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●『felissimo chocolate museum』
(ひたき)かな ネットで知るや 野鳥の名 姿もわかり 心に火焚き」、「チョコレート 甘さと苦さ 生の比喩 ふたつ混じりて 茶色の渋さ」、「見晴らしの よき高みにて 茶を喫す 姿丸見え 目立つも楽し」、「面白き ことのなき日は 本を読み 歌を詠むのも 気晴らしになり」



●『felissimo chocolate museum』_d0053294_13143202.jpg 7月21日の神戸方面行きは5月19日以来のことだ。2か月前にかなわなかった施設に行くことが目的のひとつでもあって、昨日投稿した神戸市立博物館で展覧会を見た後、同館前の大通りを南下し、フェリシモ・チョコレート・ミュージアムに向かった。5月19日は同館の南側、海に面した通りから大きな階段を上り、広いテラスにあった扉から同館に入るのかと思ったが、扉は開かなかった。休館か、夕暮れなので閉館かと思って諦め、同館北側の道を東に進んでKIITOを目指した。それらのことは当時のブログに書いた。KIITOの内部には5年前の秋に一度だけ訪れた。郷土玩具の企画展があって、館内の別の場所も含めて写真をたくさん撮ったのに写真がどこへ消えたかわからず、同館でのことは4,5回に分けて投稿する予定であったのに、それが出来なくなった。そのことが残念で気になり続けているが、それを言えば切りがない。両手で水をすくって別の場所に移す場合、必ず手からこぼれ落ちる分がある。それは諦めねばならない。それはさておき、5年前の秋にKIITO内部を一巡した時、建物の奧のほとんど外からの光が入らない洞窟のような雰囲気の内部にフェリシモが入っていて、同社の商品が見られた。フェリシモは70年代に流行った千趣会のような会社と思う。これは毎月一定の金額を支払うと毎月商品が届き、1年や2年、あるいはもっと長い年月でシリーズ商品が揃う仕組みを専門とする会社だ。今はデアゴスティーニが出版の形でそれを大きく手がけていて、そういう月極めの商品販売の方法の発祥は欧米かもしれない。シリーズ商品を全部揃えたい思いは日本では特に強いのかどうか知らないが、文学全集や美術全集を全巻買うことは筆者の6,70年代にあった。もちろん戦前から文学でも美術でも全集はあって、筆者は近年は日本における美術全集の出版の全貌を知りたいと思うようになっている。話は少し脱線するが、時代によって取り上げられる画家が変化して来ているからだ。昭和30年代の美術全集には、もはや現在ほとんど誰も知らない画家が取り上げられている。ところがその画家の作品はこの世から消えたのではなく、愛好者はいる。ただし、その数は激減し、おそらく作品の市場価格も大いに下がっている。ということは、美術全集を企画する学者の好みで美術家の評価が激変することでもあるが、これは時代の好みを反映してもいて、仕方がないとも言える。そう考えると、文学者も美術家もよほどの巨匠でない限り、没後百年を隔てずにほとんど忘れ去られるのであって、他者からの評価を気にせずに好きなように作品を作ればいいと思う。
●『felissimo chocolate museum』_d0053294_13145820.jpg
 だが、文学者も画家も作品が売れねば食い上げになるから、世間の評判を気にしないことを貫けるのは世間での評価が安定してからのことだ。あるいは別の仕事を持って生活を安定させるかで、大多数の作家はみなそうしている。その場合、俳句や詩といったように、頭の中で思考を巡らせ、そのことで完成する作品を目指す者は有利だ。筆者のように、下絵から染色まで複雑な工程を経る必要のある友禅染めとなると、1作仕上げるのに2,3か月、場合によっては1年要するし、また広い仕事が必要で、しかも座って根を詰めねばならない。それで筆者はほとんど冗談だが、冒頭の短歌のようにせいぜい10分もあれば頭の中で作り上げられることに時間を割くようになっている。また短歌はこのブログが長文であることに対し、極限の短さで思いを伝えることの練習の場にしている思いと、俳句は誰でも簡単に作り得ることに対し、短歌は少し違うと長年思っていたからでもある。