「
梢切り 幹太らせる 盆栽は 今の日本の 姿と似るや」、「巨匠の絵 無数に満ちて 未知の道 命短し 無知のまま死す」、「カリスマは 仮に住まうや 霞とて あるかに見えて なきにも思え」、「大きな絵 遠き異国で 大展示 画家も大変 運ぶも大儀」
7月21日は西宮市大谷記念美術館を出て西国街道を西に歩き、阪神打出駅から三宮に出て昼を食べ、それから神戸市立博物館に行って今日取り上げる展覧会を見た。ネット予約の必要はなく、会期は7月16日から9月25日までだ。本展のように宣伝が行き届く企画展は、会期の終わりに近づくほど混雑するので、早い目に出かけた。思いは当たり、比較的空いていたものの、どの絵の前にも人はいた。マスク着用で、声を出す人はないので、展覧会はコロナ感染の場とはならないだろう。当日本展のチラシは3種類ほど入手した。ところが出品目録が見当たらないので、本展ではないのかもしれない。図録を買わず、今日の投稿のために役立つものは見開きのチラシのみだ。これが表紙を含めて10数点がカラーで紹介され、それらは本展の目玉的作品であるから、図録の代わりになる気がする。本展は「ルネサンス」、「バロック」、「グランド・ツアーの時代」、「19世紀の開拓者」という4章に分けられ、90点ほどの展示で、各章ごとに順に展示されていなかった。ほとんどが油彩画で、かなり大型の作も目立った。欧米の有名美術館から作品を借りて来ての展覧会は戦後以降たぶん千以上はあっただろう。もう新たなに借りる目ぼしい美術館はないと言ってよいほどと思うが、どの美術館も千や万単位の作品数があるので、現在の調子で借り続けても千年以上かかる。つまり、個人が生きている間に実物に対面出来る美術品はごくごくわずかで、なるべく名画を優先的に見たいと思うのは人情だ。外国の美術館から借りるとして、会場で並べられる点数を勘案し、目玉作品を何点揃えるかについて、美術館側と企画者が話し合いを続ける。日本でよく知られる名画の数が多いほどに観客数の増加が見込めるはずでも、入場料をいくらに設定するか、宣伝にどれほど費用がかけられるかなど、ここ半世紀の実績からおおよその読みは当たるとしても賭けの部分が残る。ネット時代になると、たとえば筆者のこのブログのように展覧会の感想を書く人がたくさんいるので、10年ほど前からか、有名ブロガーは展覧会の開催者から会期初日の前日に招待を受け、スマホ撮影も自由とされ、早々に展覧会の見どころをネットで広める。そのことが展覧会の動員数の増加にどれほど効果があるのかどうか知らない。筆者のブログのこの展覧会の感想のカテゴリーは、たいていは会期が終わった後に投稿しているから、鑑賞者を増やすことに寄与していない。とはいえ今回はまだ会期が残っている。猛暑がそろそろ過ぎて、美術鑑賞には最適な季節となり、前述のように入場者数は9月になれば増加して行くだろう。
筆者は本展をぜひ見たいと思って出かけたのではない。本展が巡回展かどうか知らないが、関西では久しぶりにヨーロッパの美術館から西洋画を借りて来ての展示で、それで見てもいいかと思った。とはいえ、予めチラシを入手せず、ネットで調べもせずで、目玉作品が何かも知らなかった。結論を言えば、やはり世界的に有名な巨匠の作は飛びぬけて優れていることを再確認した。そうそう、筆者は大正時代の有名日本画家たちが1ページごとに名前と画題を書き、印章を捺した細長の折り本を持っている。筆頭は横山大観で、当時の巨匠10数人が後に続く。面白いのは速水御舟で、彼は「雑魚」と書いている。御舟にすれば大観以外の画家は全部雑魚との思いがあったのか、あるいは雑魚を描く思いがあってその言葉を選んだのか、御舟の皮肉な眼差しが目に浮かぶ。本展に展示されるのはどの画家も最高傑作ではない。有名画家の比較的凡作と、あまり知られない画家の優れた作が並び、たいていの人は作者名で作を見るので、日本であまり知られない画家の作はつまらないと思い込みがちとなる。本展の面白さはそういう先入観を捨てて見る機会を提供するところにある。それでもなお日本でよく知られる画家の作は目に飛び込んで来るし、それほどに個性が強い。これはその画家が生きていた頃からそう思われたはずで、それゆえに模写や贋作が数多く作られた。厄介なことに、そういう作が真作と紛らわしくなっていて、本展にも巨匠ではあるが凡作があった。そういう作は時代が違えば「工房作」あるいは「贋作」にされる。またそういう巨匠の凡作が本展に混じるのは、前述の理由から理解出来る。日本でほとんど知られていない画家の秀作よりは、名の知られた画家の凡作のほうが客を呼びやすく、腐っていても鯛が求められ、雑魚は見向かれない。そこで外国の美術館から作品を借りる場合、巨匠の凡作と二、三流画家の秀作が混じり、何を見たのかほとんど記憶に残らない。