「
姑に 仕留められたる シトロエン しどろもどろで 値切ろうとせし」、「舅見て 用意周到 言葉する 素人知らぬ 値ほど高きや」、「見染めれば 忘れ難きや 敵でも ロミオのお前 吾と契れよ」、「千切るのは いともたやすし ジュリエット ジュエル受理して しかと遠路に」
今日は冒頭の一字に「姑」を使う番で、初の試みとして4首で意味が通ずるようにした。とはいえ、ほとんど意味不明で言葉遊びの面が大きい。駄洒落か押韻か、自分では判断出来ないが、語呂がよくてなおかつ意味のある歌を意識するのは、最近外国の詩の押韻についてしばしば思うからだ。ダンテの『神曲』が原語でどのように言葉がリズミカルであるのかは知らないが、おそらく語呂はとてもよく、駄洒落めいたことやユーモアもふんだんに含みつつ、詩の厳格な形式を守っていると思う。そんなことが筆者の頭の片隅にあり、韻律を揃えた短歌を何百も連ねてひとつの物語が作れないかと時に思う。そうした作詩はシンガー・ソングライターが得意であるべきだが、詩が文学として通用する曲がどれほどあるだろう。それはさておき、富士正晴は若い頃に詩をよく書いた。筆者はそれをほとんど読んでいない。詩は全般に敷居が高い。それでいて筆者も若い頃は例にもれずにランボーの詩に関心を抱いたが、外国の詩は言葉のリズムと意味が合致し、日本語訳を読んでも半分も理解出来ない。それにランボーの詩は訳しても意味不明のものが多く、結局フランス語を深く知る必要を感じるに至る。もっとも、フランス語を自在に操れるようになっても相変わらずランボーの詩の意味はわからないだろう。先日ビーフハートの曲の詩をひとつ訳してブログに載せた。ビーフハートにはわかりやすい詩がある一方、何を意味しているのか理解し難い超現実主義的と言える部分もよくある。ところが言葉の語呂などから、ビーフハートがどういう思いで作ったかはわかる。簡単に言えば人生前向きかその逆に厭世的かだ。当然ビーフハートは前者で、そのことがわかれば彼の詩の大部分は理解したも同然だ。と、今のところ筆者は思っている。詩にしろ音楽にしろ、他の芸術にしろ、作品は作家の人生の反映であるから、当人がどのように生きたかが作品の巧拙以上に鑑賞者に力を及ぼす。もちろん巧拙を言えば拙くあってはならないが、巧を尽くした果てに拙く見える境地に至る場合はある。最初から拙いのは論外で、批評の対象にはならない。ただし、詩となると散文よりはるかに巧拙はわかりにくい。それで筆者はまずは富士正晴から詩の世界に入ってみようかと思っている。今日の最初の写真は7月21日、香櫨園駅から西国街道を100メートルほど西の南側、2枚目は
「西国街道、その25」の3枚目の写真のもう少し東寄りの左手に見かけた。同じ蘇鉄ながら、前者は10年ほど、後者は百年以上の樹齢はありそうだ。詩の世界は才能があっての話で、馬齢を重ねても名詩は作れない。
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