また筆者は何事においても独学で、誰かの作品を参考にすることはない。さて、昨日もそうであったが、即興でこの文章を書きながら、話の本筋に戻らねばならない思いは常にある。そこで全集に話を戻すと、出版社が「全」という言葉の魔術を使うのは、ひとつでも欠けると落ち着かない思いを狙った巧妙な洗脳と言ってよい。ただし全集の購入者は全集から漏れた文学者や画家がいくらでもいることに気づいている。つまり、全集は無限に作り得る。たいていの人は全集が全部発売される前にそのことを知り、全集の最後の数冊は買わないことがある。それで出版社は全集の創刊巻は割安に設定し、また誰でも知る有名作家を取り上げる。逆に言えば、最終の刊行は地味な作家で、出版数も少なく、全集の最後辺りは尻切れトンボの雰囲気になるが、20年ほど経つとそういう地味な発行部数の少ない巻が入手困難となる。ところで、音楽全集として60年代にクラシックの大作曲家を揃えたものがあったが、CDで同趣向のものはよくある。それに倣っていずれは6、70年代のロック全集が作られるとして、参与する評論家次第で誰をどの程度取り上げるかが決まり、過大と過小の評価が同居するミュージシャンたちが揃う。それだけならまだしも、完全無視されて全集に入らない者も大勢いるだろう。そのことから敷衍すれば文学や美術の全集も眉唾ものと見る思いを捨てないほうがよい。さて今日はなぜこんなことを書くのかと自問すると、昨日の投稿が物足りなかったからでもある。それこそ尻切れトンボの投稿となってしまったが、それを言えば先に書いたように、両手ですくう水が必ずこぼれ落ちることは仕方がなく、もう1回両手ですくうしかなく、今日の以上の投稿はその思いの反映だ。というのは言い訳で、それがいいわけではないが、今日は使うべき写真が多く、なるべく雑談を多くする思いが反映している。
●『felissimo chocolate museum』_d0053294_13151254.jpg 5年前の秋にKIITO館内でフェリシモを見た。それが自前のビルを西200メートルほどに建てたのは営業成績がいいからだ。月極めの通販会社が日本に何社あるのか知らないが、TVでよく宣伝するデアゴスティーニと違ってフェリシモのコマーシャルを筆者は見たことがない。KIITOでは同社の商品として色鉛筆があった。500色あって、そうなれば色名に困り、同社では短歌のような長い詩的な名称を各色につけている。それを筆者はまともに読んだことがないので色名として適格かどうか判断出来ないが、そういう名称は女性向きで、またある一定の雰囲気を持った人格を対象にしていることはわかる。筆者は50色の色鉛筆を持っているが、ほとんど使わない。使うのはもっぱら赤と黄色色で、色数の多い色鉛筆は飾りであって、しかも邪魔なものだ。そのためか、ネット・オークションではフェリシモの500色の色鉛筆はよく出品されている。色鉛筆は特定の色が減りやすく、500色を一列に並べると凹凸の山になる。それほど描いたのであるから、それは使用者の勲章のようなものだが、他者からすれば半ば消耗した使用品で、手垢がついたものに思われる。またよほど描く人でも500色は使い切れず、色の差もほとんどわからない。それにある色を使い切っても1本だけフェリシモから購入することは出来ない。となればトンボ製のせいぜい50色で充分だが、色数が多いほどにそれを並べてうっとりする人がいる。これは全集を買い揃え、その背表紙を見て楽しむ人と同じで、あるだけで安心する。だが、500色の数にする理由は千では多く、600では中途半端という商売上最適と考えられたためで、色相に偏りがあるはずだ。また化学合成された色であるから、たとえばヴェラスケスが用いた不純物がわずかに混じる赤や白とは違うだろう。これは日本の顔彩にも言える。顔彩を小さな長方形の皿に固め、それを10や20個セットにしたものが売られているが、その元になった顔料が問題で、江戸時代の絵のような色合いが今は市販品で容易に入手することは出来ない。