だが、これが本展に対する筆者の結論的感想ではない。記憶に強く残った作はある。ヴェラスケスの「卵を料理する老婆」だ。これが展示されていることを知らなかったので驚いた。ヴェラスケスの絵はこれまで何度も日本で展示されているが、若き王女の退屈な肖像画ではなく、本作は19歳の最初期作で、天才の技量をあますところなく伝える。家内がこの絵の展示に気づき、7,8メートル離れていた筆者に目くばせした。そして絵の前に並んで数分見たが、幸い他の客は近くにいなかった。説明を読むまでもなく、描かれている陶器、金属、布、果実、卵、それに少年と老婆を順に見て行くと、油絵具で実物そっくりに描く写実の巧みさに感心する。写実だけが絵画ではなく、今では写真そっくりの作はあまり人を感動させず、ヘタウマのあくの強さが喜ばれる。そこには一時の雑魚的人気者は次から次へと現われても、天才が入り込める余地はない。
「卵を料理する老婆」は美人を描かず、ほしがる人は少なかったのではないか。この絵はスペインでは「ボデゴン」と呼ばれる静物画と人物画の双方を兼ね、また民衆の生活を描く絵は当時ひとつのジャンルとしてあった。横顔が描かれる老婆は左の少年に語りかけているのだろうが、この絵はどことなくぎこちなく、実際の光景を写真を撮るように切り取って描いたのではなく、合成した雰囲気がある。写真のない時代で、人物はじっとしていてくれないので、別々に写生し、それを元に何日も要して絵を組み立てて行くのでぎこちなさ、言い換えれば技巧が感じられるのは当然で、それが絵画を見る楽しみでもある。したがって写真においてもそのように厳密な構成を作り出して撮る手法が生まれて来るが、誰しも写真は一瞬を写したものであることを知っているので、本作のような強固性は感じられない。それは油彩画におけるマチエールがなく、ぺらぺらの質感のせいでもある。話を戻して、本作の圧倒的な技術と同居するぎこちのなさは、まだ10代の若さで描いたためと言うことは出来るが、当然ぎこちなさよりも安定感が横溢していて、すでに巨匠の貫禄を示し、本展に並ぶ他のどの作よりも数段図抜けた存在感を放っている。天才とはそういうもので、雑魚に混じって輝いて見える。絵を作りながら、老婆と少年がそこに存在していることの不思議に、描かれた当時の人も驚いたはずで、絵が作り事とわかりながら、なお絵の中に本物の人間やあらゆる物が存在価値を主張していることを知る。モデルとなった老婆や少年、描かれた物はすべてこの世から消え去ったのに、ヴェラスケスが見たとおりに今も同じように存在している。日本では写実絵画専門に展示する美術館が10年ほど前に関東に出来た。同館が収蔵する絵の画家を2,3人紹介するTV番組を数年前に見て筆者は失望した。絵も感心しないが、作者はさらにそうであったからだ。一言すれば薄っぺらい。スマホ時代の現在、4Kとか言って、デジタル画面はますます精緻になり、ヴェラスケスの絵を数億画素で画面に映じ、撮影印刷も出来る。そんな時代にもはや写実絵画はほとんど意味をなさないと思われ、一方で写真家の時代になっている。これはイメージの消費で、聖性は軽くなった。そうなると逆にヴェラスケスのような過去の巨匠の価値が強化される。「卵を料理する老婆」とそっくりの技法でたとえば現代の風俗を描く方法があって、そういう画家はおそらく一部に大勢いる。そこから新たな写実主義の潮流が起こる可能性はあるが、ヴェラスケスは時代が生み、その写実性は歴史に組み込まれて必然的に登場して来た。そしてカメラが生まれ、今はスマホでもっと精緻な「絵」を一瞬で誰でも得られる。そのスマホ画像そっくりな写実絵画が求められるだろうか。写真で済むのになぜ何か月も要して描くのか。写真そっくりに描いても写真以上にはならない。
ヴェラスケスは写真のない時代に本作を描いた。今の写実画家はみな写真を利用する。そこには本作とは違うぎこちなさが混じる。写真のない時代に写真が手軽に利用される時代の画家がどう頑張っても太刀打ち出来ない絵が描かれた。このことはよく考えてみる価値はある。そこで写真を一切使わずにヴェラスケスと同じように対象を前にした素描の積み重ねを基本として写実的に油彩画を描く立場があるが、生活の中に映画やTVがあって、ヴェラスケス時代と同じ環境に身を潜めることは不可能だ。そこでどうしても写真と対抗した作画になるが、そうなるとその面白さは写真にはないアイデアを使うしかない。そこでリチャード・エステスのようなハイパーリアリズムの画家も登場したが、彼の風景画が300年後にヴェラスケスと同じようにありがたがられるだろうか。断っておくと筆者はエステスの絵は好きだ。彼はヴェラスケスではなく、たぶんよりカナレットを意識したはずで、その系譜上にエステスは連なって歴史に残るだろう。