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●『荒野のおおかみ』続き
荼羅は だらけて見れば 斑かな 目立つ模様は 誰でもなれぬ」、「放置して 被害続出 報知せず 無法の者の 法治の国家」、「振る舞いの 大きさに負う 人気度や 民を絞れば 金は無限に」、「法治とは 餓死者増えても 税変えず 放置のままに 政治家太り」



●『荒野のおおかみ』続き_d0053294_16291195.jpg 昨日の続きを書くが、まずは訂正。「荒野のおおかみについての論文 狂人だけのために」の後に「ハリー・ハラーの手記、続き」が始まることに気づいた。また昨日引用した「ユーモア」の言葉が出て来る下りは「……の論文」にあって、ハリーはその小冊子を街中である男から受け取る。ハリー・ハラーの頭文字はヘルマン・ヘッセと同じ「H.H.」で、ハリーはヘッセと思ってよいが、昨日書いた「パパ活」の言葉から連想されることをハリーが場末の料理店や居酒屋で勤しんで少女探ししていたのではない。ヘルミーネとはたまたま入った店で知り合う。そういう出会いは珍しくない。ヘルミーネはハリーが会いたい時はいつでも会うのではなく、先約があれば断る。その代わりにヘルミーネとは同性愛関係にある別の女性を用意する。その辺りが「パパ活」のにおいがするのだが、ヘッセが夜の街に繰り出して見知らぬ女性とそういう関係を結んでいたかは明らかではない。三番目の妻となる女性とは文通を続けていたとのことだが、その最初の出会いが夜の街であった可能性はある。それはともかく、ヘルミーネがハリーと出会った時の預言どおり、本書のほとんど最後でハリーは彼女がパブロに抱かれている場面を目撃し、刃物で彼女を刺し殺す。ところがそれはハリーがパブロの導きによってさまざまな部屋を巡る夢すなわち疑似体験可能な世界での出来事だ。それゆえハリーを狂人として読んでもよく、そのことを踏まえて「ハリーの手記」や「……論文」には「狂人だけのため」の断りがある。話を戻して、ハリーがヘルミーネを殺した行為をパブロも、そして同じ場面に登場するモーツァルトも、まだユーモアを理解していないと伝える。つまり、ヘッセはハリーが嫉妬から殺人を犯す設定としたのは、ヘッセが自身を客観的に見つめる必要を感じていたことと、ハリーがユーモアを学んで生まれ変わることを示唆したかったからだ。そこにはヘッセが本書を書くことで精神的危機を脱したことが明らかにされている。パブロやヘルミーネという無名の「荒野のおおかみ」と、天才の「荒野のおおかみ」であったモーツァルトとを同席させるのは、ハリーが市民社会によく馴染んだことを意味する。ヘルミーネからダンスを教えられたこともそうだ。ジャズや流行のダンスを全く知らずにモーツァルトのような大作曲家の作品のみを崇拝して生きることは自由だが、ハリーは当初のそういう立場から次第にもっと身近に生きている「荒野のおおかみ」と接し、笑いを覚えて行こうとする。そしてそのことで自殺願望から逃れる。
 また少し引用する。昨日と同じく、「……」は中略を意味する。「なぜ私は、ヘルミーネが裸でほかの男に抱かれているのを見た瞬間に、彼女を殺したのだろうか。モーツァルトの無声の笑いが、何もかも知っているように、あざけりにみちてひびいた。「ハリー」と彼は言った。「君は道化師だ。この美しい少女がほんとに君からナイフで刺されることよりほか、何も願わなかったなんてことがあるだろうか。そんな手には乗らないよ! いや、すくなくとも君はりっぱに突き刺した。かわいそうにこの子はまったく息絶えている。どうやらこの婦人にたいする君の情事の結果を明らかにするときだろう。それともその結果を回避しようとでもいうのかい?」 「いや」と私は叫んだ。「あなたは全然わかってくれないのですか。僕が結果を回避するなんて! 僕はひたすら罪の償いを、償いを、頭を首斬り刀の下に置き、罰せられ、消されてしまうことを願うばかりです」 我慢ならぬといったようなあざけりを浮かべて、モーツァルトは私を見つめた。「君はいつも悲壮だな! だが、君もきっともっとユーモアを学ぶだろう。……やむをえなければ、絞首台でユーモアを学ぶさ。その用意はできているかい?……では検事のところへ行きたまえ。そして、裁判する人間の、ユーモアのないからくりに身を投げ出し、牢獄の庭で朝早く冷たく首を斬られるところまで行きたまえ。……」 一つの掲示が突然私の前にぱっときらめいた。」この後に囲った文字の一行『ハリーの死刑執行』があり、次に裁判の場面で検事が読み上げる次の文章が続く。「諸君、諸君の前に立っているハリー・ハラーは、われわれの魔術劇場をほしいままに濫用したかどをもって告発され、有罪と認められた。ハラーは、われわれの美しい絵画のへやをいわゆる現実と取り違え、映像の少女を映像のナイフで刺し殺すことによって、高尚な芸術を侮辱したばかりではなく、そのうえ、ユーモアを解せぬ態度でわれわれの劇場を自殺機関として利用する意図を示した。