「
柄悪き 刺青自慢 笑いもの 品よき絵でも 萎びて惨め」、「えも言えぬ 絵を見て言うは えも言えん 言葉尽くして エモさを飾れ」、「絵は言わぬ 見て感じれば 役目終え 感じたことを 言うは別ごと」、「思考して 志向すべしは 至高かな しかして贅の 指向は歯垢」
7月21日に神戸方面の施設を3か所訪れ、西国街道も少々歩いた。その日のことを断続的に投稿しているが、今日は大谷記念美術館での企画展。この美術館の名称の頭に「西宮市」がついたのは阪神大震災の直前、新しく建て替えられてからではなかったと思う。今年開館40周年で、30歳頃には訪れていた筆者は建て替えられる以前の館内を記憶している。その様子をある程度残した設計で建て替えられ、阪神大震災でも大丈夫であった。建て増しが目立っていた古い建物では大きな被害を受けたかもしれない。この美術館は割合珍しい企画展を開催する。その点は伊丹市立美術館もだが、筆者はここ5年ほどは同館に訪れていない。目ぼしい企画展の情報が筆者に届かないだけかもしれない。そう言えば3年前に大阪の東洋陶磁美術館で
『フィンランドの陶芸』が開催された時、同展の出品作家の女性の筆頭であるルート・ブリュックの展覧会が伊丹市立美術館で開催された。そのことを後で知り、見ておけばよかったと後悔している。同館は版画と工芸の企画展に特色があり、大谷記念美術館は絵本の原画展で特によく知られ、関西の美術館はそれなりに住み分けている。何度も書くように、ここ20年ほどは特に東京が目ぼしい展覧会を独占し、筆者が見たいと思う9割以上は東京でのみ開催され、関西に巡回しない。ブログでの美術鑑賞の感想は東京在住の人のものにおそらく人気が集中し、筆者が書く価値はほとんどない。もっとも、人気度を競うために筆者は書いておらず、他者の美術展の感想文を全く読まず、気にせず、この文章も誰がどう読もうがどうでもいいのだが、まあせっかく訪れたからにはメモ程度に書き記しておこうと考える。ここから本論。本展は大谷記念美術館開館40周年記念展のひとつで、和泉市久保惣記念美術館との所蔵品交換展だ。同館は今年50周年で、どちらも区切りがよい。和泉市の同館の存在は昔から知っていながら、筆者は訪れたことがない。それで10年ほど前に泉大津のK先生と同館の話になって時も筆者は所蔵品についての知識がなく、話が進展しなかった。その思いがずっとあるので、本展はちょうどいい機会だ。つまり、和泉市に出かけなくても、慣れた大谷美で主な作品が見られるのは便利と思った。ところが久保惣美は筆者の予想とは大きく違って、おそらく大谷美の5,6倍はあろうかという大きな敷地で、所蔵品も桁違いに多いようだ。本展はそれらからのほんのさわりの出品だ。交換展とはいえ、大谷美は全館を展示に使用するのに対し、久保惣美は一部のはずだ。
本展では久保惣美を紹介する10分ほどの映像が流された。それによれば大谷美では正面を入ってすぐにある日本庭園を外に眺める部屋の規模は、久保惣美では3倍ほどは大きそうであった。空中撮影された映像からは、同館と同じ規模の美術館はほかに思い当たらず、展示の全室をゆっくり見れば2,3時間は要するのではないか。これまで同館での企画展のチラシをたまに入手して来たが、何分和泉市は泉大津より南にあって、筆者はほとんど訪れたことがなく、足が向きにくい、泉大津のK先生や筆者の父方の親類に会いに行こうと思いながら、もう10年以上経っている始末だ。またまさか久保惣美を訪れたついでに泉大津に立ち寄るという時間もなさそうで、どうしたものかと思う。定年を迎えた夫婦が日本中の美術館を巡ることを趣味にしていることを何かで知ったことがある。筆者はそこまで熱心ではなく、また企画展に関心があるので、一度訪れた美術館はそれで興味をなくすことにはならない。それで久保惣美行きは筆者がどうしても見たい展覧会が企画されれば腰を上げることになる。それがこれまでなかったわけではないが、展覧会が終わった後に図録をどこかの施設で確認すると、もう充分という気になる。それは前述の珍しい外国の作家の作品ではなく、日本を含めた東洋美術の展示であるからで、言葉はよくないが、デジャヴ感があるからだ。ただしそうであるからこそ久保惣美は気を吐いていると言える。もっと言えば東京では見られない企画展を意識していると言ってよい。館名に「和泉市」がつくのは大谷美と同じで、個人の力だけでは維持が困難になったからだ。その点は京都の堂本印象美術館も同様で、美術館の運営はいかに金がかかり、いわば贅沢なものと言えるが、久保惣美があることで和泉市の名前が知られることがあって、美術館は町の大きな象徴となる。