それに20世紀のアメリカがどういう世界であったかを如実に示し、その意味でも筆者はウォーホルの作よりもはるかにエステスを好む。描く楽しさ、絵が少しずつ完成して行くことの楽しさを知っていた点でエステスはヴェラスケスに通じている。エステスは写真を使いながら、現実にはそのまま存在しない風景を描いた。それはヴェラスケスとは方法が違うものの、根底では共通性がある。絵は現実の一瞬を切り取ったものではなく、入念に画面に構成するという意識においてで、その強固性は画家の精神のそれを表現しているとも見られる。話を戻して、現代の写実絵画が写真では不可能なことを目指すとして、それはひとつのアイデアを見つければ後はそれを繰り返すだけという安易な方法、言い換えれば職人的技術の獲得に向かいやすい。それが個性として大いに持てはやされ、また作家もそれを望むことによって、前述した雑魚的作家を大量に輩出することになっている。何が言いたいかと言えば、「卵を料理する老婆」に似た絵をヴェラスケスは描かなかったことだ。数点は描いたかもしれないが伝わっていない。宮廷画家としておそらく退屈な王族の肖像画を量産するかたわら、ヴェラスケスは風景画にも関心を抱いていた。それらは小品だが、忘れられない印象深さが画集からでも伝わる。写真には出来ない写実を目指し、ちょっとした思いつきで描いた作が人気を博し、その後似た絵、技法でも考えでも同じ作を量産するような雑魚的考えはヴェラスケスにはなかった。そのことは「卵を料理する老婆」からもわかる。それほどこの絵は本展では際立っている。とりわけ筆者が感心するのは卵を浮かべる陶製の器だ。この赤い色がとてもよい。その弁柄色は老婆の上着に呼応し、少年の持つ黄色の瓜、少年の頭髪というように、描かれるものを順に見回させる。
即興で思いつくまま書いている。この調子では本展の感想は丸1日費やして書く羽目になる。それで最も感動したヴェラスケスの絵について最初に書いたことは正しかった。先にエステスのことについて触れたので、本展の風景画について少し書いておく。博物館の玄関横、大通りに面して本展出品作を拡大印刷した4,5点の布がポスター代わりに下げられていて、そこに見開きチラシでも紹介される「アメリカ側から見たナイアガラの滝」と「デダムの谷」があった。前者はアメリカのフレデリック・エドウィン・チャーチによる1867年の巨大な油彩画、後者は有名なコンスタブルが1828年に描いた。前者は写真代わりに雄大で珍しい風景を意図し、後者はイギリスの見慣れた田舎を描く。前者は説明に滝を眺めるふたりの人物云々とあって、どこかと探すと画面左端半ばに小さく描かれていた。滝の大きさを示す意味でもその点景人物は必要で、この絵を見る人はその人物と同じように滝の大きさを感じ、一方でこの大作を描いた根気よさにも感心する。写真を見れば、あるいはナイアガラの滝に訪れればこの絵の意味はなくなるかと言えばそうではない。自分の経験をこの絵に重ね、さらに見どころを発見する。それは写真のように描かれているという見世物的効果に感心することが根底にあって、その効果を画家が狙っている点でコンスタブルの作より軽い印象をもたらしている。全体にぼかしが効果的で、その優しい印象は見ていて心地よい。「デダムの谷」はどぎつい色は全く使っていないのにぎらつき感がある。水面も描かれてコンスタブルの画風を典型的に示すが、雲の表情に動きがあり、悪く言えば嵐の予感、よく言えば快活な生活感が反映され、「見世物」的効果が主な狙いではないことがわかる。イギリスは風景画で有名で、その代表としてコンスタブルの大作が今回展示されたが、そう言えばターナーの作もあった。またイギリスと言えばラファエル前派の作が展示されてしかるべきで、本展では若い女性を描くミレイの作が見開きチラシに印刷される。フランシス・グラントが嫁ぐ前の自分の娘の雪の中でも立ち姿を真正面から描いた作は10等身ほどあって誇張が過ぎる。その頬を赤く染める様子はチラシの表に印刷される本展の目玉作でレノルズによる「ウォルドグレイヴの家の貴婦人たち」の三人の若い女性と同じで、平手打ちを食らったかに見えるが、白人女性の血色のよさはこのとおりと思わせる。ブーシェの縦長の3作は画面下半分に複数の男女、上半分に空と樹木を描き、また構図は若冲の縦長の水墨画と全く同様に直角三角形構図で、さらに量産性でも共通性があるが、ブーシェはこの3点を1760年代初頭に描き、若冲の活躍時期と同じだ。最後に書いておくと、『週刊朝日百科 世界の美術』でのスコットランド国立美術館の紹介によれば、代表的作品の多くはサザーランド公爵からの貸与品とある。
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