それゆえ、われわれはハラーを、永久に生きる罰に処し、われわれの劇場への入場許可を十二時間取り消すことを宣告する。また被告は、一度徹底的に笑いものにされるという罰をまぬがれえない。……」 ……私がわれにかえったとき、モーツァルトが前のようにそばにすわっていて、私の肩をたたいて言った。「判決を聞いたかね。……君は笑うことを学ばねばならない。……人生の呪われたラジオ音楽を聞くことを学ばねばならない。その背後にある精神をあがめなければならない。その中のから騒ぎを笑うことを学ばねばならない。……」小声で、食いしばった歯のあいだから、私はたずねた。「でも、もし私が拒んだら? モーツァルトさん、もし私があなたに、荒野のおおかみに命令し、その運命に干渉する権利を否定したら?」この後モーツァルトは一本のタバコを差し出し、次の瞬間パブロに変化する。
 そしてヘルミーネは生き返り、パブロの指の中で将棋の駒に変化し、彼はそれをチョッキのポケットに入れる。ハリーはタバコの煙に酔い、すべてを理解する。それは「生命の遊戯の幾十万」の意味を悟ったことだ。この「幾十万の遊戯」は誰もが持っている可能性だ。「ハリー・ハラーの手記、続き」の冒頭近くにハリーの現状が書かれる。これはヘッセと同じであったろう。「あるいは、新たにされた自己省察の煉獄の火に溶かされて、変化し、仮面を脱ぎすて、新しい自我生成を営まねばならなかった。ああ、こういう経過は私にとって新しくも未知でもなかった。わたしはそういう経過を知っており、いくどもすでに、極度な絶望の時代に会うごとに、体験していた。……一度は、私は市民的名声を財産もろとも失った。そして、それまで私にたいして帽子を脱いだ人々から尊敬を受けることをあきらめねばならなかった。そのつぎは、一夜で私の家庭生活が崩壊した。精神病になった妻が私をくつろいだ家庭から追い出した。愛と信頼が一挙に憎しみと死にもの狂いの戦いに変わり、隣人たちは同情とけいべつとをもって私を見送った。あのころ私の孤立が始まった。また幾年かたち、苦しいつらい幾年かがたって、きびしい孤独と骨のおれる自己修行のうちに、新たな禁欲的精神的な生活と理想を樹立し、ふたたび生活の一種の静けさと高さとに達し、抽象的な思索修練ときびしく規制された冥想に没頭したのち、この生活形式はふたたび崩壊し、その高貴な高い意味を一挙に失ったのだ。……」 ハリーは剃刀か薬で自殺することを何度も思うが、そのことを感じたヘルミーネの導きによってダンスを覚え、パブロに会い、そしてそれまで崇めていたモーツァルトも生きている時はパブロのように眼前にいる客を楽しませるために音楽行為に勤しんでいたことを思い、やがてモーツァルトにパブロを重ねる。ふたりはユーモアを理解する点でも共通性があった。前述の囲った一行『ハリーの死刑執行』の少し後で、モーツァルトはハリーにこう言う。「たとえば、われわれはあの少女を生きかえらせて、君と結婚させることだってできるだろう」「いや、そんな心の用意はできないでしょう。そんなことをしたら、不幸になるでしょう」「まるで、君のしたことがすでに十分不幸でないかのようなことを言うね! だが、悲壮ぶりや殺害はもう打ち切りにしなきゃいけない。いいかげんに理性に帰りたまえ! 君は生きなければいけない。笑うことを学ばねばいけない。……」自殺願望、あるいは人殺しの思いを持っている人物に対して、笑って生きることを学ばねばならないと意見することがどれほど効果的であるだろう。本書にユーモアや笑いはない。もちろんそれはヘッセがユーモアをどう捉えていたかが問題で、パブロやモーツァルトとのやり取りでハリーが理解したユーモアは、タバコの煙を嗅いで突然訪れた。
 同じことがハリーと同じように生活に悩んでいる者に訪れるとは限らない。生命は幾十万とおりもあるからだが、それは当然としてなおハリーは悲壮一辺倒に生きる態度から脱してユーモアを理解する。これは生きることの楽しさと言い換えてもいい。ニーチェやドストエフスキーの著作をよく知るハリーは、あまりに人生を狭く捉え過ぎていた。ヘルミーネはヘルマンの女性形で、ハリーは彼女に会った時、一瞬男が女装しているのかと思い、名前を言い当てる。これはヘルミーネがヘッセすなわちハリーの分身の意味合いを持ち、ハリーが彼女に導かれて新しい世界を垣間見ることは、もともとハリーの定めでもあったと読み解ける。実際そうだろう。幾十万の遊戯があるとして、そのどれをも選べるとしても、選ぶ時はひとつであり、その人生における無数の選択の連なりは、結局本人の持っている力による。ハリーは自殺せずに、生きてみようと思い至る。それが人生は遊戯であることを知ったためとして、遊びであるので適当であることがいいとは限らない。相変わらずハリーはゲーテやモーツァルトの芸術を崇めるし、大衆音楽はそれなりに楽しむことを覚えた。