そのことを知識人が訴えて大阪中之島美術館は現在の姿として建ったのであって、芸術を理解しない為政者の言い分がまかり通ると、何の特徴もない、つまり魅力のない都市と化し、さらには荒れても行くだろう。聖なる空間は人の心にも家屋にも都市にも必要で、宗教に代わる敬虔さを感得させる場所として美術館は機能すべきだ。当然それは美術品あってのことで、個人でそういうものを手元に置く人でも美術館に行く必要はある。未知の美術品、あるいは知っていても新たな魅力に気づく機会があるからで、たとえば前述のルート・ブリュックの作品にしても、筆者は3年前に初めて接し、それによって新たな作家の新たな魅力に気づいた。そうした経験は死ぬまで無限に続くので、そのことに疲れ果て、どうでもいいと思うに至ることがあるのはロジェ・カイヨワの最晩年の心境から筆者はそれなりに理解するが、見てすぐにはっとさせ、その後独自の魅力が心に長く留まり続ける、つまり新鮮な思いが常に蘇るような作品は確かにある。
久保惣美がどのような作品を所蔵しているのか、本展にどういう作品が展示されるのかという前知識なしに訪れた。1階の最初の展示室は本来反時計回りに見るべきなのだろうが、筆者は時計回りにたどり、まず中国古代の20点ほどの青銅鏡を見た。これほどまとめて見た記憶になく、地味な展示ながら細密な文様の盛り上がりに驚いた。便利な道具が揃う現代でも再現は困難と想像するが、再現出来てもそれは復元であって創造ではない。それほどに中国古代の人々は自分の顔を映す平らな金属の効果に着目し、そこに神秘性を認め、また鏡面の裏側を神仙の文様で埋めることを求めた。それらの文様の意味合いは現代に継がれているが、鏡はきわめて安価で提供されるに至り、凝った装飾は不要になった。顔を映すという実用にまじないや祈りにまつわる文様は不要で、かくて人間の顔も安価な鏡と似たものになった。今や漫画やアニメのキャラクターそっくりに整形する若者まで登場し、一方で社会的に高位にある人の顔の価値が揺らぎ、あるいは重視されなくなっている。展示されるどの鏡の文様も興味深く、またそれらを所持した人たちが自分の顔を映してどのような思いに浸ったかを想像した。鏡面を下向きに展示するので、鏡面に鑑賞者の顔が写ることはないが、そのことは却ってよい。古代人が自分の顔を見た鏡面に鑑賞者が自分の顔を認めることは何か冒涜のような行為と思うからだ。それほどに鏡は霊が宿ると言えばいいか、古代の銅鏡は特にそう思わせる。所有した人の霊がこもっているように感じさせる物の代表が青銅鏡で、その霊は背面の凹凸の稠密な文様全体に広がっているとの思いを抱く。砂岩を彫って雌型を作り、そこに金属を流し込む鋳造であるので、同じ鏡はある程度量産されたはずだが、貴重な金属を使っての一発勝負で1点づつ作らねばならず、大多数の人々には無縁のものであった。ところが作るのは職人で、彼らには仕事に対する絶大な矜持があったはずだ。使った高貴な人々は忘れられたのに、作られた鏡は現存し、筆者の眼前にある。これは人間が平等であることを示しもする。無名の職人が作った物から中国の古代の歴史の一端が伝わり、当時の技術の高度さもわかる。筆者が子どもの頃、こういう話がよく交わされた。「大阪城は誰が建てた?」「秀吉やろ」「違うわ、大工や石工や!」実際そのとおりで、秀吉は命じただけで、建築には直接関与しなかった。命じた者の名前は残るとしても、「物」は作者がいてこそだ。中国古代の銅鏡は千年以上にもわたって作り続けられ、文様の変化がある。そして技術の保持はもちろんで、これ以上精密なものはないというほどに技術の頂点をきわめた。そこにはどれほど多くの職人たちの見事な仕事ぶりの協力があることか。その後、古代の銅鏡に匹敵した技術を駆使した作品を人間は生み得たであろうか。
銅鏡の次に帯鉤が40点ほどあった。現代のベルトのバックルに相当する帯留めで、金銀や貴石で象嵌を凝らしたものはその輝きを失わず、またその技術は現在の日本でも見られ、見どころの味わいがわかる人は少なくない。銅鏡と同じく獣や雲気の文様が主で、全体の流線形や動物型以外のほか、表面の抽象文様が面白い。現在の中国やモンゴルに古代の衣裳の形式がどの程度残っているのか、また復古主義によってどのようにデザインが取り入れられるかによるが、古代の青銅製の帯鉤と同じ形、あるいは少しデザインを変えたものの出番はないのだろうか。あるいは使用されているのか、櫛と同じように生活に根差したものであるだけに、現代での用途の可能性を思う。展示は帯鉤以外に誕生仏などの小さな仏像、香炉、それに泉屋博古館の常設展で馴染みの饕餮文を施した祭祀用の種々の青銅製の器が続き、中国古代の金属工芸品を系統立てて集めているようだ。