否定的に見られているのかどうかは知らない。島村がなぜこの曲を選んだかだが、初期メンバーが死んだためか、あるいは筆者がまだ読んでいない『ヒップホップ・モンゴリア』後半に理由が書かれているのだろう。筆者は彼らの曲では最初に聴いた同曲よりも、YouTubeで聴いていてびっくりしたのは、朝青龍などのモンゴル人の力士映像と相撲のTV中継画面と音をサンプリングした曲「IH AVARGUUD」で、この題名の意味はわからない。ヒップホップが他人の曲の一部を引用することは珍しくない。許可を得なければ訴えられる時代でもあるが、TV画面の音と映像を用いるのは自由だろう。しかも映像はモンゴル人の横綱で文句は出ない。歌詞の意味はわからないが、モンゴル人が日本の相撲界で大活躍していて来ていることを誇っているに違いない。現在の日本の相撲界はモンゴル人がいなければ全く成り立たない。欧米勢は腰高で、相撲には向いておらず、今後もモンゴル人に頼るしかないが、今後のモンゴルの経済発展如何では日本に出稼ぎに来る魅力はなくなる。相撲界よりもっと大きく稼げるスポーツがいくらでもある。日本はあらゆる分野でそんな危機を考えず、今がとりあえずよければそれでいいと考えている。大地震や台風など、先に何があるか誰にもわからないので、そういう楽観的な思想が根を張って来たが、そんな生き方も悪いとばかりは言えない。国技とされる相撲も、日本人力士がさらに弱くなり、相撲ファンが減って行けば組織を解体、あるいは別の規則を作って「新相撲」を作り出せばよい。どうせならオリンピック競技にするように働きかければどうか。それはともかく、モンゴルのヒップホップは「ニュー・ヒップホップ」と呼ぶべきか。
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by uuuzen | 2022-08-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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