ゲーテやモーツァルトもユーモアをよく理解していたのであって、人は幾十万の遊戯ないしその可能性を否定せず、理性で破滅行為を避けねばならない。そのように生活していてもしばしば不条理に人間は巻き込まれて命を落とす。ところで、平井正による3巻本『ベルリン』の第2巻は1923年から27年を扱い、そこにヘッセに関する目ぼしい記述は1927年7月にある。平井はこう書く。「七月二日、ヘルマン・ヘッセは五十歳の誕生日を迎えた。しかしかれはスイスに住み、ドイツを遠ざかっていた。そしてドイツから見ても、かれはすでに時代の圏外にあり、かれの時代は終わったように見えた。ドイツのニューモードのテンポとヘッセのテンポは、まるで噛み合わないように見えたのである。」一方、それに続いて平井は7月8日付けの『文学世界』紙でのヘッセに関する記事を紹介する。「ドイツの読者にとって何であるかを問う時、もう答えは『カーメンチント』にはならない……。ロマン主義者、それがヘッセの商標である。そして音楽家。……だが、それは外面的アスペクトに過ぎない。もう一人別のヘッセがいる。甚だ問題のある、危険に曝されたヘッセがいる。しばしばかれは、作品と作家の境界をとび越して、作品と自分自身の中の不協和について語った。……もう一人別のヘッセは……刺激された生の本能と知性の意志において、明日の代弁者である。」この記事は本書について書かない。同年7月の時点では出版されていなかったためかもしれないが、本書が「明日の代弁者」であることは現在の日本でも言い得る。ただし、平井の『ベルリン』でヘッセはごくわずかに書かれるだけで、同じ程度に現在の日本で本書に共鳴する人は少ないだろう。
 精神的危機を抱えていたとはいえ、ハリーすなわちヘッセは有名人だ。それに比べると先月日本の元首相を撃ち殺した男性Yは、自分の学費までが母によって宗教に寄付され、ひとりで生きるのが精いっぱいな状態で恨みを募らせた。そのことをツイッターで千回以上も投稿したが、フォロワーはひとりで、世間から無視され続けた。事件を起こしてそのツイッターは一気にフォロワー数が増加したが、これは大それたことであっても、世間に大いに目立つことをすれば注目を浴びることを意味するが、その目立つ行為は、ツイッターに日々思いを書くことでは達せられるはずがなく、自分の命と交換する決意が必要であることを証明した。その行為にユーモアはあるか。殺人にそれがあるはずがない。殺人の最大は戦争だが、ユーモアが欠如した連中がそれを引き起こそうとする。断っておくと、元首相と親しくしたお笑い芸人やコメンテイターもユーモアがあるようには見えない。あるとすれば腐り切ったユーモアで、名声と金を得たことによる優越感の笑いだ。したがって彼らは政治家と同じほど醜悪だ。以前Yに恋人がいれば人生が違っていたと書いた。貧しい若者が増えた現在の日本では恋愛は手の届きにくく、結婚はさらにそうだとされる。そこに自己責任の言葉を持ち出して、貧しい若者が恨みを募らせることを批判する者がいるが、その意見のすべては正しくはなく、また間違ってもいない。『ベルリン』でヘッセは豆粒以下のような扱いだ。ところが本書を読むと、『ベルリン』で書かれるドイツの1919年から33年までの間のすべての出来事が豆粒、つまりどうでもいいことに思える。このことは、自分を中心に見れば世界は変わって見えることを意味する。もちろんYはそのようにして事件を起こした。だが彼はユーモアを持っていたであろうか。ハリーのように女性に出会わなくても自分を客観視し、新たに生き直そうとする能力は誰にでもあるのではないか。悲壮にならず、理性を働かせる。先日紹介した『アイム』には20代の男性も登場する。路上で寝ているところを中年女性に起こされ、食堂で食べさせてもらった後、今度はその女性が路上で寝込んでしまったことを呆れながら面白く書いていて、筆者は彼のユーモアに感心した。経済性とは無関係にユーモアは持ち得る。ホームレスでもそれがあるからには、Yにあっても当然ではないか。にもかかわらず、彼は恨みから人殺しをした。『罪と罰』で書かれたこととは少し違うが、殺人は同じだ。とはいえ、Yの殺人がもたらした宗教と政治のつながりは日本を沸かせている。今後も永遠に自民党支配は変わらないという意見が大勢と思うが、ヘッセはヒトラーが登場して来る時に本書を書き、しかも政治の話を一切しない。それは政治の醜さを見限っていたからか。狡猾で馬鹿な者たちが牛耳る不条理のこの世界で、いかにユーモア逞しく生きるべきか。
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by uuuzen | 2022-08-02 23:59 | ●本当の当たり本
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