縦横15センチの小型図録が800円で売られていたので買ったが、それによれば久保惣美のコレクションは久保惣株式会社と久保家からの寄贈品を核とし、「開館当初のコレクションの代表的な金属工芸は、日本、中国の青銅器で重要文化財七点を含む」と説明がある。また「開館後は、久保惣株式会社により実業家江口治郎氏旧蔵の古代青銅器をはじめとする作品が継続して蒐集され」、「金属工芸は現在までおよそ二五〇〇点」で、今回はその中から99点が展示された。2500点すべてが久保惣美で常設されていないはずだが、その全点を写真で収める図録は数冊に分ける必要があるはずで、他の絵画や浮世絵の収集とともに全貌は把握し難い。それは同館が絶えず収集品を増やしているからでもあって、作品は集まり始めると加速化することを意味してもいる。そのことは美術品に限らない。レコードやCD、本の愛好家でもよく知っていて、千点に至るまで10年要するとすれば、次の千点はその半分で済み、さらに次の千点はさらに半分の期間で集まる。話を戻す。書き忘れたが、久保惣株式会社は泉州らしく繊維業で、明治半ばに綿業を始めたが、繊維業の衰退から1977年に廃業し、三代目が旧宅と収蔵品を市に寄贈、新たに美術館が建設された。ついでに書くと、京都の細見美術館も泉州の繊維業を営んでいた会社社長の収集品を核としている。経済力がある時期に美術品を集めるのは戦前の粋人のひとつの常識であったし、また中国古代の青銅品は市場に多く出回っていて収集しやすかったのだろう。笹川良一も美術品を集めたが、目ぼしいものはほとんどなかったとされる。それに比べると川端康成が現在国宝の蕪村と大雅の合作『十便十宜図』を購入したことはさすがで、経済力の有無ではなく、どういう美術品を所蔵したかで人格がわかると言ってよい。「時は金なり」で、美術品の知識を深めるには年月を要し、経済力だけにものを言わせられない。
本展の第2部は「中国絵画」、第3部「日本美術」、第4部「浮世絵」で、この順序どおりに見応えがあった。中国絵画は有名画家の作ばかりではない。図録によると「中国絵画のコレクションは二〇〇〇年に実業家林宗毅(はやしむねたけ)から寄贈された四一一件の作品が核となっている。林宗毅は十八世紀末に中国福建省から台湾北部に移住し、事業で名を成した林本源家の出身で、林家が代々行ってきた芸術家への庇護を継続し、有名無名にこだわらず、優れた作品を蒐集した」とある。14世紀から20世紀までの作品が展示され、最後にあった鄭一柱による色鮮やかな『花卉画冊』は若冲や四条円山派の画風を思わせて面白かった。同画冊の題字や跋は長尾雨山が昭和5年に書いたことを示し、中国絵画が大いにもてはやされた時期を偲ばせる。最も新しいのは呉昌碩の岩と花を描いた対幅で、久保惣美が所属する中国絵画の全貌を知りたいものだ。その点は「日本美術」も同じだが、国宝、重文を含む所蔵点数は図録に記されていないのが気になる。本展では屏風数点が展示場所の大半を占め、他には応挙の写生と、若冲の「乗興舟」があった。屏風はどれも大作だが、作者不明の工房作と言ってよいものが3点ほどあって、六曲一双でも市場価値はさほど高くはないだろう。ただし外国人には好まれそうだ。屏風では「押絵屏風」と題するものが特に目を引いた。これは「押絵貼屏風」の意味ではなく布象嵌で、唐子や布袋、虎や鶏などの吉祥画題尽くしで、縁起のよさが求められたことがよくわかる。「押絵」の技法は今に伝わるが、画題は江戸時代とは大きく変わって乏しいものになっているだろう。若冲の「乗興舟」を久保惣美が所蔵していることは数年前の企画展の図録から知ったが、本展で実物が見られるとは予期せず、筆者は最も長い時間を割いて鑑賞した。全図の10分の1程度の展示であるのは仕方がないとして、虫食い跡か、修復跡がやや雑であるのが気になった。また説明には他館の所蔵作に比べて摺りがわずかに違うとあって、その箇所が気になり、壁面にあった縮小全図写真を凝視し続けたがわからなかった。帰りがけに小さな図録が売られていることに気づき、そこにとても小さいながら全図が掲載され、迷わずに図録を買った。帰宅後に早速ルーペで調べると、他の所蔵作と異なる箇所はわかった。ただし、本当に他の所蔵作とその箇所のみ異なるかどうかまでは調べていない。「乗興舟」は図録によれば7点存在するが、どれもわずかずつ違っていながら大差はない。またおそらく今後新たに発見される可能性はあり、筆者は断簡でもいいのでほしいと思い続けている。第4部「浮世絵」は6000点ほど所蔵するそうだが、屏風のようには嵩張らず、収蔵はさほど場所を取らずに済む。筆者は浮世絵にあまり関心はなく、ざっと眺めただけであった。今日の写真は図録を買った際にもらえたポスターだ。
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