平山郁夫がシルクロードに取材して現地で描いた顔彩による素描は、緑色がとても味わい深く、おそらくそれは特別に調合して作ってもらったもののはずで、三原色を基本にした色数の少ないものでは含まれない。500色あればどの色もそこに含まれると考えがちだが、文学や美術全集から必ず漏れる作家が存在することと同じで、500色は万能ではない。むしろ500色は不要で、ごく限られた、たとえば10色程度で個性を発揮しようと江戸時代の画家はもがき続けた。その10色は不純物がわずかに混じって濁りがあり、そのことが今では逆に市販の絵具や色鉛筆では発色が無理になっている。その濁りを菱田春草は絵具を混ぜ合わせて発色させた。それは絵具の色数が少なくてもよいことを意味している。
●『felissimo chocolate museum』_d0053294_13155006.jpg さて、フェリシモがチョコレート・ミュージアムを自社ビル内に作ったことはどういう理由からか。神戸にはUCCの施設があって、そこでは同社のコーヒーが飲めるが、フェリシモはいつからチョコレートを扱うようになったのか。そして同館でそれが販売されているのか。そういう疑問があったので訪れたが、フェリシモはチョコレートの販売を手がけず、最初に蒸したカカオの匂いが漂うコーナーがあって、そこから狭い通路の両側の展示室に入ると、ガラス越しに戦後から現在までのチョコレート商品のパッケージがわずかに展示されていた。時代をそれぞれ反映して筆者のような高齢者には懐かしさがあるが、子どもの頃の筆者が食べたチョコレートはグリコや森永で、かなり遅れてロッテのガーナ・チョコが参入したしたことを知っているが、そうしたものは一切展示がない。せめてチョコレートが日本に入って来た頃、明治や大正期の包装紙は無理でも、新聞の商品広告の紹介はあってしかるべきだろうが、それは森永や明治の大手が自前の施設でやっていることかもしれず、フェリシモが戦後のパッケージに絞ることはひとつの考えだ。だが、神戸で有名なチョコレートを扱った、あるいは扱っている会社の商品の宣伝になっては具合が悪い、あるいはそうでないかが鑑賞者にわからない。今日の写真からわかるように、モロゾフの商品が展示され、フェリシモは神戸の会社らしく、モロゾフと提携して今後は若者向きの洒落たデザインのパッケージを専門に手がける、あるいはすでにそうしているのだろうか。その、何をどう扱うかの考えが展示からはわかりにくく、パッケージの展示はかなり中途半端に見え、フェリシモがチョコレートでどういう商売をしているのかがよくわからない。写真を撮らなかったが、倉庫のような暗い正方形に近い部屋があった。そこは四方とその背後が天井まで達するガラスを被せた陳列場で、かなりだぶりはあったが、世界のチョコレートとその関連商品のパッケージが保存されていた。それらは同社が根気よく集めた資料だろう。それらを基礎に時代に応じたパッケージ・デザインを考えて行こうとしているとして、同様のことはパッケージ会社では大なり小なり行なっている。そうしたグラフィック・デザインの仕事はフェリシモのようなそれなりの大手ではなく、半ば個人業種が才能を発揮しているはずで、そう考えるとなおさらこのチョコレート博物館を銘打つ施設の意味がわかりにくい。そこで思ったのだが、自社ビルに余裕があったので、何かに使おうということで今後手を広げて行くつもりのチョコレートのパッケージ展示のちょっとした歴史を紹介することにしたのではないか。ネット時代であるので、同館を訪れた感想はもうたくさん出ていると思うが、入場料に見合う展示かとなれば、否定的な意見が多いだろう。筆者はそれなりに楽しんだ。写真をたくさん撮ったので、明日続きを書く。
●『felissimo chocolate museum』_d0053294_13163527.jpg

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by uuuzen | 2022-08-29 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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